怒りの矛先
飛び出して来たのは農民の男だった。
惣一朗はとっさに岡部を突き飛ばし、男は惣一朗目がけて
棒のようなものを振り下ろし「娘のかたき!」と叫んだ。
惣一朗はいつもなら帯刀しているはずが、
兵士達と酒盛りの最中に田原が来たので丸腰の上、マントを持っており、
とっさに出来たのは男の手首を捕らえる事だった。
惣一朗にとってそれが最善の防衛・・・・・、のはずだった。
・・・・・もし、その男が握っていた棒が、刀であればまだ良かった。
しかし、農民が刀を持っているはずもなく、武器と言えば農具、
つまり『鎌』であった。
男は手首を惣一朗に強く握られた驚きで、
惣一朗の手を無理やり引き離そうと、鎌を自分の方へ
力いっぱい引っ張った。
その勢いで鋭く湾曲した先端は、惣一朗の背中を突き刺し、
そのまま肉を引き裂く「グギュッ」と音と共に
左肩から引きちぎれ、鎖骨で止まった。
惣一朗は突然起こった激痛に、手の感覚を奪われ、
握っていた力が緩んだ。
男も吹き上がる血しぶきに圧倒され、鎌を握った手を放した。
途端「カランッ」と鎌は足元へ落ち、
それを見た惣一朗はこの痛みの正体を知った。
起き上がった岡部は、突然目の前で起こった惨状に言葉を失い、
惣一朗の滴る血の音が耳の中でこだまし、
恐怖で岡部は、四つん這いの姿勢のまま動けずにいた。
農民の男は驚きのあまり、その場に尻もちをつき、
吹き出す血と共に、惣一朗の顔を見た。
それは自分の娘をムチで打って死なせた、あの将校ではなかった。
農民の男の敵は、先ほどの田原であり、
マントを持っていた惣一朗を田原と勘違いして、襲ってしまったのだ。
惣一朗は片膝をつき、かろうじて倒れそうな体を支えながら
目の前の男を見た。
農民の男はガタガタと震え、怯えた目をして泣いていた。
「オラは、なっなんてことを・・・・・、人違いで、あんたを殺すつもりじゃ・・・・・」
惣一朗は荒い息を吐き、自分の肩から血が噴き出すのを感じながら、
声を絞り出すように農民の男に言った。
「逃げなさい・・・・・」
それだけ言うと、
惣一朗はその場に倒れて意識を失ってしまった。
「少尉!少尉っ!」
岡部は惣一朗に駆け寄り、必死で叫んだ。
農民は後ずさりしながら、悲鳴ともつかない叫び声をあげて、
暗闇の中に走り去って行った。
騒ぎを聞きつけた兵士達が集まり、
惣一朗を慌てて天幕の中へ担ぎ込んだ。
山中に当然医師はおらず、みな必死で止血を試みるが、
引きちぎられた肉の繋目から溢れる血は、なかなか止まらない。
惣一朗の呼吸がひどく乱れていくのが判る。
岡部は自分を助けようと傷を負った惣一朗を、何としても救いたかった。
そこに居た兵士全員が、みな同じ気持ちだった。
だが血は一向に止まらず、
何度代えてもさらしはあっという間に赤く染まっていった。
兵士達は休むことなく交代で止血を試みた。
漆黒の闇の中、明々と照らされた天幕内で、
それは一晩中続けられた・・・・・。




