静電気くらいに痛い男
次の日の昼休み、わたしはトイレの鏡の前で身だしなみを整えていた。
そこに、偶然チハヤさんが用を足しにやって来た。
ドアを押して、いちばん手前の鏡を陣取る人影がいるとは気づかなかったようで、小さく「わ」と漏らす。
「なんだ、マユちゃんか」
自分の胸に手を当てていた。
チビりそうになったよ、と付け足す。
「ちょうどよかった。探してたんです」
わたしはグロスのキャップを回しながら、早口で言う。
「今から外出するんで、マネージャーに伝えといてもらえます?」
「今から?お昼ご飯はもう食べたの?」
某人気男性アイドルを意識したというショートカットの髪に触れながら、チハヤさんは目を白黒させる。
この髪型にするためだけに、3ヶ月に1回、彼女は車で2時間かけて、お気に入りの美容室に出かけていく。
「外で済ませます。ちょっとヤボ用で」
と告げるや否や、
「あ、わかった。またお見合いでしょ」
下世話な笑顔で、核心をつく。
その事実自体は別に隠しているわけではなかったので、わたしは素直に認める。
「なかなかこのおメガネにかなう人がいなくって」
グロスのスティックのお尻で、右目を指してみせる。
チハヤさんは大きく笑った。
「マユちゃんは理想が高すぎるんだよぉ。この世の中には完璧な男なんていないんだからぁ。2つや3つの粗なら、それは欠点じゃなくて、愛嬌って言うんだよぉ?」
なるほど、おもしろい解釈だな、と頬をゆるめる。
そういうチハヤさんは正社員として、うだつの上がらないアルバイトを続ける彼氏を、もう8年支えている。
「じゃあ、急ぐんで」
わたしはグロスをポーチに入れて、化粧室をあとにする。
見合いの段取りを組むのは父だけれど、細かい日程などを決めるのはわたしだった。
わざわざ仕事の合間の昼休みに指定するのは、すぐに終わるとわかっているからで、そのために貴重な休日の時間を割くのはバカバカしいと思うからだ。
休みの日は、なるべく家にいたかった。
アキちゃんがいるから。
爆睡していることがほとんどとは言っても、たまに起きてくる時もあるし、気まぐれに夕食の買い出しにつき合ってくれることもある。
ギターの音色を聴かせてくれる時もある。
サッパリわからないウェブ上のスクリプトと呼ばれるものについて、熱心に説明されることもある。
くだらないと笑われるかもしれないけれど、そんな時間のひとつひとつが、わたしにとっては宝物なのだ。
「いいんじゃないの?」と。
男の返事は適当、且つ、簡素だった。
「は?」
眉根を寄せる。
「だって、何においても1番目ってかかる期待が大きすぎでしょ。2番手くらいのほうが気楽でいいよ」
その言動にしばしあっけに取られ、そのあと。
いいかげんだ、と苦笑する。
アキちゃんはズルい人、そして目の前に座るこの男はいいかげんだ。
職場のあるファッションビルから、徒歩で5分。
馴染みのカフェだったが、相手のいる席がわからず、入り口で戸惑った。
近づいてくる店員の気配を気にしながら、キョロキョロと視線を迷わせていると、
「こっち!こっちですよ!」と手をあげる男がいた。
「うわ。キミ、写真で見るよりずっとかわいいねぇ」
対面して、はじめて男が発したセリフがそれだった。
「のんじゃおうか」
男は会った時感じたままの、快活で軽薄そうな印象で、実に軽そうに言った。
「は?」
怪訝な表情のエキスパートにでもなった気分だ。
「のんじゃおうよ。11時から開いてる店もあるでしょ」
そこで、男の言う「のむ」が「酒を呑む」ことを意味しているのだと気づく。
会社の昼休みを利用して出向いているのだと説明すると、
「いいじゃない、今日はもう終わりで。多少アルコールを入れたほうが、手っ取り早く打ち解けるしさ」
男は目を細めた。
あの、と不審をあらわにせざるをえない。
「わたしの話、聞いてました?」
すると男は、ぬるくなったコーヒーを一口飲んで、
「うん。聞いてたよ。だから、いいんじゃないのって言ったじゃない。マユちゃんこそ聞いてる?」
男は、わたしと同級生のはずだった。
だから、お互いに改めて自己紹介をした際、男は「キソダニ」と名乗り、「言いにくいから、キソって呼んで」とくったくなく微笑んだ。
じゃあ、わたしも、下の名前で呼んでいいと儀礼的に提案した。
でも、眼前の男のぶしつけさに圧倒され、押し込められ、なんだか敬語がやめられない。
本気なのだろうか。
これまでの男たちは、わたしの「条件」を聞いたとたん、皆ことごとく嫌な顔をした。
「キソ、さん、て……変わってますね」
男は噴き出す。
なんだか山みたいだなぁ、となぜかひとしきり喜んで。
「よし!行こう」
テーブルの片隅にあった伝票をつかんだ。
