志乃と惣一朗
菊次郎は気の強い志乃を面白がって、心から弄んでいた。
東京出の、垢ぬけた美しい女をすぐに手込めにするのはもったいないという、
田舎者の出し惜しみから、逃げる志乃の帯をほどきながら、
昔の老中が武士の妻を弄ぶようにジワジワといたぶっていた。
帯がほどけたせいで着物の裾を踏んだ志乃が転んだ隙に、
あらわになった足に触ると
「すべすべじゃねえか」
と言って手下たちと一緒に笑った。
志乃は毛が逆立つような悪寒を感じで身震いした。
恐怖でだんだん体か動かなくなっていく気がする。
志乃は菊次郎を突き飛ばすと扉の方に走って逃げた。
だが手下の男になんなく捕まり、菊次郎の方に投げられてしまった。
とうとう着物を剥ぎ取られ、長襦袢二枚になった志乃は、
荒く息をしながらさるぐつわを外そうとしたが、
男の力で硬く結ばれた紐は簡単には外せない。
せめて声さえ出せれば、誰かに気付いてもらえるのに!!
こんなこと、許されるはずがない!!
追いかける菊次郎の手を志乃は払いのけたが、、志乃の束ねた髪を
後頭部から鷲掴みにされて下に引っ張られた。
顎が上り、首が伸びて苦しい。
すると志乃の首筋を菊次郎が舌で一線を引いた。
そのおぞましさに志乃は足の力が抜けてへたり込み、
その隙を菊次郎に馬乗りにされてしまった。
「鬼ごっこはここまでかい?威勢がいい割にはたいしたことはねえな。
俺に舐められて、やっとその気になったのかい」
菊次郎は得意げに志乃の顔の上で相変わらずニヤついているが、
志乃は激しい吐き気とめまいで意識が遠のいて行き、
もはや抗うことが出来なくなっていた。
観念したものと勘違いした菊次郎は、志乃の片足を持ち上げてさすり始めた。触られた途端、全身を電流が駆け巡るような悪寒で我に返った志乃は、思い切り菊次郎を押しのけた。
「何だ、まだそんな力が残ってやがんのかよ」
志乃は足をさっとしまい、その場で菊次郎を睨み付けた。
菊次郎も志乃の迫力に押されて手が出せず、
なかなか二人の距離が縮まらずにいた。
見かねた手下の一人が、
「俺たちが押さえておきますので、そろそろ仕上げになさった方が
いいのでは?女の連れが戻ってきますぜ」
菊次郎は志乃に夢中になっていて、惣一朗の事をすっかり忘れていた。
「お、おう、そうだな。俺もそろそろ飽きてきたところだ。さっさと済ますか」
志乃は押さえつけてくる男たちに必死で抵抗しながら、
出ない声で懸命に叫んだ。
『いやぁ!惣一朗さん助けて、いやあ!』
男達がもがく志乃をようやく床に倒したその時、扉が轟音と共に蹴破られた。
室内を一瞥した惣一朗は、志乃を見つけると素早く駆け寄り、
周囲の男たちを木刀で次々となぎ倒した。
手下たちは抵抗する間もなく、あっという間にバタバタと倒れてしまった。
瞬殺で手下達ががやられてしまった光景を、初めて間近で見た菊次郎は
腰を抜かして、惣一朗に助けを求めた。
「何もしてねぇ。まだ何もしてねえんだ。本当だ。女に聞いて見な!」
惣一朗は鬼神のような顔で菊次郎を見下ろすと、木刀を構え、
わめく菊次郎の言葉を黙殺した。
静かになった小屋に、さるぐつわをされ、ぐったりとした志乃が
横たわっていた。惣一朗は志乃を抱き起すと、さるぐつわを外してあげた。
頬には紐の跡が赤くみみず腫れの様に浮いて痛々しかった。
「志乃、遅れてすまなかった。昨日も今日も、俺が付いていながら
怖い目に遭わせてばかりで、本当にすまなかった」
志乃は何も言葉が浮かばず、ただ涙がとめどなく流れるだけだった。
そんな志乃を抱きしめる、惣一朗の腕がかすかに震えているのが、
志乃にも伝わってきた。
(惣一朗さんが震えている・・・・・・?惣一朗さんが?)
