生江家の当主
食事を済ませた重蔵が、着替えを取に志乃達が寝ている部屋に行くと、
襖を少し開けたまま動けなくなった。
一昨日も風呂屋に行く前に入りにくかった訳。重蔵は心の中で悪態をついた。
(仲がいいのは喜ばしい事だが、何も怪我人と一つの布団で寝る事もなかろうに・・・・・・。
しかも志乃のやつは幸せそうな顔をしおって・・・・・・)
昨日の今日で珍しく仏心が芽生えた重蔵は、起こすのをためらい、
結局諦めて元居た一階の茶の間に戻った。
「旦那様、お着替えに戻ったのでは?」
「ああ、急にのどが渇いてな、もう一杯茶を飲んでからにする。腹も満腹だしな」
言っている事が良く判らない重蔵の言葉を、首をかしげながら余市と佐助はお茶を煎れた。
しばらくして目を覚ました惣一朗は志乃を起こし、目を開けた志乃はいつの間にか眠ってしまった自分に驚いてあたふたしていた。
そんないつもと変わらない日常を迎えた二人は微笑み、志乃は惣一朗のさらしを交換するのを手伝った。
ほどいたさらしの下からは無数の線のような傷跡が、赤く腫れて背中一面に広がっていた。
思わず声を上げそうになった志乃はそれをぐっと飲み、消毒用の酒で背中を拭き、新しいさらしを巻いた。
その間染みる傷口に顔を歪めて耐える惣一朗も、思わず漏れそうな声を押し殺して黙っていた。
お互い言葉に出来ない思いが交差していた時、重蔵が入って来た。
「よく眠れたか。惣一朗君、傷の具合はどうかね。まだ痛むだろう」
「ええ、少し疼きますが、東京に帰る頃には痛みもひいているはずです」
「そうなのかね。若い者は治りが早くていいな」
「お義父さん、不謹慎よ。いくら何でも『早くていいな』なんて・・・」
「誰のせいでこうなったと思っているんだ、志乃!」
「私のせいだっていうの?あの菊次郎って男がいきなりやって来て、
私を無理やり連れて行こうとしたのよ」
「そもそもお前がここについて来たから、こうなったと言っているんだ」
話しの本質を重蔵に突かれた志乃は、先ほどまでの勢いを失い、一気に沈んでしまった。
見かねた惣一朗が志乃に助け船を出してきた。
「お義父さん、それはもう引き合いに出さないでやって下さい。お願いします」
ここにお勝が居たら多勢に無勢だなと、内心重蔵はぼやいた。
「分かった、分かった。惣一朗君に免じて今回は許してやる。早速だが志乃。
わしはこれから出かけるぞ。訪問着を用意してくれ」
「また酒造店を回るの?危なくないの?」
「今日は違うぞ。先ほど生江家から昨日の件を詫びたいと招待された」
「ええっ?」
これには志乃と惣一朗が同時に叫んだ。
「詫びたいなら、向こうから来るべきでしょう、偉そうだわ!」
志乃が憤慨している中、着替えながらちらりと志乃を見た重蔵は、急にニヤリと笑った。
「それが偉い方からの招待なんだぞ。昨日のチンピラではなく、生江家の当主直々だ」
「ええっ?」
また仲良く同時に叫んだ二人は、お互いの顔を見合わせて、同時に重蔵に視線を戻した。
「惣一朗君にも一緒に来てもらいたいんだが、歩けそうかね」
「はい、大丈夫です。お供します」
「駄目よ、そんなところに行かせられないわ!」
志乃は惣一朗の前で両手を広げ、必死の形相で惣一朗を重蔵から守るようにして座った。
それが何とも微笑ましく、重蔵も惣一朗も思わず吹き出してしまった。
「ど、どうして惣一朗さんも笑うの?」
「君は分からなくてもいいんだよ。じゃあ俺の着替えも手伝ってくれるかい、志乃」
二人の会話を無視している重蔵に、帯を出せだの足袋は何処だのとせっつかれながら、
志乃は納得できないまま惣一朗の着替えも手伝い、出かける支度が整った。
重蔵は首元からさらしが露骨に見える様にしろとまで指示してきた。
一体何を考えているのかいつも分からない父だが、無駄な行動をしないのが重蔵の哲学なのも知っていた。
志乃達が一階に降りて行くと、茶の間で待つ余市と佐助が駆け寄って来た。
「お嬢様、昨晩はろくな挨拶も出来ず、ご無事で何よりです。若旦那様、傷の具合はいかがですか?もう少し横になっていらしたらどうですか?」
