重蔵からのお墨付き
志乃達が結婚して二年半が過ぎた頃、いつもは早朝から出掛けて、
滅多に朝食の席に居ない重蔵が珍しく茶の間に座っていた。
「お義父さん、お早うございます」
「あ、お父さんお早うございます。珍しいわ、今日は家でお仕事?」
一緒に朝食を頂きに、茶の間に入って来た志乃と惣一朗、が少し驚いた顔で重蔵を見た。
「たまには皆と一緒に食事でも、と思ってな」
そう言いながらも、重蔵はすでに食事はほとんど食べ終わり、たくあんをボリボリとほうばりながら茶をすすっていた。
そして惣一朗を見て、静かに話し始めた。
「惣一朗君、君に教える事は、もうほとんどない様だ」
普段、仕事以外の会話はほとんどしない重蔵が、急に唐突な話をしたものだから、お勝は食べていた筑前煮をポロリと落とし、慌てて箸まで落としてしまった。
「あなた、どうしました?どこか具合でも悪くなりましたか?」
惣一朗も志乃も、唐突過ぎる重蔵の言動に、しばし無言のまま立ちつくしていた。
「まぁ立ってないで、座って飯を食べながら聞いて欲しい。お市、入りなさい」
「はっはい!」
お市もまた、扉近くで重蔵の普段と違う雰囲気に圧倒されて、惣一朗達の朝の膳を運べずに立ちすくんでいた。お市は志乃と惣一朗の前に膳を並べ、急いで茶の間の扉を閉めて出て行った。
重蔵はすっかり完食し、膳を脇に寄せてあぐらをかくと、惣一朗を前にしてまた話し始めた。
「この二年半、惣一朗君は本当に良く頑張ってくれた。売り上げも上がっている。奉公人達も君を慕っているようだ。わしもとうに還暦を過ぎた・・・・・。
体が動くうちは働くがいつどうなるか分からん。
これからは店を君に任せようと思っている。高倉を背負うつもりで、今後とも励んでもらいたい。」
今まで店はお勝と番頭が切り盛りしていたが、商談事は全て重蔵が一手に引き受けてきた。
そんな高倉家の中において、確かに惣一朗の活躍には目覚ましいものがあった。
すでに横浜への荷物の検品は惣一朗の担当となり、ひいきの客への顔合わせは全て終えていた。買い付けの商談にも、月に一度は重蔵に同行して、今までの重蔵の経験を叩きこまれていた。最近では築地の外国人居留地にも、惣一朗は積極的に行くようになり、これには志乃も同行して通訳をして輸入契約の手伝いをした。
だが、まだたったの二年半だ。
年期の入った気難しい重蔵が、これほどの大事をたったの二年半で決めるとは思いもしなかった。
驚いた顔の母と、神妙な顔で父の話に聞き入る惣一朗、そして何事もない顔で茶をすする父を交互に見比べ、志乃は胸に感動の波が押し寄せて、たまらず声を上げた。
「ありがとう!お父さん!惣一朗さんを認めて下さったのね!」
「ん?まぁゴホン、そういうことだな」
「嬉しいわ!お母さん今日は特別な日だわ!お祝いしましょうよ!
