第一話 三年前に異世界人が来ていたので、王国の飢饉は防げたはずだった
三年前。
アルディナ王国の北西部。
王都から馬車で七日ほど離れた、小さな農村。
その村の外れに、一人の青年が倒れていた。
「……痛てて」
青年の名前は、高橋悠真。
二十一歳。
日本で暮らしていた、ごく普通の大学生だった。
つい先ほどまで、大学の帰り道を歩いていたはずだった。
それが、気づけば見知らぬ草原に倒れていたのである。
「……どこだ、ここ?」
見渡す限りの荒れ地。
遠くには森があり、石造りの家が数軒見える。
電柱もない。
舗装道路もない。
スマートフォンを取り出してみたが、当然のように圏外だった。
「……異世界転移ってやつか?」
冗談のつもりで呟いた。
その瞬間。
目の前に、半透明の文字が浮かび上がった。
【異世界転移者を確認しました】
【固有スキルを付与します】
【土地改良 Lv1】
【成長促進 Lv1】
「……本当に異世界かよ」
悠真は頭を抱えた。
さらに、文字が続いた。
【初期支給品】
【ジャガイモの種芋 5個】
【トウモロコシの種子 100粒】
足元に、小さな麻袋が現れた。
中を覗く。
ジャガイモが五個。
そして、黄色い粒が詰まった小袋。
「……剣とか魔法じゃなくて、農業?」
悠真は空を見上げた。
「せめて、もう少し分かりやすいチート能力にしてくれよ……」
だが、このときの悠真は知らなかった。
この五個のジャガイモと百粒のトウモロコシが、三年後、王国の運命を左右することになるなど。
ましてや、自分が育てた食料が多くの人々を救う可能性を持ちながら、飢饉を止められない原因の一つになることなど。
まだ、知るはずもなかった。
「おい、そこの若いの!」
声をかけてきたのは、白髪交じりの老人だった。
粗末な服を着て、鍬を肩に担いでいる。
「こんなところで何をしている?」
「あ、えっと……道に迷いまして」
「道に迷った?」
老人は悠真の服装を見た。
「妙な服だな。旅人か?」
「まあ、そんなところです」
「腹は減っているか?」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の腹が鳴った。
老人は苦笑した。
「正直な腹だな。ついてこい」
老人の名前は、ハインツ。
この村の村長だった。
村の名前は、ベルナ村。
人口は百二十人ほど。
主な産業は麦の栽培だった。
しかし、村に案内された悠真は、すぐに異変に気づいた。
畑の麦が、ひどく痩せていたのだ。
背丈が低い。
葉は黄色く、穂も小さい。
土を触ってみると、硬く乾いていた。
「……この畑、ずいぶん痩せていますね」
ハインツは苦い顔をした。
「ここ数年、収穫が落ち続けている」
「肥料は?」
「家畜の糞や腐葉土を使っている。だが、家畜も減ってしまってな」
「水は?」
「雨頼みだ。川は遠い」
悠真は畑を見つめた。
「……なるほど」
そこで、ふと思い出した。
自分に与えられたスキル。
土地改良。
「ちょっと試してもいいですか?」
「何をだ?」
「土を、少し良くできるかもしれません」
ハインツは怪訝そうな顔をした。
「土を良くする?」
「はい」
悠真は畑の端にしゃがみ込んだ。
手のひらを地面に当てる。
「……土地改良」
その瞬間。
淡い緑色の光が、地面へ染み込んだ。
「なっ……!」
ハインツが後ずさった。
悠真自身も驚いていた。
硬かった土が、ゆっくりとほぐれていく。
表面にできていた亀裂が崩れ、土が柔らかくなった。
悠真は指で掘ってみた。
「……すごい」
土の粒が細かくなり、空気を含んだように軽くなっていた。
目の前に文字が浮かぶ。
【土地改良成功】
【対象面積:10平方メートル】
【土壌構造を改善しました】
【保水性・通気性が向上しました】
【注意:不足している水分・養分は別途補給が必要です】
「……なるほど」
便利だが、何でもできるわけではない。
水がなければ作物は枯れる。
肥料がなければ土は痩せる。
それでも、農業にとっては十分すぎる能力だった。
ハインツは震える声で尋ねた。
「……お前、魔術師なのか?」
「いや、たぶん違います」
「では、何者だ?」
悠真は少し考えた。
そして、答えた。
「……農業が得意な旅人、ということにしておいてください」
翌朝。
悠真は村長から、小さな畑を借りた。
広さは、およそ百平方メートル。
