回りはじめた歯車と恋一夜
わたしは、乗客が他にひとりもいない電車のシートに沈み込んで、眠っていた。
その肩を、いないはずの何者かがユサユサと揺する。
なんだか、どうしようもなく身体がダルい。
頭も重い。
遠くで、軽快なメロディーが鳴っている。
邪魔しないで、わたしはもう少し寝ていたいのよ、と誰かもわからない手を振り払う。
それでも、その主は負けじとさらに激しく揺さぶってくる。
わずらわしくて、構わずギュッとまぶたに力を入れたら、どういうわけか、逆に眠気が遠のいた。
うっすらと目を開ける。
細身のジーンズの足が見え、真っ黒なコートのボタンが見え、千鳥柄のマフラーが見え、心配そうなアキちゃんの顔が見えた。
「アキちゃん……?」
アキちゃんは今しがたまで冷たい外気にさらされていたのか、その頬と鼻のてっぺんが赤く上気している。
すぐに顔をしかめた。
「マユ、酒臭い」
瞬間的に状況を飲み込めたわたしは、ハッと目を覚まし、ガバッと飛び起きた。
そこは、電車内ではなく、家のリビングだった。
ソファーでうたた寝をしていたらしく、横にあるクッションにはヨダレが電灯の明かりを受けてキラキラと光っていて、急いで背中の後ろに隠した。
よくよく見ると、わたしの格好は、仕事に出かけた時の、デニム地のフレアースカートと白のニットのまま。
その上に、Aラインのロングコートまで着込んでいる。
足元と絨毯には、鮮やかな赤のハンドバッグが転がっていた。
まるで夜明けが来るように、脳内は次第に霧が晴れてきたけれど。
頭上からのしかかるような気だるさに阻まれ、うまく記憶を取り戻せない。
家に帰ってきて、すっかり暗くなった室内に明かりを灯したのは覚えている。
エアコンの電源も、その時入れたはずだ。
でも、回想はそこで終わっている。
電池が切れたみたいに、プッツリと途絶えている。
「電話、出ないの?」
アキちゃんは曲げていた腰を伸ばし、額を押さえるわたしに問いかけた。
テーブルの上で、ケータイがはずみ出さんばかりに鳴っている。
耳に届いていたのはこの着信音だったらしく、何も考えずにそれに向かってそろそろと手を伸ばしかけた時。
眉間に閃光が射し込んだ。
「あ、そうだ!」
はじけるように、記憶のフタが開く。
記憶が濁流となって、溢れ出す。
そうだ、わたしは電話をかけようとしていた。
用件は、ある男との見合いの顛末について。
かける先がこちらとは時差があるもんで、向こうが起床するタイミングを見計らって、起きたら即報告しようと意気込んで待っているうちに。
いつのまにか寝ちゃっていたんだ。
男とは、帰路につく直前まで一緒に酒を呑んでいた。
しかも、昼休みからずっと、だ。
おかげで、ぐでんぐでん。
けしてアルコールに弱いわけではなかったが、さすがに5時間近くぶっ続けで呑んだのは、効いた。
そうだ、その男とは、見合いの相手、キソだ!
慌ててディスプレイをのぞき込む。
まさにかけようとしていた先の名前が表示されていて、鼻息荒く、画面に触れた。
「マユ、よくやったぞー!」
電話の主は有頂天だった。
「先方からさっそく連絡が来た。お前をいたく気に入ったらしい。すぐにでも嫁に欲しいと言ってきた」
ひゃっほー!と歓声を上げる。
「え?え?ちょっと待って」
わたしは混乱する。
見合いの席で話したことを、こじ開けるように思い返す。
わたしは、会って早々にいつもの条件を述べた。
あなた以外に好きな人がいても、ってアレだ。
キソは、いいんじゃない?と言った。
承諾したってことなのか。
それに対して、わたしは何て返答したっけ。
戸惑いはしたものの、じゃあ、結婚します、とは言っていないはずだ。
それともそのあとの居酒屋で、酔った勢いでそれらしいニュアンスのことでも語っただろうか。
ふと、テーブルの向かいで立ったままこちらを見下ろす、不思議そうなアキちゃんの視線が気になって。
わたしはリビングを出た。
コソコソと声をひそめて、
「父さん、その連絡って、本人がしてきたの?」
送話部分に口がくっつきそうなくらい近づけてしゃべる。
「そうだよ。えらく上機嫌だったなー」
酔っていたのよ、と心の中で舌打ちをする。
「いつ?」
「起きて顔洗ったらすぐだよ。よっぽど早く報告したかったんだろうなー。父さんも嬉しくて、その話を終えてすぐにマユに電話したんだよー」
くっそう、もう少し早く目覚めていれば。
口惜しい気分に、体全体が飲み込まれる。
わたしは落ち着くために、鼻から息を深く吸い込んで、大きく吐き出した。
「父さん、悪いけど、相手に伝えてくれる?」
そして、一息に言う。
「おつき合いはしません。結婚もしません。向こうにそう伝えて」
キソの直接の連絡先は聞いていなかった。
勤めている会社名は教えてもらったような気もするが、酔っ払っており、定かじゃない。
例え知っていたとしても、紹介してきた人、つまり仲人的な存在は父なわけだし、父を介して伝えてもらうのが、正しいルールに思えた。
「なんでだよー?せっかくこんな娘をもらってくれるって言うんだぞー?」
こんなとは何だ、こんなとは。
「仕事場の後輩の知り合いの奥さんのイトコの上司の目にお前の写真がとまって、そこからなんとか話をつけてもらった縁談なのにー」
なんでそんな赤の他人のところにまで、わたしの写真が流出しているのよ。
個人情報保護法は何をしているんだ、と腹が立つ。
