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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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主が走れば運命も走る(人事を尽くして天命を待つ)5

 粗末な扉と薄い壁の向こうから、カロンカロンと鐘を鳴らす音が漏れ聞こえる。


 「ああやって、うるせェ音たてて来るんだよゥ。汚ェ襤褸でもサ、貰えるモンは貰っとくってェ輩はいるからね」

 「襤褸ねえ~。まあ、巻き付ければ破れた服でもあったかいからねw」

 「穴が開いてるだの、破れてるのはいいんだけどサ。洗ってねェの。ひでェのは糞小便ついたままだ」

 「それ、ただたんにゴミ捨ててるだけだねw」


 洗えば良いとしても、冬の大都での洗濯は大仕事だ。

 裕福でなくとも一般家庭なら、肌着は魔導具でぬるま湯を沸かし、やいえっと洗ってしまって暖房の聞いた部屋に干す。

 そして、大量の湯、もしくは長時間冷水に手を浸す忍耐力が必要となる衣服は、洗濯屋へ持ち込むのが常識である。

 しかし、このシミ通りに生きる人々の何割が、それができるというのか。


 通りからは、鐘以外にも人々の声が聞こえてきていた。

 怒声や控えめな静止の声。複数の声がする。明瞭には聞き取れないが、「少しでもマシ」な服を得るために争っているようだ。


 「襤褸切れでもおありがてェって連中はね。通りを外れたあばら家に棲みついてる、金を稼ぐ手も気概もねェトンチキどもサ。お帰りはお気をつけなさんし。やつらの金稼ぎってのは、弱った奴を物陰に引き摺りこんで身包みをはぐってこったからねェ。嫌なもん見るよゥ」

 「やはり、犯罪の温床になっているようですね」

 「早めに鉱山送りにした方が良さそうね~っと、この先の相談してる場合じゃなかったかw」


 す、とジャスワンの双眸が細くなり、しばし無言のまま何かを見ていた。

 その間、誰も声を発さず、黙って見守る。


 ゆっくりと瞼が閉じ、開くと、ジャスワンは一行の顔をぐるりと見まわした。視線は最後にオツタの顏で止まる。

 

 「姐さん、『顔剥ぎ』に顔見られたり、証拠の耳飾り持ってるのバレてる?」

 「そんなへましねェよ。『顔剥ぎ』見つけたってのを言ったのも、オチエにだけさ」

 「オチエ…チェ殿の事か」

 「同郷の顔見知りだからよ、口が滑っちまってね」

 「まー、おかげでホンちゃんに繋がったんだしwんじゃ、次の質問wこの家、そこの扉以外からも、外に出れるかい?」


 ジャスワンの質問に、オツタは再び首を振った。


 「そんな上等な家じゃねェですよ。ダンナ」

 「そっかあ。じゃあ、こっそり姐さん逃がすのは無理ね」

 「二階があるなら、二階の窓から出るのはどうだ!将軍!」

 「あってもちっこい明り取りだけと思うよーw人が出れるような大きさにしたら、金払わずに逃げるかもじゃんw」


 高級な妓楼ならば、窓の外に見える光景…それは賑やかな夜の街であったり、綺麗に整えられた庭であったりするが、それも店の調度のひとつだ。

 しかし、この店にそれが必要かと問われれば、オツタは鼻で笑うだろう。誰がそんなものを求めてこの店に来るのかと。


 「周りに『顔剥ぎ』ばれないようにはしてるみたいだしぃ、いきなり襲い掛かってきたりはしないっしょ。堂々と人通りの多いとこ選んでいこ…」


 ジャスワンの提案に、扉を叩く音が重なる。

 扉のすぐ前にいたココチュが立ち上がり、「どうする?」と視線で問いかけた。


 「…将軍。些か不安ではありますが、この中で最も指揮官に相応しいのは貴方だ。指示を」

 「え、ダンナ、将軍サマだったのかい!?」

 「まーねえ。同僚の中じゃ一番下っ端だけどwココ、ちょい待機。靴もって、こっち来て」


 それでも、オツタは目を見開き、驚いたようだ。

 アスランにおける将軍は、千人長以上になる。大都でも百人程度だ。断事官の護衛に駆り出されるような身分ではないのだから、驚くのは当然とも言える。

 さらにその「将軍」の最高位である十二狗将だと名乗れば、逆に信憑性がなくなりそうだ。

 ごく当たり前に考えて、シミ通りは王子三人と十二狗将一人が近付くような場所では、絶対にないのだから。


 「俺にも異論はない!一兵として扱ってくれ!」

 「俺もだ」

 「合点承知。ただ、アレと実際やりあったことがあるのは、ヤクモきゅんだけだからね。なんか思いついたことあったら、遠慮せずいって」

 「ふぇ!?」


 「ぼくも!」と手を挙げようとした動作の途中のまま、ヤクモは固まって目を瞬かせた。

 

