第4話 白目の剣士は詩人だった
ダンジョンを抜けて、三日が経った。
その間に、『筋肉語辞典』は二頁目に突入していた。
上腕三頭筋——おや。(軽い驚き)
大胸筋——よくやった。(※自力で解読)
ハムストリングス——急げ。(言われた直後に担がれて走られた)
大腿四頭筋——任せろ。(たいてい岩が砕ける)
レオナいわく、私の解読速度は「歴代最速」らしい。
歴代といっても、比較対象はレオナの勘しかないのだけれど。
◇
その夜も、私たちは街道脇の林で野営をしていた。
焚き火の向こうで、エルダーが膝を抱えて座っている。
炎に照らされた白目が、ぼんやりと赤く光っていた。何度見ても、心臓に悪い。
レオナは早々に寝転がって、いびきをかき始めている。
クラウスは少し離れたところで、片手逆立ちのまま腕立て伏せをしている。夜でもやるらしい。
私は膝の上に手帳を広げて、辞典の整理をしていた。
「……エル・ノア、セラ・ヴォル」
焚き火の向こうから、エルダーの呟きが聞こえた。
ペンが止まる。
まただ。
初めて会った日から、ずっと引っかかっている響き。どこかで読んだことがあるのに、どうしても思い出せない。
読んだことがある。
聞いたことがある、ではなく。
「……あ」
私は手帳の新しい頁に、今の音を書き留めた。
ただし、普通の文字ではなく、別の文字で。
角張った、古い文字。
魔導書の詠唱文に使われている、古代文字で。
エル。ノア。セラ。ヴォル。
書き終えて、私はしばらくその四つの単語を見つめていた。
知っている。
全部、知っている単語だ。
エルは星。ノアは風。セラは帰る。ヴォルは巣。
「星と風は、巣に帰る」
声に出して読み上げた瞬間、全身に鳥肌が立った。
古代語だ。
エルダーが呟いていたのは、ずっと、古代語だったのだ。
どうして今まで気づかなかったのか。
答えは簡単だった。私は古代語を、読んだことしかなかったのだ。
魔導書には文字しか書かれていない。発音記号もなければ、抑揚の説明もない。
私の頭の中で、古代語はずっと「見る言葉」だった。誰かの口から「聞く言葉」として出てくるなんて、考えたこともなかった。
「エルダーさん」
焚き火越しに呼びかける。声が少し震えた。
白目が、ゆっくりとこちらを向く。
私は手帳を握りしめて、息を吸った。
生まれて初めて、古代語を声に出す。
「……ル、ヴェ、ナ……ヴォル?」
ようこそ、小さな巣へ。
そう言ったつもりだった。
エルダーは、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ首を傾げて、言った。
「ル・ヴェナ・ヴォル」
同じ言葉だった。
けれど、まるで別の言葉のように滑らかだった。音と音の間が、水のように繋がっている。
発音を、直されたのだ。
「ル・ヴェナ・ヴォル」
もう一度、真似をする。
エルダーは小さく、本当に小さく、頷いた。
「……イスタ、ソル」
賢者よ、よくできた。
私は思わず、手帳で顔を覆った。
なんだろう、これは。
怖い人だと思っていた。魔物の群れに飛び込んでは全滅させ、それを全部食べてしまう、白目の怪物だと。
その人が、今、私の拙い発音を、優しく直してくれた。
◇
「エルダーが喋っただと!?」
翌朝、事情を説明すると、レオナは飛び起きた。
「ずっと喋ってましたよ。皆さんが分からなかっただけです」
「三年だぞ!? 三年一緒にいて、私は一度もエルダーと会話したことがないんだぞ!?」
「よく三年も一緒にいられましたね」
「前鋸筋」
「クラウスも『すごい』と言っている!」
エルダーは朝食の干し肉を齧りながら、いつも通り白目で座っていた。
本人は、何がそんなに騒ぎなのか分かっていない様子だった。
「セシル、頼む。ずっと聞きたかったことがあるんだ。通訳してくれ」
レオナが私の両肩を掴んだ。目が真剣だ。
「エルダーの、好きな食べ物は何だ」
「三年越しの質問がそれですか」
とはいえ、断る理由もない。
私は手帳をめくって単語を組み立て、たどたどしくエルダーに尋ねた。
エルダーは少し考えてから、ゆっくりと答えた。
私はそれを、一語ずつ訳していく。
「ええと……『朝露に濡れた、名もなき草の根。誰にも踏まれず、誰にも知られず、ただ土の中で春を待っていたもの』……だそうです」
「それは道端の何かだろう」
「道端の何かですね」
「三年かけて分かったことが、それか……」
レオナはがっくりと肩を落とした。
しかし、すぐに立ち直って、次の質問を考え始める。立ち直りの早さだけは本当に尊敬する。
すると今度は、クラウスがのっそりと前に出てきた。
「ヒラメ筋」
「『普段は何を考えているんだ』と言っている」