「とにかく、わたしはまだ結婚する気なんかないから」
吐き捨てるように言い放つ。
電話の向こうで、なんだよー、と父が落胆する。
声だけなのに、ガックリと肩を落とす姿が目に浮かぶようだ。
あの条件は、妥当な結婚相手を見つけるために決めたんじゃない、本当は。
社会的に不適切な関係を続けることが許されるなんてことも、微塵も思っていない。
ただ、好きになってしまっただけ。
世間的に認められることのない人を、どうしようもなく好きになってしまっただけ。
理解されたいなんて、甘いことも言わない。
でも、やめることはもうできない。
だから、「イカれてる」と向こうからバッサリと拒絶して欲しいの。
そうしたら、また次の見合いの話が来るまでの間、わたしたちは束の間の恋人の時間を続けられる。
「アキちゃんのこと、好きかもしれない」
夜の食卓で、吐息のようにそう打ち明けた時。
父が再婚してから3ヶ月ほどが過ぎていたけれど、転勤はまだ少し未来の話で、だけど両親は留守で。
アキちゃんは真向かいに座って、わたしがつくったロールキャベツに箸を当てたところだった。
わたしはもうずっと以前から、いっぱいいっぱいだった。
はじめて会った時に、一目見て、心臓をつらぬかれるような衝撃を感じて以来、この想いをなんとか自分の中で消化させようと、必死に頑張ってきた。
相手は戸籍上、兄なんだ、と。
どんなに想ったって、報われることは一生ないんだ、と。
繰り返し、自分自身に突きつけてきた。
それに、焦がれる想いそのものが、偽物かもしれない、とも思った。
彼の顔が、憧れの人とそっくりだから、だから、一種の疑似恋愛のようなものをしているのかも、と考えた。
本物じゃない、そう思い込もうとした。
だけど、だめだった。
どんなに打ち消そうとしても、彼を独占したい気持ちはふくらむ一方だったし。
触れることのできない唇を想って、涙を溢れさせる夜をいくつも越えた。
我慢して、我慢して、我慢して。
苦しくて、苦しくて、苦しくて。
どうしようもない痛みが、頂点にまで達した時。
もうこれ以上中に抑え込んでいたら、暴発してしまう。
壊れてしまう。
そんな感情が、ポロリと体外にこぼれ出たのだった。
怪訝な目で見られるか、それとも一笑されるか。
どちらかだろうな、と諦めていた。
わかっていても、もう留めておけなかった。
だけど。
アキちゃんは、じっとわたしの目を見つめて、やがて静かに箸を置くと、
「ありがとう。嬉しい」
そう言って、真っ白な百合の花みたいに、派手ではなくしとやかに微笑んだ。
その瞬間、わたしは嗚咽を上げそうな予感があって、思わず手で口を覆った。
それはなんとか止められたけど、今度は目から涙が溢れ出そうになって、そっちはどうにも押さえきれなかった。
雫がパタパタと落ちて、テーブルの上で跳ねる。
慌てて席を立って、箸を床に転がす。
そのまま、自分の部屋まで走って逃げた。
ベッドに突っ伏していると、ほどなくして、コンコンとドアをノックする音がした。
布団から引きはがすようにして、顔を上げる。
「どうぞ」と、震える声で言った。
心臓がバクバクしていた。
アキちゃんはドアの隙間から顔をのぞかせたかと思うと、すぐにするりと中に入ってきた。
ゆっくりと近づいてきて、音を立てないように、ベッドの上に腰かける。
そっと、濡れたわたしの頬に手を添えた。
それから、キスをした。
一度軽く唇を重ねて、そのあと、生温かい舌先でわたしの唇を撫でる。
湿った感触を確かめるように、また重ね合わせた。
頭の芯がぼうっと熱くなって、しびれるように何も考えられなくなった。
腰から下は、すとんと抜け落ちてしまうような感覚におちいって、その場から微動だにできなくなった。
あの夜のことは、たぶん、ずっと、忘れられない。
どんなに時が経っても、目を閉じればすぐに、やわらかさも、匂いも、温度も、鮮やかによみがえってくる。
アキちゃんは顔を離したあと、茫然自失しているわたしを見て、少し困ったように眉を下げて、それから痩せた腕でギュッとわたしを抱きしめた。
アキちゃんの首もとは、焦がした牛乳のような、甘くて香ばしい、どこか懐かしい匂いがした。
遠い昔から知っていたような匂いだった。
とたんに胃が収縮して、ようやく脳が事態を把握して、今さらながら体を震わせた。
こんなこと、許されるの……?
でも、言葉は一言も出てこなかった。
口に出したら、たちまちこの夢のような時間から、手のひらを引っくり返されてしまう。
何もなかったことになってしまう。
そんなの嫌だった。
だって、せっかく想いが届いたのに。
大好きな人に「好き」と言えて、その大好きな人がわたしに口づけて、抱きしめてくれたのに。
それまで、それなりに恋愛はしてきたし、告白をして想いが成就したことも、一度じゃなくあった。
けれど、こんなにも切なく、狂おしいほど愛おしく、失うことを死ぬくらい恐れる恋ははじめてだった。
だから、おびえる声からは瞳をそらした。
この恋を捨てたくない、そう思った。
アキちゃんが耳元で、小さく「いいの?」と訊いた。
背徳を背負っていくことが?それともアキちゃんという人間を受け入れることが?と迷ったけど、どちらでも同じだと思って、うわずった声で「うん」と言った。
もう、後戻りはできない。
アキちゃんは、鼻からふっと息を抜いて、
「おなかすいた。ご飯、食べようか」
照れたように、そう言って笑った。