 「えと、えと、すっごいばっしーんって来て、すぐ、いなくちゃったです。それで、その、殺されちゃったひとは、ぼくが行くまで生きてたし、でも、怖がってたから…」

 「殺られたのはさー。アスラン軍騙って悪さしてた三下だったんだけどさ。たぶん、自分から絡みに行ったんじゃねーかなって思うのよ。だから、最初の見た目はふつーの女なんだろね。野郎の死体を検分したら、酸で溶かされてんのと、牙みたいなもんで抉られてんのと、両方あってさ。魔獣を隠し持ってるのか、あるいは…」


 あるいは、自身が化け物か。

 

 ヤクモの脳裏によぎったのは、マルダレス山で戦った、敬虔な司祭だったモノ。

 同じようなモノであるならば。


 「そうなると、ファンがいないのは厳しいかもしれんな!」

 「そだねえ。ファンなら、どーゆー攻撃してくるとか、すぐわかりそうだし」

 「それもあるが、魔の眷属には灯ぬきで戦うと鈍ると言っていた…気がする!」

 「あ!」

 

 あの一戦。終わって麓の村で休養中に、灯の刻印を使ったのかと聞いたとき。

 全力を惜しむ余裕はなく、魔を斃すには灯の刻印で創造神の呪縛を打ち消さなきゃいけないらしいからさ、と、自分もよくわかっていないように言っていた。

 実際、ファンも魔王の眷属と戦ったのは初めてであるし、実体験や信頼できる文献がないと断言しない男だから、「そーなんだー」程度で済ませたが。


 「…それはだいぶん、ステキなお話だね。せっかく向こうから来てくれたんなら、さくっと首とろwって思ってたけど、仕方ない。諦めるか」

 

 オツタには、何を話しているかわからないだろうが、何の話かと口を挟むことはなく、むしろ顔を背け「聞いてない」という姿勢を見せていた。

 その様子に、ジャスワンの口許に再び笑みが宿る。


 「んじゃ、ココちゅん。何はなくともこのお姐さん死守。ホンちゃん、それでいいよね?」

 「無論」

 「んなわけでぇ、申し訳ないけど三人は自分の身、自分で守ってねん」

 「承知した!将軍はどうするのだ?」

 「そりゃあ、御尊顔拝みにいきますとも」

 

 ジャスワンの視線が示すのは、控えめに、しかししつこく叩く音が続く扉。そして、その先だ。


 「無茶をなさらないように。それと、これを」


 その行動を止めはせず、ホンランが差し出したのは、小さな水晶球が嵌った胸飾り。それを受け取って、外套の分厚い生地に差し込む。


 「オツタ殿。二階に上がらせていただいても?また、靴を履いて絨毯を歩きます。後ほど、絨毯は新しいものを弁済いたしますので、了承願いたい」

 「元から綺麗なもんじゃないからねェ。新しいの買ってくれるなら、いくらでもどうぞ、さ」

 「ありがたい。では、二階へ」

 「将軍!援軍が必要と判断したら、勝手に駆けつける!」

 「まあ、そりゃないと思うけど、よろっしく~ん」


 なるべく気配と足音を消して、一行は軋む階段を登った。

 比べる方が悪いのだろうが、天井の高さは紅鴉宮の半分ほどであり、階段もすぐに登り終える。ヤクモの脳裏には、懐かしいアステリアでの定宿と、主人の謎に赤らんだ顔がよぎった。


 「好きに陣取ってくれてかまわないよ」


 二階は衝立で三つに区切られている、ただそれだけの部屋だ。

 絨毯と色褪せた毛皮は敷かれているが、座布団すらなく、冷え切っている。明り取りの窓は締められていたが、窓を塞ぐ分厚い布に開いた穴から、うっすらと光がさし、部屋を照らしていた。

 

 「暖房はないんだ。堪えとくれ。下の部屋をあっためりゃ、商売はじめるころにゃあ、裸であれそれ出来る程度にゃ暖まるんでねェ」

 「あなたの外套は?」

 「このくらい、慣れてるさね」


 オツタの手が明り取りの窓を塞いでいた布を捲ると、部屋は明るくなったが、気温はさらに下がる。

 その指先が血の気を喪うのを見て、ホンランは羽織っていたマントを脱いだ。


 「せめてこれを」

 「…汚れるよ」

 「慣れている」


 しばしの躊躇いの後、オツタはしぶしぶと言った体でマントを受け取った。身体に巻き付けると、あきらかに顔が緩む。やはり、寒かったのだろう。


 「では、ホンラン殿!俺のを使え!動くのに邪魔だ!」

 「しかし」

 「受け取ってあげてくださいー。ユーシン、ほんっとーに寒いって思ってないし、着てくれなかったら、そのへんにポイするから」

 「…さすがはキリクの戦士ですね」


 やや呆れも混ざった声に、ユーシンはニッと笑って応えた。部屋の入り口に陣取り、槍の鞘を外して身を屈める。何かあれば、一挙動で飛び出し、階段を駆け下りるつもりなのだろう。