二人共それぞれに志乃達を気遣い、重蔵と違って人並みで嬉しい。
惣一朗は急いで茶の間で朝食を済ませると、余市と佐助を連れて重蔵と一緒に人力車に乗って生江家に向かって出掛けて行ってしまった。
「惣一朗さん無事に帰って来てね。お父さん、惣一朗さんに何かあったら恨むわよ」
志乃は別れがたい気持ちで惣一朗に手を振って見送った。
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生江家への道のりは人力車で飛ばして小一時間はかかった。
すでに敷地の中に入っていると言うから驚いた。
これだけ見ても大変な地主と判る。
しばらく流れる青い稲穂の景色を見ていた惣一朗は、昔いた村を思い出していた。
田畑はあっても東京ではあまり稲穂を見る機会がなく、すっかり忘れていた記憶だった。
懐かしくて切ない記憶、思い出したくないが忘れたくない記憶。
幼い頃の惣一朗が甦りそうになった時、ようやく生江家に到着した。
人力車を降りると大きな門が出迎えた。
大名屋敷かと思うその門構えは、権力者の象徴を現しているようで惣一朗は吐き気がした。
門をくぐるとまた大きな松が立派な形で植えられており、手入れの行き届いた広い庭は本当にどこかの寺院が武家屋敷かと思う広さだった。
こんな田舎でこれだけの贅をつくして一体何になるのだろうと、惣一朗は少し白けた気持ちになる。
一方重蔵は何処を見ても「ほう、これは、これは」と感心した声を出していた。
惣一朗には意外な事だった。
広い表通路を通り抜け、ようやく屋敷の中に通されると、また長い廊下を歩いて客間に通された。
廊下も板張りではなく、畳が敷かれた贅沢な仕様だ。
武家屋敷風だから中もそうかと思いきや、内装はすでに西洋風に飾り付けられた立派な邸宅だった。その真逆さにさすがに重蔵も驚愕した様子だった。ここの当主は新しいもの好きなのかもしれない。
西洋風の応接室に通された重蔵と惣一朗は椅子に座り、当主が現れるのを待っていた。
庭からは見た事のない花が咲いており、あの花を志乃にも見せてやりたいと思っていたところに、当主と思わしき人物がようやく奥から歩いて来た。
「お待たせいたしました。当主の生江正嗣です。昨日は弟の菊次郎が大変ご迷惑をおかけしたと伺いました。遠路ご足労頂き申し訳ございません」
正嗣と名乗る男は、話の通じそうな官僚風の中年で、どことなく芳乃の夫の諏訪を彷彿とさせるが、そこまで硬い印象はない。
田舎者と言うには、小奇麗な、感じのいい男性だった。
重蔵も挨拶を済ますと早速本題に入った。
「菊次郎さんとおっしゃいましたか、弟さん。いつもああいった、やくざまがいな真似をしていなるのですかな?」
「私が下男から聞いておりますのは、お隣に座っていらっしゃる方が弟ともめて、喧嘩になったと伺っておりますが、他にも何か?」
「それは違いますな。喧嘩などしてはいません。かどわかしです生江さん」
正嗣はえっと口を動かすと、急に表情がきつくなり、眉間のシワが寄った。
「まったく話になりませんな。かどわかそうとしたのは私の娘で、
隣に座っているのがその夫で私の婿です。
しかも私と婿が外出中に宿に押しかけて、娘を連れ去ろうとしたのですよ。
そこで暴れる弟さんの怒りを婿が一身に受けて、大怪我をしたのが真実です」
正嗣は見る見る顔が青くなり、胸に手を当てて苦しそうにし、うつむき加減になった。
「そ、そんなことを、あいつ・・・・・・懲りずにまたかっ・・・・・・!」
「『また』ですか。これで何度目なのかは知りませんがね。いい加減、県令も黙ってはおりますまい。警視庁の川路君の耳にも届いていますぞ。今回の事を私が証言すれば、すぐにでも警察隊が東京から飛んでくるでしょうな」
正嗣は驚いた顔をしだが、目をむいて重蔵を睨んでいた。
「私を脅しているのですか。私は何もしていない。やったのは弟の菊次郎だ」
「こう何度も繰り返しては監督不行き届きで一家もろとも成敗でしょうな」