なんて素敵な日なのかしら!お父さん本当にありがとう!」
我に返った母が、無邪気にはしゃぐ志乃をたしなめた。
惣一朗は自分の膳を脇に寄せて、重蔵を前に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。お義父さん、自分はまだ若輩者、そのような言葉を賜り感謝いたします。お義父さんのご期待に添える様、この惣一朗、今後とも精進してまいります。今後ともご指導いただけますよう、宜しくお願い致します」
「うむ、頼んだぞ」
それだけ短く返事をすると、重蔵はそそくさと茶の間を後にし、いつもの様に仕事に出掛けて行ってしまった。
お勝はあの気難しい重蔵がよくも決心した物だと、まるで狐につままれたような顔をして、重蔵の消えた扉の方を見つめていた。
志乃は嬉しさのあまり惣一朗の手を取り、自分の胸の近くに持ち上げ、両手を添えて
「良かったわね、惣一朗さん!お父さんに認めてもらえたわ、嬉しい!」
まるで自分が褒められた子供のように、志乃は目を輝かせて惣一朗を見た。
そんな志乃を見た惣一朗も、緊張がほぐれたのか、一息ついて
「びっくりしたよ、突然言われるなんて、心臓が止まるかと思ったよ」
「そう?惣一朗さんはとても堂々としていてそんな風には見えなかったわ。それに唐突なのは高倉の血筋なのよ」と訳の分からない説明をした。
「私も驚いたわ、まだ二年半ですもの、もう『任せる』だなんて・・・・・。
よほど惣さんを気に入ったのね。これは責任重大よ、惣さん!」
「はっ!肝に銘じます!」と言うと三人は笑い出し、やっと朝食を食べ始めた。
すっかり冷めたみそ汁も、今日は格別に美味しい味がした。
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二年半も経ち、仕事にもずいぶん慣れてきた惣一朗は、時間を調整して月に数日の休日を作れる余裕も出来ていた。
そんな日は大抵、志乃の為に使い、二人で仲良く出掛けていたのだが、結婚してから早朝や夜遅くに離れの庭で惣一朗が竹刀を振っているのを、志乃は何度も見かけていた。
あれほど熱心に打ち込んでいた剣道なのだ、もう一度道場に通ってみては?と勧めてみたが、仕事に差し障りが出るからと、やんわり断られていた。
高倉の為に気を遣って、自分の好きな事もせずに一生懸命尽くしてくれる惣一朗に、母からも説得してもらったが、首を縦には振ってもらえなかった。
だが、半年前に河野から、時々でいいから道場に顔を出してほしいと誘いが来ると、案の定、水を得た魚の様に生き生きとし出し、始めは躊躇していた道場通いも、今はにこやかに手を振り出掛ける様になっていた。
もちろん、仕事にも一層励むようになったのは、言うまでもない。
そして月に四、五回は弟子達に稽古の指導をつけるようになり、
益々精力的に毎日を過ごしているように感じられた。
志乃は、惣一朗がまた道場に通い始めてくれて、心の底から喜んでいた。
やっと惣一朗らしさを取り戻してくれたようで、その凛々しい袴姿を見るたびに昔を思い出し、何度も胸がときめくのだった。
そして今日は惣一朗が道場に行っている日、その勇姿が見られる日。
先ほどの父の激励もあり志乃は上機嫌で支度を終え、道場へと向かおうとしていた。志乃のその浮かれた背中に向かって、お勝が呆れた野次を飛ばしてきた。
「また観に行くの?お前が行ったらかえって邪魔になるだろうに、たまには惣さんを一人にしてあげなさいな」
「失礼ね!だからちゃんと『お弁当』っていう口実があるんじゃない!」
ムッとしながらも大きな風呂敷を抱えて、お市と一緒に玄関を出た志乃の顔は、すでに満面の笑顔になっていた。
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道場では新しい、若い弟子たちが沢山入門していた。
武士の時代は終わり、『武芸は古い』と一見廃れた様に思えたが、逆に今まで習えなかった庶民の間で急速に広まり始めた。だが教える者が圧倒的に不足していた。
明治に入り、官職や警察に入れなかった下級武士がそのまま師となればよいのだが、やはりまだ身分制度が根強く残る時代に於いて、庶民に剣術を教える元武士は少なく、また武士と言え、腕前にも落差があった。
そんな中、惣一朗は庶民出身ながら腕前はすでに師範代、
河野は惣一朗の道場復帰を大いに喜んだ。
もちろん惣一朗の生家、杉田家には道場に通っている事、
高倉家の婿養子になっている事の何一つとして知らせてはいない。
それが惣一朗の為だと河野も承知しているからだ。
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道場では間もなく昼を迎える時刻、道場の門の入り口に立っている弟子の一人が、玄関に立っている弟子に向かって叫んだ。
「おーいっ来たぞーっ!」
「本当か?みんな、来たぞー!」
道場の玄関に居た弟子が、今度は道場内の弟子達に向かって叫んだ。
「来たのか?早くしろ!汗を拭け、お前それ片づけろ!」
と各自で叫び合い、急に道場内は騒然とし始めた。