 「狭い建物の中で、槍と剣ともに振り回すのは危ないな。俺はこっちにしておこう」

 「うむ!頼んだ!」


 シドが抜き放ったのは、腰のベルトに固定してある小剣だ。同じように階下へ神経を集中させる。


 「…非常に、不本意ではありますが。出入口の守りは、あの御二方にお任せしましょう。オツタ殿、『顔剥ぎ』の顔は判りますか?」

 「あたぼうよゥ。忘れっこねえわ」


 オツタの返答にホンランは頷き、肩から下げていた鞄から筒を取り出した。

 さらにその筒から抜き出したのは、白い絹布だ。それほど大きくはなく、縦横ともに彼女の肩幅程度のものである。

 手巾にするには大きすぎ、首にでも巻くには短すぎる、そんな大きさだ。


 「えと、これは…?」

 「将軍にお渡しした水晶球は、将軍と視覚と聴覚を共有します。そして、その見たものをこの絹布に映し、聞いたものをこの鳥の口から発します」


 筒を傾けると、滑り出てきたのは文鎮だった。ヤクモにはそれが何の石で出来ているか見当もつかないが、とろりとした朱色の石から削り出され、中央には翼と口を開けた小鳥が彫り出されている。

 それ以外の平らかな面にはびっしりと陣が刻まれ、ホンランの指が小鳥に触れると、中央に近い部分から燐光を放ち始めた。

 手早くホンランは床に絹布を広げ、文鎮で押さえる。全員しゃがみ込んで、白く艶やかな絹布を見つめた。


 『さっきからなに。めーわくなんだけどぉ?』


 「わ!」


 文鎮が置かれた絹布に、突然見えざる手が筆を動かしたかのように、色が置かれていった。同時に、やはりこちらも少しくぐもったジャスワンの声がする。


 色が描いていくのは、扉の外の光景だった。古び、補修もままらなない様子の店が並び、ところどころ剥げた石畳。

 荷車に群がり、地面に積み荷を投げながら検分する人々。

 それをにこにこと見守る厚着をした四人の女と、不快感を隠そうともしない武装した五人の男女。

 そして。


 『あの…!こちらの方が、とっても哀しい事があったと聞きまして!慰めてあげたくて…!』


 ジャスワンを見上げる、若い女性。

 いや、声から「若い」と思ったが、当然ながら顔は毛糸の帽子と首巻に隠され、外套で体形は判らない。もしかしたら、声が若いだけかも知れない。

 そう何とはなしにヤクモが思ったのは、彼女の動きがどこかぎこちなく、声も無理に出している気がしたからだ。


 「…まいったね。顔がわかんねェよ。近くに行って嗅いで見りゃ、はっきりわかんだけどよゥ」

 「将軍も、なるべく女性を選んで視界に入れているようです。もう少し、観察しましょう」

 

 ホンランが声を押えない所を見ると、こちらの声が水晶球から漏れることはないらしい。


 「しかし、この女が第一候補だな…」

 「わかるんです?」

 「他の者たちは、誰も家の戸を叩いてまで訪問するようなことはしていません。であれば、何故、この女はわざわざそんなことをしているのか」

 

 『私…哀しんでいる人を、放っておけなくて…お話を聞いて、慰めてあげたいんです!』

 『ふう~ん』


 「被害者が『顔剥ぎ』の持ち物を持っていると認識しているものが、この世界に二人だけいます。一人は、オツタ殿」

 「まァ、誰にも言っちゃいないからね」

 「そうして、もう一人は『顔剥ぎ』本人だ」


 ホンランの言葉に、全員の…出入口を守る、ユーシンとシドも含めて、全ての視線が集中した。


 「オツタ殿の息女は、耳飾りを握りしめていた。この寒い時期、耳を出し、まして金属製の耳飾りをつけていれば、僅かな時間で耳が凍傷になる。なので、自然に落としたものを拾ったとは考えにくい。おそらく、息女…シンファ殿は、必死に『顔剥ぎ』に手を伸ばし、帽子を跳ねのけ、耳を掴んだのでしょう」

 「…気丈な子、だったんだよ…」

 「ええ。そして勇敢です。きっと、最後まで諦めなかった」


 オツタの肩が震える。俯いた顔には視線を向けず、ホンランは静かに、その背に手を置いた。


 「推測に過ぎませんが、『顔剥ぎ』は、しばらくたってか耳飾りがないことに気付いた。そして、シンファ殿が激しい抵抗をしたこと、耳を掴まれたことを思い出した。その右手をどうしたか…すくなくとも、隠滅してはいないことも」


 『だって、この家の方、娘さんがひどく、惨たらしく殺されてしまったんですよ!ああ、なんて可哀想…私、私、そういう人を放っておけないんです!みんな、放っておけと…この辺りは危ないからって言うけれど、でも、困っている、助けを求めている人がいるのだから、少しでも助けなきゃって!』


 「もし、その右手が母親の元に戻っていれば。もし、耳飾りが見つかっていれば。確かめなければ、安心はできません」

 「だから、オツタさんに、会いに来た…?」

 「ええ。耳飾りを見つけたのか。誰かに話したか。もちろん、耳飾りだけから『顔剥ぎ』に辿り着けるとは限らない。けれど、不安で仕方がない。今、将軍が出てきて内心焦りに焦っていますよ。顔の周りから湯気が出ている。汗をかいているのでしょう」


