49 真意-11
泡を食って壁掛け時計に視線を走らせれば、なんと午前十時を回ったところ。一定なはずの秒針の動きがやけに早く感じる。
「あ……、み、美加ちゃん!」
数瞬の自失の後、隣室で寝ている美加ちゃんを起こすべくふらりと立ちあがる。
気持ちは逸るが、悲しいかな起き抜けの身体は、気持ちに反比例して素早く動いてくれない。
あううっ。会社に、なんて言い訳しよう。
病人の課長とケガ人の美加ちゃんはともかく、問題はおまけの私。
工務課課長以下、隣り合ったデスクの三人が仲良く無断欠勤なんて、前代未聞だ。
「美加ちゃん、ごめん! 寝坊しちゃっ――」
きちんと整えれれたベッドの中には誰もいない。
と言うか、しんと静まり返った部屋の中には、人がいた気配そのものが感じられない。
「……あれ?」
トイレにでも行ったの?
たいして広くない我が城は、二間しかない。
私と課長が寝ていた居間と美加ちゃんが寝ていた寝室。
後、人が居られるスペースは、トイレとお風呂くらいだ。
クルリと踵を返した私は居間へ戻り、トイレのドアを忙しなくノックした。
「美加ちゃん居る?」
「高橋さん……」
美加ちゃんから応えはなく、代わりに背後から飛んできたのは、若干覇気のない課長の声だった。
昨夜、あれだけの高熱を出したのだから無理もない。病人に、余計な心配をかけたらだめだ。
焦る気持ちを悟られないように、布団の上で疲れた様子であぐらをかいている課長に向かって、ニッコリ笑顔で口を開く。
「あ、課長は、もう少し休んでいてくださいね。今、何か食べやすいものを作りますから」
「佐藤さんは、一度自分のアパートに戻ってから、会社にいくそうだ」
「はい?」
私と一緒に眠りこけていたはずの課長が、なぜそんなことを知っているのだろう。
え……まさか、課長だけ先に起きていて、美加ちゃんと話しをしたの?
『あの』格好で!?
自分がどんな状態で眠っていたのか思い出し、それを目にしただろう美加ちゃんがどんな表情をうかべたのか手に取るようにわかってしまった私は、げげっと、笑顔が引きつった。
か、課長、起こしてくださいよ-。
いや、起こしてもらっても、恥ずかしいことには変わりがないんだけど。
「――と、これに書いてある」
「え……?」
はい、と手渡された十センチ四方の小さな紙片に視線を走らせながら、課長に向かい合う形で膝をおる。
見覚えのある丸みを帯びた可愛らしい文字は、美加ちゃんの筆跡だ。
『梓センパイ、昨夜は本当にありがとうございました。
おかげで元気になったので、今日は、一度アパートに戻ってから出社します。
課長とセンパイのことは、欠勤で報告しておきますから、ご心配なく。
うふふふ。朝から、ステキなモノを見せていただいちゃいました。
色々な意味で、ごちそうさまでした~』
最後に書かれている、喜色満面がにじみだしているようなハートマークを呆然と見つめ、がっくりと脱力してしまう。
あああ。
見られた。
見られちゃったよ……。
本当、美加ちゃんには、色々と恥ずかしい場面を見られちゃってるなぁ。
昨夜の、『OL・深夜に寝込んだ上司を襲うの図』をしっかり目撃された時のことを思い出し、ヒクヒクと変なふうに、頬がひきつる。
ま、いいか、今更だ。
それに、相手は、美加ちゃんだし。
「あははは……。とにかく、会社への連絡の方は心配いらないですね」
「ああ……」
読み終えたメモをたたんでポケットにしまいそう言うと、課長は曖昧に相槌をうった。
やはり、まだかなりだるそうだ。
「一応、熱を測ってみてください」
リビングボートの小引き出しから、デジタル式の体温計を取り出し手渡すと、課長は無言で受け取り素直にワイシャツのボタンを上二つ外して体温計を脇に挟み込んだ。
露わになった胸元が目に飛び込んできて、昨夜顔を埋めた時の匂いや感触が蘇り、ドキンと、鼓動が大きくはねる。
ば、ばかっ。
朝から、何、考えてるのよ!
「えーと。どこか、近くに、かかりつけの病院とかありますか?」
気づかれないように、胸元から顔の方にさりげなく視線を移しながら問うと、課長は少し逡巡するような間の後、
「……まあ、あるにはある」と、若干、歯切れの悪い返事を口にした。
地元から離れて単身赴任してきている人だから心配したけど、かかりつけの病院があるなら、一安心だ。
「良かった。じゃあ、そこに行きましょう。あ、保険証は、どちらにありますか?」
「部屋に置いてあるな……」
それは、そうだろうな。
私も、用がないときは、失くすといけないから、家に置いてあるもの。
「分かりました。一度、保険証を取りに課長の部屋に寄って、それから病院ですね」
できれば、午前中に診察を済ませて、午後はゆっくり休んで貰った方がいい。
そうと決まれば急いで食事の用意を。そう思い立ち上がろうとしたところに、声をかけられた。
「高橋さん」
真剣さが滲み出すような低い声音に、思わずシャキーンと背筋が伸びる。
「は、はい?」
何事だろうと、正座をしたまま、続く言葉を待ったが課長は眉間に皺を刻んだ難しい表情のまま、黙り込んでいる。
ぐ、具合、そうとう悪いんだろうか?
言葉も出ないほどにどこか痛むのだろうかと心配していると、ぼそっと、応えがあった。
「昨夜なんだが――」
「はい?」
再び落ちる沈黙。
「最後にビールを飲んだあたりから記憶が曖昧なんだが」
「……」
それは、良かった。
あんな恥ずかしい記憶は、ない方が課長の精神衛生のためにはいいに決まっている。
そうホッとしながらも、ちょっぴり残念な気もする。
「何か、失礼なことをしなかっただろうか?」
「……」
申し訳なさそうなシュンとした表情が可愛く思えて、思わずヘラっと笑ってしまいそうになるのを堪えて、頬の筋肉を引き締める。
「別に、何もないですよ」
そう、何もなかった。
その行動の真意がどんなものであれ。
「本当に?」
「本当に」
それが、誰にとっても一番いい答えのはずだ。
「なら、いいんだが……」
「はい。それじゃ、何か作りますから、食べたら病院に行きましょう!」
私は、胸の奥に走る寂しさに蓋をして、少しぎこちない笑顔を浮かべた。