もともとは麦を育てていた場所だったが、収穫が悪く、今年は使われていなかった。
「本当に、ここで何か育てるのか?」
ハインツが尋ねる。
「はい」
悠真は麻袋を開いた。
「まずは、これです」
取り出したのは、ジャガイモ。
ハインツは首を傾げた。
「……石か?」
「食べ物です」
「これを食べるのか?」
「はい。茹でても焼いても美味しいですよ」
「こんな土の塊みたいなものが?」
「土の塊じゃありません!」
悠真は苦笑した。
続いて、黄色い粒を見せる。
「それから、こっちはトウモロコシです」
「麦か?」
「似ていますけど、違います」
「これも食べられるのか?」
「食べられます。しかも、うまく育てればかなりの量が収穫できます」
悠真は、手の中の種芋を見つめた。今夜これを煮れば、腹を空かせた誰かが一度だけ笑える。だが植えれば、その誰かは今夜を空腹のまま越さなければならない。未来のためという言葉が、目の前の飢えを軽くしてくれるわけではなかった。だからこそ、悠真は村人に頭を下げた。「俺の考えが間違っていたら、責任は俺が取ります。……それでも、植えさせてください」
ハインツは疑わしそうに二つの作物を見比べた。
「……そんな便利な作物があるなら、なぜ誰も育てていない?」
「この世界には、まだないのかもしれません」
「ふむ……」
ハインツは腕を組んだ。
「まあ、試してみるがいい」
悠真はジャガイモを植えた。
五個のうち、芽の位置を確かめながら四個を分割し、切り口を乾かしてから植え付けることにした。
残る一個は予備として保存した。
トウモロコシの種も、間隔を空けて土に埋めた。
そして、「……成長促進」
淡い光が畑を包んだ。
土の表面が、かすかに動いた。
数分後。
小さな芽が顔を出した。
「……おおっ!」
ハインツが声を上げた。
「芽が出たぞ!」
「……本当だ」
悠真も驚いていた。
【成長促進成功】
【植物の成長速度を上昇させました】
【現在の促進倍率:5倍】
【注意:成長に応じて水分・養分を消費します】
悠真は表示を見て、すぐに水桶へ手を伸ばした。
「村長、水を持ってきてもらえますか!」
「水?」
「このままだと、土の中の水分が足りなくなります!」
ハインツは慌てて走り出した。
「分かった! 井戸から運ばせる!」
その日。
ベルナ村の人々は、見たこともない植物が芽を出す光景を目撃した。
しかし、悠真の能力には限界があった。
土地改良は、一度に十平方メートルほど。
成長促進も、一度に広い畑へ使えるわけではない。
何度も使えば、悠真自身がひどく疲労する。
そして何より。
成長が早くなった分だけ、作物は大量の水と養分を必要とした。
「……これ、思ったより大変だぞ」
夕方。
悠真は畑の脇に座り込んでいた。
全身が汗まみれだった。
ハインツが水を差し出す。
「無理をするな、若いの」
「ありがとうございます……」
「しかし、驚いた」
ハインツは芽を見つめた。
「こんなものは、生まれて初めて見た」
悠真は笑った。
「うまく育てば、もっと驚きますよ」
「そうなのか?」
「はい」
悠真はまだ小さな芽を見つめた。
「この村の人たちが、腹いっぱい食べられるくらいにはしたいですね」
ハインツはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……それができたら、本当にありがたい」
その声には、悠真が思っていた以上の重みがあった。
一か月後。
ベルナ村に、小さな奇跡が起きた。
「……掘るぞ」
ハインツが鍬を持った。
悠真が頷く。
「お願いします」
土を慎重に掘り返す。
すると。
ごろり。
丸いものが現れた。
「……なんだ?」
もう一つ。
さらに、もう一つ。
土の中から、次々とジャガイモが姿を現した。
「お、おい……!」
ハインツが声を震わせた。
「一つ植えただけで、こんなに増えるのか!?」
「正確には、種芋の一部を植えたんですけどね」
「そんなことはどうでもいい!」
ハインツは夢中で掘り続けた。
村人たちも集まってくる。
「何だ、これは!」
「石じゃないのか!?」
「食べられるって本当か!?」
悠真は笑った。
「じゃあ、実際に食べてみましょう」
村の共同炊事場。
大きな鍋に水を張り、ジャガイモを茹でる準備を始めた。
そこで悠真は、集まった村人たちに声をかけた。