「私に向かって何を言っているんだあんたは!」
「娘がさらわれそうになったんですぞ、怒りを感じない親がいるんですか」
これには正嗣は返す言葉を失って、うなだれてしまった。
しばらく沈黙が続き、正嗣がやっと重い口を開いた。
「どうすれば、県令に黙っていてもらえますか。
それだけの人脈のある高倉さんは、ただの旅行者ではないのでしょう?」
「そう見えますかな」
「ええ・・・・・・、私に出来る事なら協力します。だから弟を警察に突き出す事だけは勘弁して下さい」
「それは有難い話ですな。本当ならすぐにでも警察に駆け込みたいところですが、
今回は水に流すとしましょう。
しかし解せませんな。何故にあんなろくでもない弟をかばうのか?あなたには何の得にもならず、足かせにしかならない。私ならとっくに勘当を言い渡しておりますがね」
「それは、こちらにも事情があることですから・・・・・・」
「そうですな、詮索は止めましょう。では商談に入りましょうか」
頷いた正嗣は、それから重蔵が提案した酒の販売金額や方法について、おおむね承諾した。
生江家にしてみればこれくらいの契約は雫程の物なのだろう。
根回しのいい重蔵は気が変わらないうちにとその場で証文を作り、
正嗣は躊躇なく署名を書きこんでいった。
隣に座って成り行きをみていた惣一朗は、とんとん拍子に進んでいく商談に肩透かしを食わされた形になったが、懸念するような事にならなかっただけでも幸いであった。
そのまま商談は進み、全てが重蔵に有利になように進んで行った。急に態度を軟化させたのが不思議でならず、自然と周囲を見回した惣一朗は、ふと奥の部屋の方でこちらの様子を見つめている人影に気が付き、気配をうかがった。
大方の話しが付いたところで、重蔵は証文を交わして正嗣に話しかけた。
「これから生江さんには大いに期待させて頂きます。道中の安全は頼みましたよ」
正嗣は力なく頷くと、惣一朗の治療費と、生井村での滞在費は全て自分が持つから、ゆっくり逗留して行って欲しいと別れの挨拶をして、玄関までは見送らず、来た時と同じ様に応接室から姿を消した。
残された重蔵と惣一朗は、やや拍子抜けした面持ちで、テーブルに置かれた証文を確認した。
「やれやれ、一時はどうなる事かと思ったが、意外にも当主が話の分かる人で助かったな。
悪評を振りまいていたのは弟とは、生江家にとっては極つぶしにしかならんのに。どうてこのまま放っておくのか、わしには分からん」
重蔵は懐に証文をしまうと、惣一朗と共に奉公人に案内されて玄関に向かった。
待たせてある人力車は門の外。そこまでまた歩くのかと、来た時とは違って露骨に文句を言いながら、重蔵は長い庭を歩いて行った。
門の近くまで来た時、ふいに惣一朗は奉公人に見送りを断り、屋敷に戻るように告げた。
奉公人は戸惑ったが、惣一朗は傷が痛むので、丁寧なあいさつはいらないと、不機嫌そうな態度をとると、奉公人は慌てた様に会釈して、屋敷の方に戻って行った。
「急にどうしたね、惣一朗君。珍しく虫の居所でも悪くなったのかね」
重蔵はしからかうように惣一朗を見た。
「そうじゃありません。誰かが付いて来る気配がして。私たちに何か用でもあるのかと」
「そうなのかね?」
惣一朗と重蔵は辺りを見回しながら、門の外に出た。
すると思った通り、庭木の間から女性が顔を出してきた。
絹の上等な着物を着た三十代の女性は、身なりから察して生江家の妻らしかった。
だが何故かおどおどとして、もの言いたげに二人を見つめていた。
「どうなされたか、生江家の奥様とお見受けしましたが」
重蔵は優しく言ったつもりのようだが、貫禄のある中年男に問われて、すんなり話が出来る程、
人馴れしていないらしい田舎女性は、どうしたらいいのか分からない様子だった。
「何か、お話しがあるのでしたら遠慮せずにどうぞ。私たちはよそ者ですから他言はしません」
今度は惣一朗が持ち前の優しい言い方で尋ねると、心を決めたような真剣な眼差しでこくりと頷くと、近くにやって来て、耳を疑うような話しをし始めた。




