第一話 初めての勝利
アレクが初めて勝利を獲た日のことを、私は今でも覚えている。
勇者が初めて勝ったのは、魔物相手でも、魔族相手でもなかった。
その時アレクは、まだ八歳だった。
もちろん、本人は自分が後に勇者と呼ばれるようになることなんて、知る由もなかっただろう。
ただ彼は、剣士になりたかった。
それだけだった。
朝の村には、乾いた音が響いていた。
カンッ。
木と木がぶつかる音。
「まだまだだぞ、アレク!」
「分かってる!」
八歳のアレクは、両手で木剣を握りしめていた。
目の前にいるのは、アレクの父親だ。
アレクの父親は農作業をしながら、村の大工仕事も請け負っていた。
家の修理をしたり、家具を作ったり、農具の柄を直したり。
当然、剣を専門に扱うような人間ではない。
それでも、八歳のアレクには勝てる相手ではなかった。
「いくぞ!」
アレクが踏み込む。
木剣を振り下ろす。
お父さんは軽く身体をずらした。
空振り。
「もう一度!」
「おう」
今度は横薙ぎ。
父親の木剣が受け止める。
カンッ。
「もっと腰を使え」
「こう?」
「ああ。……だが、力を入れすぎるな」
アレクは言われた通りに構え直す。
お父さんも多分、あまり分かってないと思うんだけど。
そして、また打ち込む。
カンッ。
また弾かれる。
「もう一回!」
「お前、朝飯を食べてからずっとそれだぞ」
「まだ父さんに勝ってない!」
お父さんは苦笑した。
「別に、俺に勝つ必要なんてないだろ」
「ある!」
「どうして?」
「ぼくは剣士になるから!」
お父さんは一瞬だけ黙った。
それから、木剣を構え直した。
「そうか」
「うん!」
「なら、もう一度来い」
「うん!」
アレクは嬉しそうに駆け出した。
その様子を、家の前から母親が眺めていた。
「あの人もムキになっちゃって」
そう言って、アレクのお母さんは小さく笑っていた。
「アレクはまだ八歳なのよ」
「分かってるさ」
「本当に?」
「もちろん」
そう答えながら、お父さんは真剣な目で木剣を構えていた。
カンッ。
「うわっ!」
木剣を弾かれ、アレクが尻餅をつく。
「今日はここまでだ」
「まだできる!」
「もう腕が上がってないぞ」
「上がる!」
アレクは立ち上がろうとした。
だが、足元がふらつく。
「ほら」
父親が手を差し出す。
「……あと一回」
「明日な」
「……絶対?」
「絶対だ」
アレクは父親の手を握った。
立ち上がったところで、大きな欠伸が出る。
「眠いなら寝てきなさい」
母親が笑った。
「眠くない」
言った直後、アレクの身体がふらりと揺れた。
「……眠いじゃない」
「眠くない……」
そのまま母親に抱えられる。
「おやすみなさい、剣士さん」
「……まだ……剣士……」
アレクは母親の腕の中で眠ってしまった。
昼前、私は村のパン窯へ向かう途中、アレクの家の前を通りかかった。
「おばさん、おはようございます」
「あら、ユリアちゃん。おはよう」
「アレクは?」
「寝てるわ」
「やっぱり」
「何が『やっぱり』なの?」
「朝から木剣を振ってたでしょ?」
「ええ。ずっとね」
私は家の中を覗き込んだ。
「またおじさんに負けたんですか?」
「ええ」
「何回くらい?」
「数えてないわ」
「たぶん、いっぱいですね」
二人で顔を見合わせて笑った。
「でも、本人は本気みたいよ」
「知ってます」
「剣士になりたいんですって」
「それも知ってます」
私は少し得意になって答えた。
「わたし、ずっと聞かされてますから」
「そうね」
お母さんは笑った。
「アレクは昔からそうだったものね」
「昔って言っても、まだ八歳ですよ」
「あら、そうだったわね」
家の中から、アレクの寝息が聞こえてくる。
私たちはまた笑った。
アレクが目を覚ましたのは、昼過ぎになってからだった。
「……父さんは?」
「仕事に行ったわ」
「もう?」
「あなたが寝ている間にね」
アレクは慌てて起き上がった。
「稽古!」
「今日は終わり」
「でも!」
「明日またやればいいでしょう」
「……分かった」
不満そうに座り込む。
私は窓の外から、不貞腐れたアレクに声をかけた。
「アレク」
「ユリア?」
「起きた?」
アレクが窓から顔を出す。
「起きた!」
「じゃあ、遊びに行こう」
「俺は遊んでる暇ない」
「何してるの?」
「剣士の修行」
「朝からずっとやってたじゃない」
「まだ足りないの!」
そんなアレクが面白くて私は笑った。
「じゃあ、明日はわたしも見に来る」
「なんで?」
「アレクが本当に強くなってるのか確認するの」
「絶対強くなってるから!」
「はいはい」
「ちゃんと来いよ!」
「分かったって」
翌朝。
「父さん、早く!」
「まだ朝飯も食べてないぞ」
「食べた!」
「お前だけだろ。俺はまだだ」
「じゃあ早く食べて」
「せっかちだなあ」
お父さんは笑いながら木剣を手に取った。
家の前では、私が二人を見ていた。
「今日は私も見てるからね」
「うん。今日は勝つ」
「昨日も言ってたよ」
「今日は違う」
「何が違うの?」
「……分かんない」
「分かんないんだ」
私は笑った。
「じゃあ、始めるぞ」
「うん」
父親が木剣を構える。
アレクも構えた。
「来い!」
アレクが走った。
昨日と同じように、まっすぐ振り下ろす。
お父さんはそれを受けようと木剣を上げた。
――その瞬間。
アレクの木剣が、父親の肩に当たった。
「……」
アレクが目を丸くする。
お父さんも、自分の肩を見る。
「……当たった」
「当たったね」
私も驚いた。
アレクが父親を見る。
「ねえ、父さん……」
「ん?」
「今の、ぼくの勝ち?」
父親は少し考えた。
「……今のは、俺の負けだな」
「やった!」
アレクが飛び跳ねた。
「勝った!」
「くっ、油断した……」
「勝った!」
「偶々だって」
「でも勝った!」
「あなたも素直に認めてあげなさいよ」
「まあ、そうだな」
お父さんは笑った。
「今日のところは、お前の勝ちだ」
「やったぁ!」
アレクは木剣を空に掲げた。
「これで剣士になれる!」
「まだ一回勝っただけだろ」
「じゃあ、もう一回!」
「その前に朝飯を食わせてくれ」
「えー」
「腹が減ってちゃ、剣も振れんぞ」
「……じゃあ食べて」
「素直でよろしい」
父親がアレクの頭をゴシゴシと撫でる。
アレクは嬉しそうに笑った。
その横で、私も笑っていた。
「よかったね、アレク」
「うん!」
あの頃の私は、アレクの父親を少し子供っぽい人だと思っていた。
八歳の息子と張り合って、木剣を振り回して。
息子が「もう一回」と言えば、結局付き合って。
お母さんに「ムキになっちゃって」と笑われても、本人は気にしていなかった。
けれど、今になって思う。
アレクのお父さんは、きっと良いお父さんだったのだろう。
アレクが剣士になりたいと言えば、笑わずに木剣を作った。
何度負けても諦めない息子に、何度でも相手をした。
あの日、私たちが見ていたのは、ただの親子のチャンバラ遊びだった。
けれど、あの小さな村で過ごした時間もまた、今のアレクを形作ったのだと思う。
少なくとも私は、そう信じている。
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