 『私、優しすぎるって言われるんです…でも!優しい心を喪ったら、もう、それは人じゃないって、そう思うんです!』


 帽子と首巻の隙間から見える双眸は、瞳孔が開き、見えなくても彼女が笑っていることを伝えていた。

 人の笑顔が怖いと思ったことは何度もあるが、今までで一番怖い。握りしめた拳に、力が籠る。


 「じゃ、じゃじゃじゃ、じゃあ、こ、この、このこのヒト、が?」

 「将軍もそう判じているのだろう。さきほどからこやつしか視界に映していない」

 「ああ。そうだ。コイツだよゥ。この真っ暗な眼。間違いねェよウ」


 表情の抜け落ちた顔で、オツタは絹布に映し出された顔を凝視している。憎しみも怒りも突き抜けてしまった。そんな無表情。

 ただ、細かい皺が刻まれた頬を、涙だけが伝って落ちていく。


 『優しいヒト…ねえ』

 『はい。ちょっと、度が過ぎている、やりすぎだと、言われますけど…』

 『じゃーさー。そこで服の取り合いに負けて、遠くから見てるおっさんいるじゃん?あのおっさんに、今着ている服あげてきなよw』

 『え…』

 『優しいんでしょー?おっさん、寒そうで可哀そうじゃんwま、服はともかくさー、首巻くらいあげなよw』


 ジャスワンの言葉に、女は何も言わず…いや、言葉が出ないのだろう。ただ、ジャスワンのおそらくはニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた顔を見上げている。


 『俺ちゃんさあ。故郷近くの地方軍にいた頃、生意気だって上官殿やセンパイにボコられてさー。小便までかけられて、野っぱらに捨てられたことあんのw』


 口調と顔はニヤニヤと笑っている。だがきっと、その双眸には冷たい光だけがあるだろう。見えないが、わかる。


 『それをねー。通りすがっただけの御方がさ。拾ってくれてさあ。小便ひっかけらえまくった、ボロボロの小僧をさ、水場まで運んで洗ってくれて。ちょっと臭いね、ごめんねって、マントの下の上着掛けてくれてさ。ご自身は、小便ついちまったマント、そのまま羽織ってんの』


 ファンならやりそうと、ヤクモは思った。しかし、ジャスワンが「小僧」というような年齢なら、ファンはまだ子供か、もしかしたら生まれていない。

 となれば、思い当たるのはその父。兄はたぶん、同じことをしても話しかけられない。無言で手当てして、ささっといなくなりそう。


 『優しいよねえ。けどさあ。その御方、自分の事を優しいからなんて一言もいわねーのよ。お側仕えの方に怒られても、やりたかったんだから仕方ないじゃーんって言うだけでさ。で、アンタは』


 声の温度が、下がった。

 骨まで凍えさせる冬の闇。その冷たさを纏う声。


 『お優しーのに、首巻一枚、外せねぇのかよ?』

 『そ、それは…!!その、そ、そうなんです!この家の人に、あげたくて!きっと、人のぬくもりが必要だから!』

 『へーえ。じゃあ、渡しとくよ。ここの姐さんには世話になってね。今日はその礼に来たとこだからさ』

 『私の手で、渡したいのです!』


 「うまいな。将軍。どうあっても、あの女は首巻を外さねばならなくなった。これで顔がしっかりと確認できる」

 「え、あ、そゆこと!?」

 「じゃア、アタシの出番だね」


 涙で顔を濡らしたままオツタが立ち上がる。身を翻すと階段へと足を進めた。


 「…危険だ。貴方を奴に会わせたくない」

 「あのクソ女の面ァ、晒せりゃあ、サ。アンタも将軍様も、あにさん方もよゥ。面ァ覚えてくださる。そしたらサ。アタシが死んだって、あの子の仇に繋がるよ。アタシは、あの子に何にもできなかった。せめて一手、役に立たせてくださいな」

 「何もしていないなどという事はない。シンファ殿が勇敢な女性に育ったのは、あなたが多くのものを与えたからだ」

 「へっ…買いかぶりすぎサ。それによゥ。別に差し違えに行くつもりはねェやい。安心して見てなア」


 するりとユーシンとシドの間を抜け、オツタは階段を音もなく降りていく。その背を、剣の意匠が刺繍されたマントが守っているかのように見えた。


 「…。将軍もいらっしゃる。私たちは、『顔剥ぎ』の顔を覚えましょう」

 「うん!」


 『ダンナぁ、さっきからやかましいが、どうなすった?』

 『あー…このねーちゃんが、姐さんに首巻を差し上げたいらしくってね』

 『首巻きィ?なんでだい?』


 絹布にオツタの顔が映る。ジャスワンが視線を向けたようだ。

 その顔にはもう涙の痕は全くなく、不機嫌そうで、それでいてジャスワンにだけはたっぷりと媚びの含んだ視線を向けている。


 『あの…!とても、哀しかったですね…私、私、あなたを慰めたくって!』

 『はァ?』

 『娘さんが、酷く死に方をしてしまったのでしょう?辛かったですね…』

 『何言ってんだい。くれるならとっととその首巻寄越しな。みっともねェ柄だが、座布団替わりに尻にひくにゃアちょうどいいわい』


 オツタの手が伸び、女の首巻を掴んだ。

 

