厄介な闖入者
父に6回目の縁談お断りをしてから、3日後。
キソから、電話が来た。
牛乳を温めている時だった。
最初、表示されている見知らぬ番号を見て、出る気はなかった。
時代は、固定電話から、個人が持つ携帯電話へと移り変わって、怪しげな勧誘や、悪どいセールスの類いは、まったくと言っていいほど受けることがなくなった。
でも、まれに間違い電話はあった。
今度もそれだろう、と思った。
しばらく放っておいたのだけれど、一向に音がやむ気配がなくて。
しかたがない、間違いだと教えてやろう、という親切の気持ちで、コンロの火を止め、出てやった。
「マユちゃーん?オレだよ、オレー」
声で、即座にわかった。
こんな薄っぺらくて軽々しいトーンを放つ人物は、父の他にはヤツしか思い当たらなかった。
驚いて、すぐには声も発せず、後ろを振り返る。
目頭をこすりながら新聞を読むアキちゃんと、視線が合った。
ただならぬ形相のわたしを見て、「誰?」と顔を曇らせる。
何て答えたらいいかわからず、
「友達!じゅ、10年ぶりで!」
とっさに適当な嘘をついて、小走りでダイニングを出た。
電話の向こうでは、「へ?」と戸惑う声。
もしかしたら、例のごとく、誰かさんからすでによけいな情報が伝わっていたのかもしれなかったけれど。
その事実を確認する余裕も、この予想外の事態を正確に説明する余裕も、その時のわたしにはなかった。
「あ、もしかして驚いた?そうだよねぇ」
ハハハ、とキソは快活に笑った。
やったね、と喜んだ。
わたしは問いただすのも面倒になって、先に折れた。
「どうせ、父でしょ。父がかけろって言って、番号を教えたんでしょ」
自分の部屋へ行くより近かったので、わたしは外に出て、玄関先で話すことにした。
朝の空気は気持ちいいけどしっかりと冷たくて、出たとたん、たちまち手と頬と息を凍えさせた。
やっぱり部屋まで行ったほうがよかったかな、と後悔した。
「あー、ちょっと違うな」
キソは残念がる声を出す。
「違う?じゃあ、何ですか」
「お父さんはただ、申し訳ないって謝ってきただけ。オレが、教えてくださいって頼んだの」
「なんで」
憮然とした声になる。
「忘れたの?オレはキミの条件を受け入れたよ。契約は成立したじゃない。なのに、なんで今さら断ってくるのさ」
「わたし、受け入れたことを受け入れましたっけ」
「んん?」
意味がわからなかったらしく、訊き返してくる。
「だから、結婚するなんてこと、またはそれらしいことを、わたしが一度でも言いましたっけ?」
言いながら、「言っていない」という確固たる自信がないのがもどかしかった。
「言った」と責められれば、覚えていないことも含めて、すみませんと頭を下げるしかない。
でも、「いや、言ってない」とキソが答えたので、強気になった。
じゃあ、と切り出しかけた時。
「でも、オレが気に入ったんだ。つき合ってよ」
他に好きな人がいるとわかっていて、その相手に交際を申し込むというのは、いったいどういった心境なのか。
それを言ったら、好きな人がいるくせに見合いをする心境はどうなんだ、と逆に問い返されれば、そうですよね、舌を巻くほかない。
でも、知らなかったのだ。
あんな条件をうのみにする男性が、ひとりでもこの世に存在するなんて。
「……頭、おかしいんじゃないですか?」と。
いっぺん放ったことのあるセリフを、もう一度ぶつけてみた。
他に、適当な言葉が見つからなかったせいもある。
そのくらい、少なからず動揺していた。
「あいかわらずキツいなー」
キソはそう嘆いたけれど、どこか楽しげで、実際に声は笑いを含んでいた。
ふと、以前彼が居酒屋で見せた、先を見通すかのような笑みを思い出す。
悔しくなる。
「からかってるんですか?」
だとしたらやめて欲しい、わたしはこれでも真剣です、と文句をつけようとしたら、
「オレはこれでも真剣だよ」
と、そっくりセリフを横取りされてしまい、驚いて、思わず口をつぐんだ。