何事にも動じないこの惣一朗が狼狽するなど、志乃には信じられなかった。
惣一朗の震えが伝わった瞬間、志乃の恐怖はもう消えていた。
それより、惣一朗がどれ程心を痛めたのか、
それを考えただけで、志乃の心は張り裂けそうだった。
重蔵の言う通りすべての元凶は自分がついて来たせいなのだ。
惣一朗の背中の傷も、自分がさらわれたのも、みんな、自分のせい・・・・・・。
そうはっきりと判ると、自分がやはり幼くて、
惣一朗にふさわしくない女のように思えて余計に涙が溢れてきた。
しばらく抱きしめていた惣一朗はやっと安堵して、志乃を離すと
その場で茫然としている志乃を気遣い、髪の毛を整え着物まで着せてくれた。
人形の様にされるがままになっている志乃をみて、
惣一朗は志乃の心が傷を負ったと感じ、自分を責めた。
二人は大野屋に戻る間、一言も語ることは無かったが、
惣一朗の手は志乃と固く結ばれていた。
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宿に戻ると重蔵達が帰っており、青い顔で二人を待っていた。
「大丈夫だったのか、志乃!惣一朗君ありがとう!本当にありがとう!」
志乃が連れ去られた時、何もできずにただ見ていた女将たちも、
ホッとした表情を浮かべて志乃達の帰りを喜んだ。
その夜、生江家から見舞金として二十円が届けられた。
その大金に驚いたものの、余市と佐助はこぞって怒り出していた。
「こんなはした金で、うちのお嬢様をかどわかした罪が、
免れると思っているんですかね」
「ああ、宿の下男から聞いたが、本当に寸前の所だったらしいぞ。
惣一朗君の到着が五分でも遅かったら、志乃は自分で命を絶っていただろう」
余市と佐助はブルっと震えあがり、重蔵を見た。
重蔵は普段から冗談を言わないのだ。
三人とは別の部屋に居た惣一朗は、志乃が戻って来るのをじっと待っていた。
宿に戻ると人形の様だった志乃は、すぐに風呂場に向かい
体中を洗い続けていたからだ。
なかなか戻ってこない志乃を心配して、何度も女中に様子を見てもらうが、
ちゃんと風呂場に居ると知らせが来るが、当の志乃はまだ戻って来ない。
よほど嫌な目に遭ったのだろう。
惣一朗が目にした時、志乃は男たちに押さえつけられていた。
あれがもし、少しでも遅くれていたら・・・・・・。
考えただけでも腸が煮えくり返るほどの、怒りが込み上げてくる。
惣一朗は頭を振り、必死で考えないようにしたが、
男たちに押さえつけられていた、志乃の姿が目に焼き付いて離れなかった。
・・・・・どれ程怖かっただろう、志乃。
・・・・・今更だが、惣一朗は思い出した。
・・・・・自分が結婚したく無かった理由を・・・・・。
惣一朗が顔を覆い、出窓に足を掛けて座っていると、
ようやく志乃が戻って来た。
ハッと気が付いて惣一朗が顔を上げると、弱々しそうに志乃が部屋の襖を開けた。
「志乃・・・・・・。」
「遅くなってごめんなさい」
「いや、そんなことはないよ。さっぱりしたかい」
「多分、大丈夫かな・・・・・・」
浮かない顔で答える志乃に、なんと声を掛けていいのか
ためらしながら惣一朗は、志乃を近くに呼んで優しく諭した。
「君は何も悪くないよ。犬にかまれたと持って忘れるんだ。いいね」
志乃が部屋の壁にもたれて座ると、惣一朗は傍に寄り、志乃の手を握った。
「どうしてそんなに優しいの?惣一朗さん。こんな私は嫌いになったでしょう?」
惣一朗が驚いて見つめた志乃の瞳は、いつもと違って静かな目をしていた。
「嫌いになる訳ないじゃないか。馬鹿な事を言うんじゃない」
「・・・・・・覚えている?こっちにくる前に、