「皆さん、食べる前に大切な注意があります!」
「注意?」
ハインツが首を傾げた。
「はい。ジャガイモは美味しい食べ物ですが、食べ方を間違えると危険なんです」
悠真は、一つのジャガイモを持ち上げた。
「まず、芽が出ているものは、その芽と周りの部分を深く取り除いてください」
「芽を取るのか?」
「はい。芽には毒があります。ソラニンやチャコニンという成分です」
村人たちは顔を見合わせた。
「毒だって!?」
「それなら食べない方がいいんじゃないか!?」
「落ち着いてください。正しく選んで調理すれば、美味しく食べられます」
悠真は、もう一つのジャガイモを見せた。
「それから、皮が緑色になっているものにも注意してください。緑色になった部分には毒性成分が多く含まれていることがあります。緑色のものは食べずに取り除きましょう。特に小さく未熟な芋も避けてください」
「なるほど……」
ハインツが真剣な顔で頷いた。
「それと、もう一つ」
悠真は村人たちを見渡した。
「ジャガイモは生で食べないでください。必ず十分に加熱してから食べましょう」
「茹でればいいのか?」
「はい。茹でたり、焼いたりしてください。ただし、加熱すれば毒が消えるわけではありません。芽や緑色の部分を取り除くことが大切です」
ハインツは腕を組んだ。
「つまり、芽を取り、緑色のものを避けて、火を通すんだな?」
「その通りです」
「よし、分かった!」
ハインツは村人たちに向き直った。
「みんな、聞いたな! この作物を育てる者は、必ず食べ方も覚えるんだ!」
「おお!」
悠真はほっとした。
食料を増やすだけでは意味がない。
安全に食べられるようにすることも、大切な仕事だった。
やがて、ジャガイモが茹で上がった。
ほくほくと湯気が立つ。
悠真は一つを割った。
白い中身が現れる。
「熱いので気をつけてください」
ハインツが恐る恐る口に運んだ。
「……む?」
一口。
二口。
そして、「……うまい」
小さな声だった。
「……これは、うまいぞ」
ハインツは顔を上げた。
「麦の粥とは違う。腹にたまる。しかも、こんなに簡単に育つのか?」
「条件が合えば、ですね」
「……そうか」
ハインツは、手の中のジャガイモを見つめた。
「これがあれば……」
そこで、言葉が止まった。
悠真は気づいた。
老人の目に、涙が浮かんでいた。
「村長?」
「……去年な」
ハインツが呟いた。
「この村では、三人の老人が冬を越せなかった」
悠真は黙った。
「食料が足りなかった。若い者と子供に食べさせるため、自分の分を減らしていたんだ」
ハインツはジャガイモを握りしめた。
「もし、去年これがあれば……」
悠真は何も言えなかった。
目の前の作物が、ただの珍しい食べ物ではないことを、ようやく理解した。
これは、人の命を救うものなのだ。
「……村長」
悠真は静かに言った。
「来年は、誰も飢えないようにしましょう」
ハインツは顔を上げた。
「できるのか?」
「分かりません」
悠真は正直に答えた。
「でも、増やせます。種芋を残して、畑を広げて、水を確保して……少しずつ」
そして、笑った。
「俺のスキルだけじゃ無理ですけど、村のみんなでやれば、きっと」
ハインツは長い間、悠真を見つめていた。
やがて、深く頷いた。
「……分かった」
老人は立ち上がった。
「明日から、村の者を集めよう」
「え?」
「畑を増やす。水路も直す。家畜の糞も集める」
ハインツの声に力が戻った。
「お前一人に任せるものか」
その日から。
ベルナ村の農業が変わり始めた。
さらに二か月後。
悠真は帳簿の余白に二本の線を引いた。一本は「収穫量」、もう一本は「食卓に届いた量」。まだどちらも空白だった。「増えた数だけ、救えた人数になるわけじゃないんだな」その意味を、彼は三年後に痛いほど思い知ることになる。
トウモロコシの収穫も始まった。
「なんだ、この大きな穂は!」
「粒がびっしりだぞ!」
「これ、本当に食べられるのか!?」
村人たちは大騒ぎだった。
悠真は収穫したトウモロコシの一部を茹でた。
黄色い粒が、つやつやと輝く。
「はい、どうぞ」
ハインツがかじりついた。
しゃくっ。
「……甘い!」
「でしょう?」
「なんだ、これは! 麦なのに甘いぞ!」
「だから麦じゃありませんって!」
周囲から笑い声が上がった。
子供たちも夢中で食べていた。
