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その夜、築地牛鍋屋にて



 「惣一朗君、とうとうお義父さんの跡を継ぐことになったそうだね、

晴れて一人前か、良かったじゃないか!」

珍しく芳乃の夫、諏訪も同席して一人上機嫌で話し続けていた。


「ありがとうございます。これもひとえに諏訪様をはじめ、お義父さんや皆様のご恩情のお陰と日々感謝しております。今後とも至らないところはご指導の程、宜しくお願いいたします。」


「もちろんだとも、たまにはうちにも顔を出したまえ」

 そう言って諏訪は、また何杯目かの酒を煽っていた。

 

 今夜は築地まで足を運び、当時まだ珍しかった『牛鍋専門店』に、惣一朗の祝いの席を設けていたのだ。芳乃夫婦にも声を掛け、諏訪の都合か良かったのか、牛鍋に興味があったのか、意外にもすんなり承諾して二人揃って出席してきた。

 

 志乃は惣一朗の祝いの席だと言うのに、一人饒舌に話し続ける諏訪が気に入らなかった。だいたいそれを気にすることなく食事を続ける父、また、諏訪の偉そうな物言いを一向に意に介さずに相手をしている惣一朗が気の毒で、まだ先付けや前菜しか出ていないうちから、母と不快な顔をして、目で合図を送りながらどうした物かと思案していた。

 

 それを知ってか知らずか、芳乃がやんわり会話に入ってきた。

「惣一朗さん、そんなに畏まることないのよ、家族だけの食事会なのですから、ね、あなた。」

「ありがとうございます。お義姉さん」

「そうよ、堅苦しいのは無で目の前のお料理を頂きましょう、

次の皿もきっと廊下で待ちくたびれているわ」


 すかさずお勝も諏訪の話はもう聞き飽きたとばかりに、

話しに割って入ってきた。

 重蔵は相変わらず諏訪の態度は気にならないのか、黙々と酒と肴を平らげていた。


 重蔵が何も言わないのをいいことに、諏訪は益々得意げに癇に障る物言いをし続けた。さすがの芳乃もハラハラし始めた頃、本日の主品である『牛鍋』が三つ、南部鉄器の丸鍋にいれられて、志乃達の目の前に置かれた七輪の上に運ばれてきた。

 

 中型の七輪に木炭を入れてもらい、その上に鍋を置くと次第に汁の煮立つ香りが辺りに漂ってきた。女中がそれぞれの鍋に、大皿に盛りつけてある野菜と肉を入れ始めた。

「ひと煮立したらお召し上がりください」と言い残し、女中は部屋を下がって行った。

 

 志乃は燃える七輪の炎を見て、今日の剣道の稽古を思い出し、

惣一朗が師範代として道場で教えている事を話題にした。

 すると諏訪は急に不機嫌そうな顔になり


「今時、剣を振り回すなど暴力行為と同じだね。

人間たる者議論を尽くして相手を制するものだよ」


 酔っているのか、いかにも官僚独特の鼻持ちならない言い方をしてきた。

だが惣一朗は顔色一つ変えずに答えた。


「そうですね、ですが剣道は『心・技・体』と精神を鍛える為の修練であり、

人を斬るための幕末とは違いますから」

 