夜に惣一朗さんとほうきで手合わせしたのを」
「ああ、覚えているよ。お転婆さん」
「あの時に惣一朗さん言ったわよね、世の中正々堂々と勝負してくれないって。
押さえられたら私なんてひとたまりもないんだって。
本当にそうなっちゃった・・・・・・」
「あれは・・・・・・」
普段だったら何とでも笑い飛ばせる言葉に、
惣一朗はどう返していいのか分からず、出来るだけ志乃を
傷付けずに済む言葉を探した。
「そうだよって言って。俺の言った通りだったって。
無茶もほどほどにしないからこういう目に遭うんだぞって」
自虐的に自分を責める志乃に、なんの慰めの言葉も
通用しないと悟った惣一朗は、志乃を強く抱きしめた。
「・・・・・惣一朗さんは、どうして私を抱かないの?」
「えっ?」
志乃の口から突然発せられた、聞きなれない言葉に驚いた惣一朗は、
反射的に志乃から身を引いて、顔を覗き込み、その真意を探ろうとしたが、
志乃は俯いたまま話し続けた。
「私、子供過ぎて今まで変だって事に気が付かなかったの。
この一年、私達は夫婦なのに、体を触れ合わせた事ないでしょう。
惣一朗さんも男の人なのに、女の人とそういう事・・・・・、
したいと思うんでしょう?
私と一緒に居ても、そんな気にならないのは、
私が子供過ぎて相手にならないから?・・・・・魅力が無いから?
・・・・・それとも、もう・・・・・汚れてしまったから?」
「志乃!」
志乃は強い力で惣一朗に両肩を握りしめられ、驚いて顔を上げた。
目の前の惣一朗は、見た事もないほど怖い顔をしていた。
「そうな風に自分を貶めるんじゃない。
君はそんな風に物事を考える人間じゃないだろう」
「でも・・・・・」
惣一朗の真っ直ぐな目を見ていられない志乃は、目を反らして
またうつむいてしまった。
その顔を上げさせた惣一朗は口づけをすると、志乃を静かに横に倒した。
惣一朗は志乃の上にまたがり、
両手をついて志乃の顔を覗き込みながら聞いてきた。
「こんな風にされて怖かっただろう?」
「うん・・・・・・。怖かった」
「嫌な気持ちがした?」
「足をなでられたの。それだけよ。他には何もされていないわ。
触られた時、気持ちが悪くて吐き気がしたわ」
「・・・・・・だから俺は、君に何もしないんだよ」
「え?」
・・・・・意外な答えだった。
志乃は戸惑って、今の自分を気遣ってくれる惣一朗に、場違いな質問をしてしまった。
「で、でも、だって、・・・・・しょっ初夜は・・・・・し、した、でしょ?」
「したよ」
さらりと答えられて、そこからどう聞いていいか分からず、困惑する志乃を、
惣一朗はただじっと見つめていた。
志乃は動揺を隠せず、おどおどしながらも、また聞いてみた。
「な、なら、ど、どうして・・・・・・?」
「あの時は、どうしても君を俺の妻にしたい欲望に勝てなかったんだ。
そうしないと安心できないと言うか・・・・・・、俺の心の狭さだよ」
少し照れたように笑う二十歳の顔の惣一朗は、間違いなく大人の男の人だった。
志乃は自分が思っていた答えとは全く違うことに驚きを隠せなかった。
全ては自分への気遣いから、ずっと我慢してくれていたのだ。
そう思った途端、志乃は勇気を出して言ってみた。
「じゃあ、惣一朗さんはいつになったら、私と、また、その、
そうなってくれるの・・・・・・?」
恥ずかしそうに顔を隠しながら聞く志乃に、
惣一朗はこれ以上自制を保つ自信が無くなっていた。
「君がそれを怖くないと思えるようになったら」
「・・・・・わ、私、惣一朗さんなら怖くないわ。
今も心臓はドキドキしているけど、惣一朗さんなら、いつでも・・・・・大丈夫よ?」