 「…!」


 その瞬間。

 その瞬間の女の眼。


 まるで、汚泥を擦り付けられたかのような、嫌悪と苛立ち、怒りが蟠る、深い穴のような、眼。


 「間違いない。こやつが『顔剥ぎ』だ」


 ホンランの断言に、ヤクモも頷いた。

 この眼をヤクモは知っている。育ったナハトの国の末王子。溺愛され、歪んだ万能感に支配された凶人の眼。


 世界に自分以外の意思はなく、全てが自分の為だけに在ると疑っていない。

 だから、何をしようと罪悪感すら覚えない。

 そんな怪物の眼。

 

 『なんだィ?くれんじゃアないのかえ?』

 『い、いえ!どうぞ!寒いけれど…あなたの哀しみ、寂しさを想えば、我慢できますから…!』


 凶潜む眼は、すぐにぼんやりと瞳孔が開いた眼に戻った。

 オツタの手を止めていた手が、首巻にかかる。


 『そうかえ。そりゃあ、おありがとうさんよ。確かにアンタ、優しい顔してるじゃあないかい。ねェ、ダンナ』

 『姐さんにくらべりゃ大したことないよw一昨日、夕暮れの寒い中、金も貰わず探しものを一緒にしてくれるなんて、早々できないって』 

 『あらやだ。大したこたァしてねェよ』


 軽口を叩きながらも、ジャスワンの視線は女の顔に集中している。 


 覚えておこうと決意したけれど。

 その眼以外、覚えておける自信がヤクモはなかった。


 あまりにも、普通。美女でも醜女でもない。

 鼻の形は横に広く少し不格好だが、強いてあげてもその程度。どんな顔だと説明を求められても難しい。


 『探し物…?見つかったの、ですか?何を…』

 『ちょっと値の張る帽子飾りさ。まあ見つからないと思ったけどねー。どっかの誰かの酒代に化けちまったか。女物の耳飾りの片方がでてきたけど、そいつを売っても半分にもならねーだろーしぃ。でも、姐さんに優しくしてもらって嬉しかったから、いいやw』

 『耳飾り!?どんな!!』

 『えー…超喰いつくじゃん…なに?』

 『あ、いえ、あの、私、前に来た時、耳飾りをひとつ、落としてしまって…』

 『へ~えwでもさー、違うと思うよwだってなんか、血の痕っぽいのついてたし。今持ってっけど、思い出したから帰りに衛兵詰所にでも届けとくわ』

 

 ぽん、とジャスワンの手が胸元を叩く。いかにもそこに入っているというように。

 その動作も場所も、女は凝視している。


 『あらまア。優しいのはアンタじゃないかさ。ダンナさん。捨てちまっても良いのに』

 『姐さんの優しさに感動しちまったからねwってわけで、どーしても気になるなら、シミ通り出たところの詰所に行くから、行ってみなw』

 『私、嘘ついて騙し取ろうなんてしません!なんでそんな、意地悪するんですか!!』

 『えーwおにーさん、善良なアスランの民だしい。落し物は衛兵に届けるもんさ』


 女の口許がぴくぴくと震える。なおも何かを言い募ろうとして、唇を開き…


 『クニンさん…?』

 

 その背に掛けられた声に、口を止めた。

 絹布には、心配そうな顔で様子を伺う二人の女性の姿が新たに映し出されている。

 

 『どうしたの…?配布は終わったから、帰りますよ?』

 『あ、はい』

 『まあ、こちらの方に首巻を…?あなた、それでは寒いでしょうに。優しい子ね』

 『買ったばかりでしたが、でも、可哀想なひとには、優しくしたくて!』

 『素晴らしいわ』


 女性たちに向き直り、『私、どうしても損をしてしまって』『でも、自分に嘘はつけないから』などと言いながら、もう振り向きもせず去って行く。

 その光景を、再び閉められた扉が立ち切った。


 『ホンちゃん、降りてきていいよん』

 

 やや疲れが滲む声。万の軍勢も笑い飛ばして馬鹿にするだろう男の、はじめて聞く弱った声に、ヤクモはごくりと唾を飲み込んだ。

 

 「行きましょう」

 

 ホンランの手が文鎮を摘まみ上げると、絹布は元の白さを取り戻した。それをくるりと巻いて、筒に戻す。


 「か、かかか、『顔剥ぎ』、つ、つ、つか、捕まえ、る?」

 「できなくはないが…危険だな。充分な戦力を集め…捕縛ではなく、処断するのが最適だ」

 「えっと、それって、あのひとが『顔剥ぎ』だって、どーやって、皆に信じてもらうんですか?」


 十二狗将と断事官がそう判断したのなら問題ない…で良いのだろうか。

 しかし、あの眼を見れば絶対に何かしている!とは思うものの、全体を見れば無害な若い女性である。どうやって殺したのかと問われても、まだ答えることもできない。


 「オツタ殿から、証拠の品を借り受けます」

 「耳飾り?」

 「ええ。我が御史台の保管する魔導具には、持ち主の情報を抜き取ることができるというものがあります。さらに、雷帝神殿より真実の姿を映し出す神鏡を借り受ければいい」

 「そんなのあるの!?」

 「ただし、使用すれば戦闘は免れない。今回得た情報と耳飾りを使って。、何処の誰かを特定し、神鏡をもって正体を暴き、処断…いや、討伐を行うしかないですね。その際には、ナランハルの御力をお借りせねば」