結局、わたしたちは寒風吹きすさぶ中、20分ほど繁華街をうろついて、あるビルの階段下にひっそりと営業していた、小さな居酒屋に入った。
チハヤさんには、向かう途中の路上で、彼女のケータイに連絡を入れた。
「すみません、早退したいんですが」と告げると、彼女は歓声を上げて、とうとうおメガネにかなったのねぇと叫んで、こちらの「違うんですけど」という言い訳も聞かずに、即受諾され電話を打ち切られた。
空には雲が広がっていたけれど、所々切れ間があって、そこから薄い陽の光が帯になって降りそそいでいた。
雪にならないかと不安がっていた雨も、明け方にはやんでいた。
キソの誘いを振り切ることは、きっとできた。
彼と親交を深める気は、さらさらなかったし。
ただ、やっと待ち望んでいた相手が現れたんだ、これで心置きなくアキちゃんとの恋愛を謳歌できるじゃないか、と自分を叱咤する声が頭の中に響いた。
それに。
彼に対して、「怖いもの見たさ」に似た興味が湧きはじめていたのも、実のところ否めない。
信じられないけれど、カフェを出た時点ですでに、わたしは彼と酒を酌み交わすつもりになっていた。
「で、好きな人って、どんな人?」
儀式的に中ジョッキをかかげ合ってすぐ、キソはズカズカとわたしのプライバシーに足を踏み入れてきた。
嘘をつこうとは思っていなかった。
ぐいとビールを流し込んで、「兄」とだけ答える。
血は繋がっていないけどね、というセリフは黄金色の液体と一緒に呑み込んだ。
「え、なに、禁断の愛ってヤツ?」
ひるむどころか、さらに前のめりになって訊いてくる。
本当に結婚をするかどうかはともかく、これから交際をはじめたい意思を感じさせる発言をしてきた者の態度とは思えなかった。
頭おかしいんじゃないか、といぶかしんだら、思いっきり声に出してしまっていた。
キソは机を叩いて喜び、
「いいねぇ、いいねぇ、その憮然とした対応」
と、何が嬉しいのかまた喜んで、ジョッキを一気に半分くらい呑みほした。
店はガラガラにすいていた。
景気は良くなってきていると、ニュースで偉そうな人は言うけれど、それはおそらくほんの一部だけで。
中小企業に勤める大多数の庶民には、好景気のしっぽの先すら届かないのだろう。
休日と言えど、真っ昼間から酒を浴びようという人間は、わたしたちの他にはいないようだった。
だったら、夜から開店したほうが合理的じゃないのかなぁ、と他人事ながら心配になったが。
年老いた店主はあまり気にしていないようで、新聞を胸の前に広げながら、高い場所に取り付けてあるテレビで、ゴルフの中継を熱心に観ていた。
もしかしたら、市内にアパートでも所有していて、その家賃収入がたんまりあるのかも。
その店自体は、道楽でやっているのかもしれない。
わたしたちは、生々しい会話になる予感もあって、カウンターじゃなく、ひとつしかない座敷の席を選んだ。
結果的に、その予感は当たったことになる。
キソは、2杯目を背後に向かって大きな声で追加注文したあと、こちらを向き直って、さらに問うた。
「お兄さん、優しいの?」
わたしはうなずく。
「優しいです」
ズルいくらいに。
「カッコいいんだ?」
その問いかけにも、アッサリと首肯する。
たぶん、 10人中8人は、わたしの意見に賛同してくれると確信している。
なんたって、あのロックスターと同じ顔だ。
ミュージシャンとして、売れていないとは言っても、固定ファンも確実にいる。
こっそりのぞき見ているアキちゃんのブログには、毎日女の子からのたくさんのコメントが寄せられている。
「優しくてカッコいいんじゃ、非の打ち所がないなぁ。しかも、いちばん身近にいるんだもんなぁ。そりゃ、好きになるな」
うんうんと納得しながら、キソは運ばれてきたジョッキに口をつける。
ぐっと3分の1ぐらいを呑んで、寒くてもうまいんだよなぁ、と嬉しそうに漏らした。
つられるように、わたしも一口呑んでから、
「あの、何度も確認するようになるんですけど……本当にいいんですか?」
相手の腹の底の真意を探るように、尋ねる。
「うん。いいよ」
キソはあっけらかんと答えるどころか、なんでそんなに疑うの?と言わんばかりに目を丸くした。
絶句する。
本当に変わった男だ。
まぁ、破綻した結婚生活をしましょうみたいな旨の条件を提示してくる女に言われたくはないだろうが。
それにしても、物分かりがよすぎやしないだろうか。
もしや、その条件を飲む代わりにこちらにも条件がある、とか言い出すんじゃないだろうな。
「世の中広いしさ。いろんな人いるじゃない。ということは、いろんな結婚の形もあると思うのよ」
こっちの疑心を察したわけでもないだろうが、キソがそう言って、やわらかく微笑んだ。
その笑みは、達観しているようにも、何も考えていないようにも見えた。