それがまた気に入らなかったのか、諏訪はすかさず

「『精神を鍛える?』商人が鍛えるのは金勘定だろう?」

そう言い終わるか否かと同時に、重蔵が飲んでいた自分の盃を勢いよく膳の上に叩き付けた。


 飛び散った酒が七輪の火に燃え移り、鍋の周りに一瞬大きな炎がボアッと上がった。


「きゃあっ!」


 志乃と芳乃、お勝が同時に悲鳴を上げてたじろぎ、

惣一朗と諏訪も一瞬動きを止め、そこに居た全員が驚いた。

 ただ一人、目の前に座っていた重蔵だけはまったく動じることもなく、

逆にそれを見た諏訪は自分が失態を犯したことに気が付いた。


「わしはもう満腹だ。先に帰る」


牛鍋を食べることなく重蔵はゆっくり立ち上がり、一人座敷から出て行ってしまった。


 それを皆言葉なく見送り、先に口を開いたのは芳乃だった。

「あなた、今のは少し言い過ぎだと思うわ。お父さんに失礼ですわ」

「ふんっ、酒の席では無礼講じゃないか」


 諏訪も多少は焦っているのか、また酒を煽りだした。

そんな諏訪を見かねて、父を心配した芳乃が母に尋ねた。


「お母さん、お父さんを一人で帰らせて大丈夫なの?」

「大丈夫でしょう。明日も早い仕事だし、ちょうどいいわよ」

「俺が送って行きましょうか?」


 心配して立ち上がろうとした惣一朗を母が引き留めた。


「主役が抜けてどうするの。それにもう店の人が人力車を

手配してくれているわ。それより諏訪様、よろしいでしょうか?」

 

 お勝は今日こそこのいまいましい役人に、腹に貯めていたものを

ぶちまけてやろうと、今の出来事で決心して諏訪に向き直って言った。


「何でしょうか、お義母様」


 諏訪はまた酒を煽り、煮えた牛鍋を食べながら、

何事もなかった顔をして返事をした。


「芳乃も嫁いで早や六年。『三年子無は去れ』と江戸の頃では

言ったそうじゃありませんか。うちはいつでも芳乃を返してもらって結構なんですよ」


「お母さん?急に何を言っているの?」


 突然の母の恐ろしい言動に、先に反応したのは芳乃だった。


「それでどうしろと?」


 諏訪は驚く風でもなく、お勝の話しを聞き流していた。


「うちの人も、もう還暦を過ぎたのにまだ初孫の便りもありません。

もう少し芳乃を可愛がってくれてもいいんじゃありませんか?」


「おっお母さん、なんて事を言い出すの、信親さんに失礼だわ」


 芳乃はあっと言う間に紅玉林檎の様に真っ赤になってしまい、

母の赤裸々な話にあたふたし、諏訪と母を交互に見まわしながら、

困り果てた顔でとうとう顔を手で覆い隠してしまった。

 当の諏訪は個人的な部分を急に突かれ、さすがに不機嫌そうだ。


「お義母さんのお気持ちは良く解ります。我が家でも両親に催促されて

困っていますから芳乃の苦労も承知しています。

 ですが、こればかりは授かりものですしね、

忙しいなりに時間は作っているつもりですよ。

そう、こうしてここにきてあげているじゃないですか。」


 さすがのお勝も今の言葉には堪忍袋の緒が切れたらしい。


 志乃と惣一朗にも『プチっ』と何かが切れた音が、聞こえたような気がした。


「そうですが、ではこれからの時間は全て芳乃為に使ってやってくたさい。母からのたっての頼みです。本日は遠いところをわざわざお越し下さり誠にありがとござました!」


 お勝はそう早口で巻くし立てると、廊下に向かって大声で叫んだ。

「誰か、女中さん!お二人がお帰りですよ!誰か!」


「お母さん、急にどうしたの?こんなの嫌だわ、惣一朗さんにも失礼よ!」

 困惑した芳乃が母を止めようと、必死になって説得していたが、

志乃と惣一朗がなだめてどうにかできる雰囲気では、とうに無くなっていた。


「芳乃!帰るぞ!」


 諏訪は勢いよく立ち上がったが、すでにその足元はふらふらだった。

 すかさず芳乃が脇腹を支え、諏訪は芳乃にしがみつくようによろけながら、

階段を下りて帰って行った。


 残されたれた志乃と惣一朗は呆気にとられ、しばし二人が去った廊下を見ていた。その間、悠然と牛鍋をつついて、お勝は酒を飲んでいた。

 