だが、悠真は全てを食用にはしなかった。
十分に熟した穂は乾燥させ、翌年の種として保存する。
ジャガイモも、健康な株から採れたものを種芋として選別した。
「食べてしまわないのか?」
ハインツが尋ねた。
「はい。今全部食べたら、来年増やせませんから」
「……なるほど」
悠真は種子を詰めた袋を持ち上げた。
「それから、保存方法も違います」
「保存方法?」
「ジャガイモは暗くて涼しい場所に保管します。でも、長い間そのまま置いておけば、芽が出たり腐ったりします。毎年育てて、収穫したものを順番に食べたり売ったりする必要があります」
「ふむ」
「トウモロコシは、十分に乾燥させて粒の状態にすれば、ジャガイモより長く保存できます。ただし、湿気や虫、カビには注意が必要です」
ハインツは感心したように頷いた。
「同じ食べ物でも、ずいぶん違うんだな」
「はい。保存を失敗すると、せっかく作っても無駄になってしまいますから」
悠真は袋を持ち上げた。
「来年は、もっと広い畑で育てます」
「どれくらいだ?」
「まずは十倍」
「十倍!?」
「それから、再来年にはさらに増やして……」
悠真は村の向こうに広がる荒れ地を見つめた。
「いつか、この辺り全部を畑にしたいですね」
ハインツは呆れたように笑った。
「大きく出たな」
「夢くらい、大きくてもいいでしょう?」
「違いない」
二人は笑った。
そのとき。
村の入口から、馬車の音が聞こえてきた。
一台の荷馬車だった。
立派な服を着た男が降りてくる。
「ここがベルナ村か?」
ハインツが振り返った。
「そうだが……何か用か?」
男はにこりと笑った。
「王都の穀物商、アコギ・ヴァレンと申します」
悠真は首を傾げた。
「穀物商?」
「ええ」
アコギは畑を見渡した。
そして、黄金色のトウモロコシに目を留める。
「……これは?」
「トウモロコシです」
悠真が答えた。
「ほう……」
アコギは一本を手に取った。
粒の大きさを確かめる。
重さを量る。
そして、静かに笑った。
「……素晴らしい」
「え?」
「これほどの収量が見込める作物が、この王国に存在していたとは」
アコギは悠真を見た。
「ぜひ、私に売っていただきたい」
「どれくらいですか?」
「収穫した分を、すべて」
悠真は驚いた。
「全部ですか?」
「ええ。来年以降も、私の商会が全量を買い取りましょう」
ハインツの顔が明るくなった。
「本当か!?」
「もちろん。相応の金額をお支払いします」
アコギは穏やかに微笑んだ。
「この作物が広まれば、多くの人々を救えるでしょう」
その言葉を聞いて、悠真は嬉しくなった。
自分たちの作った食料が、ほかの村にも届く。
飢えている人たちを救える。
そう思ったのだ。
「……ぜひ、お願いします!」
悠真は手を差し出した。
アコギは、その手を握った。
「ええ。お任せください」
二人は笑顔で握手を交わした。
だが、アコギが馬車に戻ったあと。
彼は帳簿を開き、小さく呟いた。
「……新しい作物か」
その目は、すでに商人のものだった。
「麦よりも育てやすく、収量も多い。しかも、まだ誰も価値を知らない」
アコギは計算を始めた。
仕入れ値。
輸送費。
保管費。
そして、将来の販売価格。
「……これは、大きな商売になる」
男は帳簿を閉じた。
「王都の倉庫を、もう一つ借りる必要がありそうだな」
馬車が走り去る。
悠真は、その背中を笑顔で見送っていた。
自分の作った食料が、王国中に広がっていく。
そう信じていた。
しかし、三年後。
アルディナ王国は、未曾有の飢饉に襲われる。
村々から食料が消え、人々は麦一粒を奪い合うようになる。
一方。
王都の巨大な穀物倉庫には、その年に収穫されたトウモロコシが、十分に乾燥させた粒の状態で大量に保管されていた。
ジャガイモは長期保存に向かないため、収穫のたびに商会の集荷場へ運ばれ、売り先が決められていた。
三年前、異世界人が持ち込んだ五個のジャガイモと百粒のトウモロコシ。
それらは毎年植えられ、収穫され、増え続けていた。
だが、生産量が増えても、飢えた人々の食卓が豊かになるとは限らなかった。
商会は収穫物を買い集め、王都や軍への販売を優先した。
高騰した価格を払えない村には、食料が届かなかった。
食料を作ることには成功した。
しかし、食料を公平に届けることには失敗していた。