こんな怖い目にあったばかりだというのに、なんて可愛いい事を言うのかと、
惣一朗が目を細めて志乃を見ていて、ふと思った。
鈍い志乃が急にこんなことを言いした訳を。
「今日の事があって、俺が何もしないことを不思議に思ったのかい?」
「違うわ。春画を見たの」
「春画?どこで?!」
思わぬ志乃の返答に驚いてのけぞった惣一朗は、
傷口を思い切り壁に打ちつけて悶絶した。
慌てた志乃が心配して傷口を見ようとしたが、
制止されて話の続きに戻った。
「大丈夫だよ、それよりどこで見たんだよそんな物!」
「昨日、お父さんから借りた本の間に、挟んであったのよ」
なんて物を持ち歩いているんだお義父さん・・・・・・。
でもこれは二人だけの秘密にしようと、
志乃は惣一朗に固く口止めさせられた。
「どんな絵だったの?」
「どんなって・・・・・・口では言えないわ」
「じゃあしてみようか」
「え?なんて?惣一朗さん、怪我しているのよ」
突然の申し出に、赤面しながらあたふたする志乃に、
惣一朗は首をふった。
「男は背中は使わない」
惣一朗は怪我人とは思えぬ動きで、てきぱきと布団を敷き始めた。
志乃はさっきまで沈んでいた気持ちが嘘のように晴れ上がり、
逆に気持ちが高揚していくのが分る。
自分のお天気な性格に呆れつつ、惣一朗が布団を敷き終わるのを
待っている自分に気がついて、赤面した。
先ほどまでの恐怖もどこに行ったのか、
自分でも呆れるほどの能天気ぶりだ・・・・・。恥ずかしい・・・・・。
「おいで」
この呪文の様な言葉に逆らえない志乃は、座っていた部屋の隅から
立ち上がると、吸い込まれるように、
布団の上で待っている惣一朗の元へ行き、傍に座った。
惣一朗は志乃の顔を包むと口づけをし、横に寝かせてくれた。
志乃は目をつぶり惣一朗の動きを感じた。
浴衣の帯が解かれて、浴衣が体から離れていくのが分る。
片手は惣一朗がつないだままでいてくれて安心した。
素肌が触れ合うとこんなにも温かく、自分に触れる惣一朗の指先が、
こんなに繊細だったのかと驚いた。
髪から肩に、腕から腰に、腰から足を優しくなでてくれた。
「怖い?」
心配そうに惣一朗が聞いてきた。
「ううん、うっとりしてた・・・・・・」
すでに夢見心地な志乃は、なにげなく、つぶやくように、
そのままの気持ちを口にしていた。
「そう、よかった。今日は寝ないでくれよ」
その言葉に驚いた志乃は、ハッと目を開けて
志乃の上にいる惣一朗の顔を見た。
その目は意地悪そうな含みを帯びて笑っていた。
「いやだわ。そんな顔で見ないで!私ったら、今なんて言ったの?」
「気持ちいいって」
「嘘よ!そんな事言わないわ!」
「寝ボケて言ったよ。俺は聞いた」
「もういやだわ!」
志乃は顔を隠してうつ伏せになり、
並べてあるもう一組の布団に潜り込んだ。
からかわれる言葉がこれほど恥ずかしいとは・・・・・。
真っ赤になった志乃は、もうそれどころではない。
抵抗むなしく、布団をめくられた志乃の背中に惣一朗は口づけをした。
ぞくっと背筋に何かが走ったが、菊次郎の時とは全く別物だった。
惣一朗が触れた場所は熱くなって幸せの波が押し寄せてきた。
志乃はその波に飲み込まれて、何度か呼吸をするのを忘れてしまうほどだった。
・・・・・それから一刻ほど経って、二人は同じ布団の中にいた。
「大丈夫だった?」
「うん。幸せな気持ちにひたってた・・・・・」
惣一朗は静かに口元を緩めた。良かった・・・・・、いつも志乃に戻っている。
こうして素直に気持ちを伝えてくれる志乃に、
惣一朗がどれだけ救われているのか、志乃は気づいていない。
これからも彼女を守って行こうと、この夜、惣一朗は心に固く誓った。