「お母さん、あんなこと言って大丈夫なの?お義兄さんすごく怒っていたみたいよ」

「あれでも言い足りないくらいよ、あ~いやだいやだ。やっぱり役人なんかに嫁がせるんじゃなかったわ。いっそ子供がいない今のうちに、本当に離縁させてしまおうかしら」


「お義母さん、ああ見えてお義兄さんはお義姉さんのことを大切に思っていますよ」

見かねた惣一朗が、諏訪の悪態をつくお勝をなだめた。


「どこがなの?今の態度をみたでしょう?うちの人の前で商いを馬鹿にしたのよ。きっと芳乃のことだって奉公人の一人にしか思っていないのよ!」

そう言うと、また牛鍋をえいえいっとつつき出した。


「俺にはそうは見えませんでしたよ」

「惣さん、あなたは人が良すぎるのよ。これから嫌と言うほど悪人と出くわすわよ」

「そんなことはありませんよ、きっと近いうちにいい知らせがきますよ、大丈夫ですよ」

「そうだといいんだけど・・・・・。早く孫の顔が見たいわぁ」


 お勝は目の前の二人に目が留まり、はたと気が付いた顔をして聞いて来た。

「ところであなたたちの子供は、いつになったら見られるの?」


「私たちはまだいいの!」

「同じくです」


 すかさず惣一朗も答え、二人で顔を見合わせて微笑んだ。

 その幸せそうな顔を見たお勝は、肩をすくめるとため息交じりに納得した。

 三人は残されたご馳走を平らげ、日本橋までの家路をぶらぶらと歩いて帰って行った。


 ********************************


 その夜、高倉家の離れですでに床に着いていた志乃と惣一朗は、

枕元のランプの下で今日の出来事を話し合っていた。


「ねぇ、惣一朗さん。どうしてお姉さんたちが大丈夫だと思えるの?

私だったらあんな家、息が詰まってとっくに飛び出しているわ」

「君ならそうだろうね」


 枕元で本を読みながら、惣一朗は軽く返事をした。

「ひどいわ!それは私がわがままってこと?」


 志乃はおもいっきり頬を膨らませてスネて見せた。

 惣一朗は本から志乃に視線を移し、志乃の方を向いて肘杖をついて答えた。


「違うよ、人には相性があるって言っているんだよ。

例えば俺は婿養子になんの抵抗も感じないけれど、

それは絶対に嫌だと言う男もいるだろう?」


「それとこれと、どう関係があるの?まだよくわからないわ」

 志乃は惣一朗の隣で、うつ伏せに枕を抱えながら、転がってうなっていた。


「俺が見たところ、単にお義兄さんは自尊心が強すぎて不器用なだけなんだよ。もっとお互いで話し合えば、解決する単純な事だと思うな。それにお義姉さんも君ほど自分を表にださないだろう?だから何となく今日まで来てしまったんじゃないかな」

 

 さも二人の心中を解っているような惣一朗の雄弁さに、まだ納得のいかない志乃は

「でも話し合ったって、好きでもない相手と結婚していたら、幸せになれないわ!」

とムキになって反論した。

 だが惣一朗はいたって冷静に答えた。


「好きあっているだろう」

「うそっ!本当に?」

「見えない?」

「見えない!」


 そうキッパリと答えた志乃を見て、惣一朗は何故か笑いを含んだ目を向けると、軽いため息をひとつつきながら

「・・・・・まだまだ、だな」

とひとこと言うと、また視線を本へと移した。

「もうっ!子供扱いしてー!」


 惣一朗の態度に腹をたてた志乃は、自分の枕を惣一朗に押し付けようとしたが、簡単に交わされ、逆に志乃が仰向けに押し返されてしまった。

 押し倒された志乃の上に惣一朗はまたがり、更に枕を握る志乃の両手も押さえられてしまった。


 一瞬の出来事に驚く志乃に、惣一朗は顔を近づけると、今度は目を細めて優しくささやいてきた。


「もう、子供じゃないだろう?」

「・・・意地悪ね・・・・・」


 志乃は急に恥ずかしくなり、ぷいっと顔を横に背けた。

惣一朗は志乃の細いうなじに口づけし、そのまま首筋から下へと辿っていった。


 この二年半で、志乃の体は夜ごと女としての幸せを感じる様になっていた。

 惣一朗は、志乃のその柔らかく滑らかな肌に触れ、いつも優しく愛してくれる。

志乃は自分の髪の毛の先まで、全身全霊で惣一朗を感じられる、このひと時が待ち遠しいと思える程に、大人になっていた。

 

 愛し愛される自分とは対照的な姉、芳乃の事がふと頭をかすめたが、すぐに惣一朗によってかき消されてしまった。

 志乃は今夜も惣一朗の腕の中で、幸福感に包まれながら眠りについた。



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