 ファンの力。呪縛を打ち消す灯の刻印。

 それを使うようなら、まさしく「討伐」だろう。

 マルダレス山で対峙したドノヴァン大司祭を思い出し、ヤクモはこくりと頷いた。


 魔導具を片付けて軋む階段を下りると、いつもと変わらない顔で、ジャスワンが片手をひらひらと振る。 

 その姿を見て安心すると同時に、ヤクモは顔の下半分を手で覆った。


 臭い。


 「どーお、ホンちゃん?」

 「奴が『顔剥ぎ』で間違いないと断じます。耳飾りにも反応していましたしね」

 「ちっ。臭いでわかんだろう?あんなにぷんぷんゲロ臭ェってのにサ」


 オツタはやや疲れた顔で、ホンランから借りたマントに包まっていた。その塗られていない唇は青白く、声にも勢いがない。


 「…臭いましたか?」

 「んー。おにーさん、わりかし鼻は良い方なんだけどね~?」

 「臭かった!間違いない!ラスヤントで嗅いだ臭いだ!」


 ジャスワンの声を遮って、ユーシンが高らかに宣言する。


 「…俺も、わからなかったが」

 「お、お、おお、俺、も」

 「え!?そなの?何なら、今でもうっすら臭いよ!?」

 

 来た時に感じた清潔感を打ち消すように、一階に充満する悪臭。

 それはオツタの言うように吐瀉物の臭いを思い起こさせるが、もっと…なんというか、嗅いだことのある悪臭だ。


 「あ、思い出した」


 記憶を辿っていくと、ぽん、と浮かんだ光景。

 最後の仕事。オオトカゲ狩り。

 探していた標的か確認するため、仕留めたオオトカゲの胃腸を引き摺りだし、切り開いたときに広がった臭い…


 「オオトカゲの、お腹の中だ!」

 「ああ確かに!あの時、こんな臭いだった!クロムが逃げていたな!」

 「ずるいよね~。汚いとか臭いとき、絶対、一番遠くにいるもん」

 「それは後で不詳の弟子を締めあげましょう。…なんとはなく、類似の臭いは判ります。そんな臭いがしているのですか?」

 「ん~。つまりぃ、腹掻っ捌いたときの臭いかあ。ごめん、ぜんっぜん、しない」


 何とはなしに、ヤクモはユーシンと、そしてオツタと顔を見合わせた。

 確かに、嗅覚と言うのはかなり個人差があり、さらには悪臭かどうかも人によって感じ方が違う。

 だが、これはよっぽど鼻が詰まっているか、特殊な趣味でなければ「悪臭」と感じる臭いだ。


 「すっごいはしないけどねぃ。臭いのモトに蓋被せて窓を開けてちょっとした後くらいはするよ」

 「…それは、魔力の臭いかも知れません」


 ホンランの言葉に、ヤクモは目を瞬かせた。


 「魔力…って、匂うのぅ!?初めて知った!」

 「万人が感じ取れるものではないのです。どの魔力も匂うわけではなく…しかし、魔族の出現に関する文献を読む限り、出現時に悪臭を感じたという記録は多いので、本能的に危険を感じているのかもしれません」

 「そいえばさ、ユーシン。大神殿でも臭い臭いって騒いでたよねぃ。クロムがさあ!ぼくがおならしたとか言ってさあ!」

 「あの時とは違う臭いだ!しかし、臭い!」


 ユーシンに魔の臭いを嗅ぎつける能力があるというのは、なんとなく納得する。

 もともと危機にはおそろしく敏感だ。以前複数のパーティで山賊退治の依頼を受けた時、見張りより先に熟睡していたユーシンが夜襲を感知して身構えていた。

 しかし。

 

 「ぼく…もってこと?」


 ヤクモは自分がそうだとは頷けなかった。夜襲の時も、叩き起こされるまで寝ていた側だったのだし。

 ちなみにクロムは寝不足でフラフラしていて、あまり役に立たなかったので揶揄われずにすんだ。

 

 ホンランはヤクモの困惑を察してくれたようで、口を開きかける。だがその前に、思わぬところから声が割って入った。


 「そうかもしれねェよ。アタシもさ、なんか臭ぇとこにゃ近寄らないようにしてるんだ。大抵ね、そういう処は忌地なのサ」

 「忌地…」

 「ああ。入っちゃあなんねェ処さァ。アタシの母親は歩き巫女でね。身体と術を売ってたからよ。アタシにもちったぁそういうのが流れてるんだろうね」

 「でも、ぼく、魔力とかないよぅ?」

 「私も将軍も魔導師でもありますが、臭いを感じません」

 

 それもそうだ。魔力の有無で左右されるのなら、魔導師が臭いを感じないはずがない。

 