「ヒラメ筋にそんな複雑な意味が!?」
つまり、こういうことになる。
クラウスの筋肉語を、レオナが普通の言葉に訳す。それを私が古代語に訳して、エルダーに伝える。エルダーの答えを私が訳して、二人に伝える。
「……私を挟んで会話するの、すごく疲れるんですけど」
「頼りにしているぞ!」
「頼りにしないでください!」
それでも、通訳はした。
エルダーの答えは、こうだった。
「『星の数を、数えている。昨日は九百十二まで数えた。今日はもっと先まで行けるかもしれない』」
「……」
「……」
「……前鋸筋」
「クラウスが感動している」
「私もちょっと感動しました」
◇
その日、私たちは歩きながら、ずっとエルダーと話をした。
エルダーの言葉は、どれも短くて、詩のようだった。
風の匂いで、明日の天気が分かること。
夜明け前の空が一番好きなこと。
ブラッドウルフの群れにも、帰る巣があったこと。
「『だから私は、残さず食べる。それが、命を奪った者の礼儀だから』……と、言っています」
訳しながら、私は少し言葉に詰まった。
魔物を喰らう怪物。
そう聞いていた人の、それが答えだった。
レオナが、珍しく静かな声で言った。
「……そうか。そういう理由だったのか」
「レオナさん、知らなかったんですか」
「知らなかった。てっきり、腹が減っているだけだと思っていた」
「たぶん、それもあると思います」
それから、ずっと気になっていたことを、私は尋ねてみた。
「エルダーさんは、どうしていつも白目なんですか」
エルダーは歩みを止めずに、少しだけ空を見上げた。
もちろん、白目のまま。
「『目を開けていると、世界が少し、騒がしすぎるから』」
「……」
「どういう意味だ?」
「分かりません。詩的すぎて分かりません」
「アッハッハ! 分からないのはいつも通りだな!」
そう、いつも通りだった。
言葉が分かるようになったところで、この人のことが全部分かるわけではない。
でも、少なくとも、怖い人ではなかった。
◇
もうひとつ、気づいたことがある。
「そういえば、ダンジョンで壁に触った時、エルダーさん、『ネ・ファラ』って言ってましたよね」
「言っていたか?」
「言ってました。あれ、『気をつけて』って意味です。ファラは『危険』」
レオナとクラウスが、ぴたりと足を止めた。
「つまり」
「エルダーさんは、壁が跳ね返してくるって、最初から分かってたんです。分かってて、私たちに警告してくれてたんですよ」
「……我々は、その警告を無視して壁を殴ったのか」
「殴りましたね。全力で」
「上腕三頭筋」
「『おや』じゃないです」
エルダーは、何も言わずに道端の草を摘んで齧っていた。
気にしていないらしい。
それにしても、と私は思った。
エルダーは、どこで古代語を覚えたのだろう。
スラム街で育った人が、学者でさえまともに発音できない言葉を、どうして話せるのか。
その夜、焚き火を囲みながら、私は尋ねてみた。
エルダーの答えは、短かった。
「『魔物たちは、皆、この言葉で話す。喰らううちに、覚えた』」
ぱち、と焚き火が爆ぜた。
魔物たちの言葉。
それが、古代語。
そして古代語は、魔導書の言葉だ。
すべての魔導書の詠唱は、古代語で書かれている。そういうものだと、ずっと思っていた。どうしてそうなのか、考えたこともなかった。
もし、魔物の言葉で書かれた魔導書を、最初に書いたのが——
私は首を振って、その考えを追い払った。
今そんなことを考えても仕方がない。きっと、偶然だ。
「……ヴェナ・イスタ」
顔を上げると、エルダーが白目のまま、こちらを向いていた。
小さき賢者。
初めて会った日から、この人はずっと、私をそう呼んでいたのだ。
エルダーは焚き火に枝をくべながら、もう一言だけ付け加えた。
私は、それを訳すのに少し時間がかかった。
単語は全部知っていた。ただ、意味を飲み込むのに、時間がかかったのだ。
「『小さき賢者の中には、満ちた川がある。けれど、その川は、まだ一度も流れたことがない』」
レオナとクラウスは、もう眠っていた。
だから、この言葉を聞いたのは、私だけだった。
満ちているのに、流れたことのない川。
それが何のことなのか、私には分かってしまった。
魔法を使える力はあるのに、一度も使ったことのない人間。
人探しの魔法具が選んだ、「一番多くの魔法を使える者」。
「……おやすみなさい、エルダーさん」
返事はなかった。
エルダーはもう、白目のまま眠っていた。いや、最初から寝ていたのかもしれない。本当に分からない人だ。
私は手帳を閉じて、焚き火の火を見つめた。
その夜、私は生まれて初めて、自分の声で古代語を話した。
魔法では、なかったけれど。