「イイ話だろ?キミはお兄さんと別れる必要はない。オレはそれを黙認する。キミだって、一生独身でいるつもりじゃないだろ?表面的には円満な結婚生活が送れるじゃないか」
正気の沙汰とは思えない。
「親孝行にもなる」
その言葉を聞いた時には、正直、胸が痛んだ。
子供たちが道にはずれた恋愛に傾倒してしまったために、両親は孫を抱けないかもしれない。
それは、本当に申し訳なく、心苦しかった。
だから、父が見合いの話を持ってくるたび、一刀両断にするのではなく、一応乗ってやるのも、わたしなりの精一杯の孝行心からだった。
「絶対に後悔はさせないよ。むしろ、キミはオレに感謝する」
自信たっぷりな物言いに、わたしは苦笑する。
本当に変わった人だ、と改めて思う。
もしかしたら、とも思った。
こんな荒唐無稽な人とだったら、逆に人生おもしろおかしく暮らせるかもしれない。
1番目はアキちゃんで不動だけれど、ひょっとしたら、本当に2番目くらいには好きになれるかもしれない。
でも、やっぱり……とうなだれる。
そんな貴重な人材だからこそ、わたしの身勝手で縛っちゃいけない気がする。
彼は、いいかげんだけれど、悪い人じゃない。
彼には、ちゃんと彼だけを愛してくれるただひとりの女性が、必ず現れると思う。
それに。
やっぱりわたしには、アキちゃんを想いながら、アキちゃんの目の前で他の男の人と生活をするなんて器用なこと、ハナからできないのだ。
わかっていたのに、あんな条件なんてつくって。
それで、他人を試して、もてあそんで。
わたしは最低だ、最低の人間だ。
キソにも、そしてアキちゃんにも、顔向けできない。
「ごめんなさい」
気がついたら、謝っていた。
「わたし、あなたにそこまで言ってもらう価値なんてない」
「価値?価値なんて自分で決めるもんじゃない。他の人間が決めるもんだよ。少なくとも、オレはマユちゃんを評価してるけどね」
キソは、少しも照れた様子もなく、時々胸をすくような言葉を、まっすぐに言う。
なんだか、こっちがくすぐったくなる。
「……ありがとう。そんなこと、生まれてはじめて言われました」
「いいえ、どういたしまして。それよかさぁ」
「はい?」
キソの不満げな声が漂う。
「そろそろ敬語はやめにしない?オレ、キミの上司じゃないんだからさぁ」
「友達、何だって?」
ダイニングに戻ると、アキちゃんはとっくに新聞を読了して、鍋を火にかけてくれていた。
木のしゃもじで、くるくると中身をかき回している。
珍しいな、と思った。
アキちゃんが、電話の内容にまで干渉してくることは、それまでなかった。
「あ、ごめんね。代わるね」
わたしはその背後から近寄って、牛乳の番を交代する。
結局、キソにまたうまく丸め込まれてしまって、明日会うことになった。
交際をはじめる気は、依然として、ない。
じっくり話をして、気が変わってくれることに期待しようと思った。
でも、そのことを、どういうふうにアキちゃんに伝えたらいいか、わからなかった。
「あの、明日さぁ、少し遅くなってもいいかな。久しぶりに友達と会うことになって」
濁してしまった。
アキちゃんは、ふぅんと興味もなさそうにうなずいて、「いいよ。ゆっくりしておいで」とそっけなく言った。
それから、わたしの背中に腕を回し、体ごと包み込むようにして手に触れた。
温かい。
「冷たい。外で話してたの?こんな寒いのに」
耳のすぐ横で、アキちゃんの低くて透明な声がする。
いまだに慣れなくて、ドギマギする。
「あ、うん。ごめん」
「なんで謝るの?」
「いや、あの、とくに理由はないんだけど」
すると、アキちゃんは水分をたっぷりと含んだ舌先で、わたしの首筋を下から上へと舐め上げた。
突如、背骨から脳にかけて、ビリビリと電流が走る。
心臓がキュッと音を立てて縮み、血流が止まり、目眩を覚える。
吐息が漏れた。
「アキちゃ……?」
アキちゃんはサッと手を離し、食卓に戻ると、足を組み、わたしのいるほうとは反対側の窓の外に視線をやった。