 「とりま、三人がくっさ!って感じてる臭いは『顔剥ぎ』の体臭ってことにしとこーか。んで、オツタ姐さん。例の耳飾り、俺ちゃんが預かっても良いかな?」

 「もちろんサ。それであのクソ女の首に手が届くなら、尚更さね」

 

 オツタは笑って立ち上がった。その足が微かに震えていることは、皆気が付いていただろう。しかし、何も言わずに見守る。

 震えは、娘の仇を前にした怒りであり、両手の指を足してもたらないほどの命を奪っている、怪物に対する怯えだろう。

 だが、それでも彼女は笑っていた。その覚悟を、下手な慰めで穢すような真似はしたくはない。


 「これさ」


 奥の部屋へと姿を消し、再び現れたオツタが差し出したのは、何処にでもありそうな耳飾りだった。

 女性の装飾品に詳しくはないヤクモでも、ちゃちなものであると一目でわかる。留め具は壊れ、おそらく花びらを模している部分は、一部塗装が剥げて地金が見えていた。


 「あいがと!ホンちゃん、これでいけるよね?」

 「無論。それと、本日ここに来ていた慈善団体からもあたります。『クニン』という名も判明しました。おそらく、偽名ではないでしょう」

 「そ?獲物探しにきてるなら、偽名使ってるかもよん?」

 「いえ。奴は賞賛を欲する。偽名などは使いませんよ。服装や肌の様子などを見る限り、裕福な暮らしはしていないでしょう。その背景も利用し、自分も苦しい中、慈善活動を行う優しい人…と見られるよう、言われるように仕向けている」

 「なるほどねえ。偽名じゃ宣伝されても自分の事って威張れないもんね」

 「ええ。そしてオツタ殿。あなたの身も、御史台にて保護したい。奴は必ず、あなたを狙う」


 ホンランの静かな声に、オツタは一度、大きく身を震わせた。


 「娘を殺され、そして自分も殺された哀れな母親。その母親に付き添い、励ましていた優しい自分も、とても傷付いた…そう演じるために」

 「…そうさね。首巻掴んだ時、あの女、アタシを縊り殺しそうな顔してたもんねェ。でもサ。アタシは、此処を動かないよ」

 「え、なんで!?危ないですよ!」

 

 思わず声を上げたヤクモに、オツタは視線を向けた。媚びを含んだものではなく、柔らかな、温もりさえ感じるような眼差し。

 それをヤクモは知っている。育ての母が病床で、ヤクモに向けていた。


 残していくものへ向ける、眼差し。


 「この店を開けてやんなきゃサ。息も凍るような夜を外ですごさなきゃなんねェってやつらがいてね。なに、今日明日にも襲って来やしないよゥ。アタシにたあっぷり『優しく』して、周りから褒められるまでは殺しゃしない。それまでに、どうにかしてくれりゃいい」

 「しかし…」

 「安心しなって。小娘一人くれェ、手玉に取ってみせらァね。段々ほだされていく、可哀想で愚かな女をやってやるサ」


 するりとマントを肩からおろし、オツタはホンランに差し出した。


 「ありがとうよ。全部終わったら、新品の絨毯もってきてくんな。ああ、此処から出てけっていうなら、新しい店を格安で買えるようにしとくれよ」

 「あなたの新しい住居と職を斡旋しましょう。それと、良い墓所を。綺麗で、花が咲いて、若い女性が眠っていても寂しくないような」

 「…そっち、先に頼むよ。春までにサ」

 「かならず」


 マントを受け取りながら力強く頷くホンランに、オツタは一瞬、何か表情を造ろうとし…諦めたように笑う。


 「アンタみたいな、お高くとまった女は嫌いなんだけどサ」

 「私は、あなたのような芯の強い女性は、尊敬に値すると思っています」

 「そういうところだよゥ。さ、そろそろ帰んな。暗くなってくると、ろくでなし共が涌いてきやがる。負けやしないだろうけどね」

 「片っ端からぶっ殺すだけwでも、暗くなると寒いしね。んじゃ、オツタ姐さん。くれぐれも気を付けてよ」

 「もちろんだよ、ダンナ。仇とって、あのこの墓に綺麗な花、供えてやるんだ。それまで死ねねェさあ。んじゃあ、アタシはちっと昼寝としけこむよ。今宵の商売に差し支えるからね」

 「そっかwおやすみ」


 ひらりと手を振って、オツタはもう何も言わなかった。

 その顔を見ていると、言葉に嘘はないように思える。けれど、先ほどの眼差しが、どうにもヤクモに不安を残していた。


***


 「御史台から護衛を派遣します。逃走を最優先で」

 「それが良いねw御史台、えらい腕っこきいるらしーじゃん?ヒタカミから来たって言う…」

 「ああ。彼は今、別任務の準備に入っているので…しかし、他にも腕利きはおりますから」


 やや太陽は西に傾いている。そうなると、大都の夕暮れは早く、夜は更に駆け足でやってくる。

 気温は往路よりも明らかに下がり、水路を流れる水…は見えず、ごみを抱えたまま凍り付いていた。


 「さって、一番近い詰所はーっと。やっぱ、端っこのほうだよね~」

 「う?耳飾り、御史台に持っていくんじゃないんですか?」

 「持ってくよん?でもさ、落し物って引き取り申し出る前に、お名前住所を書類に残さないと、ブツを見ることもできないの。引っかかれば、そっちからも探れるしぃ、本人が『自分の名前』として書いたものなら、魔導具で情報引っ張れるからさ~。どっかで適当に耳飾り買って汚して、預けようかなって」