惣一朗が稽古をつけていた相手も突然ペコリとお辞儀をして、門の方へ駆けて行ってしまった。
「志乃さんが来たようだね」
「そのようです」
河野と惣一朗は仕方がないと肩をすくめて、苦笑した。
道場の門に到着した志乃とお市を、一列に並んだ弟子達が、門から玄関まで左右に並び出迎えていた。皆一斉に志乃に向かって「お疲れ様です!」と大きな声で頭を下げた。
「皆さんも、いつもご苦労様です。」
そう志乃が微笑むと、途端に皆の顔がぐにゃりと緩み、
疲れが吹き飛ぶ瞬間でもあった。
「いつもすまないね、重たいのに」
道場の玄関で惣一朗が立って待っていた。
「いいのよ、私が見たくて勝手にお邪魔しているんですもの。
はい、これはお弟子さん達の分よ」
惣一朗はお市から弟子達の握り飯と漬物を受け取り、弟子に渡した。
皆歓声を上げて、各自で持参した弁当よりも先にそれを平らげて、あっと言う間になくなってしまった。
志乃は河野にも重箱弁当を渡した。
河野は礼を言うと、二人に気を遣ってか決まって奥の間へ行く。
お市は弁当を届けるとすぐに店に戻って行った。
志乃にとってこのひと時は、何ものにも代えがたい大切な時間だった。
ひと汗かいて充実した顔をしている惣一朗を隣で見る。
たったそれだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるのだ。
弟子達から少し離れた縁側で、惣一朗の隣に座る志乃。
絵のような二人の光景に、弟子達は羨望の眼差しを向け、邪魔する者など一人もいなかった。
「稽古のあとの弁当は、いつもうまいなぁ」
「私が作ったものじゃありませんけど」
「どうしたの、急に?嫌味を言ったつもりはないよ」
「分かっているわ・・・・・」
惣一朗は不思議そうに志乃の顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい、私、妻らしい事の一つも出来なくて・・・・・・。
ここに来る途中、久しぶりに女学校時代の友人に会ったの。達子さんって言って、今はお医者様の助手をされているんですって、立派よね。みんな卒業して、教師になった人やもちろん結婚した人もいたそうよ」
「そうか」
「私がお弁当を沢山持っているのを見て、作るの大変でしょうって言われたから、つい一緒にいたお市さんが作ってくれるから平気よって答えたの・・・・・。
そしたら急に変な顔されて、
『お嬢様は苦労が無くていいわね』って・・・言われちゃった・・・・・」
笑いながらそう言った志乃は、言い終わるとうつむいてしまった。
「そんな言葉を気にすることは無い。
料理は奉公人が仕事としてやっているんだし、志乃は君にしかできないことで
店の役に立っているじゃないか」
「店の役に立っていても、惣一朗さんの役に立っていないわ!」
顔を上げた志乃の瞳は真っ赤になっていて、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「ばかだなぁ・・・・・・」
惣一朗は子供を諭すように志乃の頭をポンポンとなでて、今度はその頬を惣一朗の大きな手で包んでくれた。
「君は君でいることが、俺にとっては一番大事なんだって言っただろう?
妻だからああしろ、こうしろは、俺にはどうでもいい事なんだよ」
志乃を見つめる惣一朗の瞳はいつも優しくて、
優しすぎて志乃はつい甘えてしまう。
「惣一朗さん・・・・・・。」
見つめ合っていた二人は、急に視線を感じて同時に振り向くと、
障子の隙間から弟子達が鼻息を荒くし、興奮気味で覗いているではないか!
「こらっ!お前たち!」
「すみませんでした!!!」
惣一朗の喝に、皆一目散に道場の奥へと走って消えて行った。
二人は笑い出し、それからそっと、惣一朗は志乃に口づけをしてくれた。
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休憩時間も終わり、午後の稽古が始まった。志乃は少しだけ見学してから帰って行った。
また道場内に激しく竹刀の打ち合う音が響き渡り出した。
「兄者!どうしたらあんなに綺麗で可愛い人と結婚できるんですか?」
皆、口々に惣一朗に質問しながら挑んで行くが、束でかかっていっても、あっさり返り討ちにされた。
「そうですよ、今日こそ教えてください」
「バシッ!ドタンッ!痛てえっ!」
竹刀で打たれながらも果敢に惣一朗に挑んでくる弟子たち。
惣一朗は苦笑するしかなかったが、志乃が来るようになってから、
弟子達のやる気が上がったのも確かなようだった。
必死に打ち込んでくる弟子達を、惣一朗は軽く交わす。
けして惣一朗から一本を取れない弟子達は、常に惣一朗に敬意を払いながらも、いつかは打ち負かしてやるぞと闘志を燃やしているのだが、暇さえあれば口に出すのは『美女に出会う方法』ばかりなのが若者らしい。
「俺くらい、強くなったら出会えるよ」
そしてまた一人、惣一朗の竹刀の餌食にされた。
惣一朗の容赦のないしごきにも粘る弟子達に、以前、惣一朗が通っていた時とは比べ物にならぬほど道場は活気に満ち溢れていた。
河野と惣一朗はそんな少年達が大好きだった。