 「成程抜け目がない」

 「もっと褒めていいよw」


 ジャスワンが鼻歌でも歌いだしそうな顔で足を進めていくのは、元来た方角ではない。

 並ぶ店や家は、オツタの店があった周辺よりも見栄えがするものになっていき、しかし、何故かさらに人の気配は薄れて行った。

 

 看板は何の色も店の名もなく、扉や窓はしっかりと閉ざされ、大きな錠前がぶら下げられているところも多数だ。

 先ほどまでは息を呑み、気配を殺して伺っていた視線を感じたが、それもない。まったくの無人、廃墟のようにすら感じられる。


 「この辺りが、元々の歓楽街シミ通りなのです」

 「さっきのとこじゃなくて?」

 「おにーさんも聞いた話だけどね~。ほんとはこの辺で、他のとこよりもちょっと安い店が多かったらしいんだけどさあ。だんだんそれを売りにする店が増えだして、客層も貧乏人ばっかりになっちまって、まともな店は逃げちゃったんだってえ」

 「それでますます、不法移民や税を払えない輩が棲みつき治安が悪化し、この度の再開発の話が出たのです」

 「そうなんだ…」

 「大き目な通りに近いと、衛兵の巡回も多いからね。覗かれたくない連中は奥に引っ込んじまって、この辺は空き家だらけになっちゃったってことかあ」

 「再開発の為、一旦、太府史台が買い上げているそうです。だから、施錠している錠前が同じものなのでしょう」


 言われてみれば、掛けられている錠前はどれも同じ型だ。太府史台というのが何なのかはわからないが、台とつくからにはお役所だよねぃ、とヤクモは内心に呟いた。

 その内心の呟きが聞こえたわけではないだろうが、ホンランが「太府史台は商業の管理を行う政庁です」と付け加える。

 

 「それでこんなに完璧に無人なんだ。いっくら逃げ出したっつっても、少しくらいは店残ってるもんだしね」

 「再開発が進めば、元の持ち主は優先的に土地を買えます。むしろ、高く売って安く買えると言ってもいい。歓楽街にはしないので、妓楼などは許可が出ませんが」

 「へえ~」


 そうしたら、オツタさんはどうするのだろう。

 案外しれっと、飯屋か何かをやって上手く生きて行きそうではある。いや、そうなってほしいと思った。

 ほんの僅か話を聞いただけの人だ。だけれど、辛く苦しいのはもうなしで、幸せになってほしいと思う。

 どうしても、あの眼差しが引っ掛かってしまって、考えると眉が寄ってしまうのだけれど。


 「どうした?ヤクモ!」

 「ん?んー、だいじょぶ。なんでもないよ!ちょっと寒いだけ」

 「そうか!俺の服を貸すか?」

 「いーよぅ。見てるこっちが寒くなるし」

 「俺は寒くない!」


 いうなり、ユーシンは首巻を外してヤクモに被せようとした。

 

 「え?」


 ふわりとヤクモの視界を覆ったのは、ユーシンの首巻。

 しかし、それは一瞬。風にもぎ取られるように、視界から消えていく。


 代わりにヤクモの五感を覆ったのは、鈍い音。そして。

 鼻を突く、悪臭。


 「読みが外れたな!将軍!」

 「…みたいねw」


 ユーシンの槍が「何か」を弾き、それは空き家の壁に叩きつけられるも、すぐさま動き出す。

 まるで陽の光に晒された地虫が、慌てて巣穴に潜り込むかのように。


 「なんで…」


 傾き始めた日を背に、道に佇む影。

 その輪郭は、これと言って特徴のない、中肉中背の女の形をしている。

 街角ですれ違ったとしても、何の感想も抱かない。これ「が」敵だなどとは、一切閃くこともないだろう。


 ただ、その足元から。

 所々剥がれた石畳を割って蠢く、悍ましい影さえなければ。


 掻き毟るように抱きしめるように、自分の胴へと腕を這わす。がさがさと動き回るそれは、まるで別の生き物のようで。

 その動きに合わせるように、ひとつ、またひとつと、石畳を割って現れるモノ。


 「腸の虫(オルゴイ・ホルホイ)…」


 ホンランの唇を震わせて出た声は、三つに増えた蠢くモノの名を示していた。

 地を割って現れ、家畜を襲う恐ろしい魔獣。

 筒状の胴体と、その頂点にぽっかりと開いた口、そして唇や口吻の代わりに生えた触手。


 「…犠牲者は、酸で溶かされた可能性が高い。オルゴイ・ホルホイは強酸を撒き散らすのでしたね」

 「魔獣使いってわけね。でも、ま。あの大きさならなんとか…」


 オルゴイ・ホルホイの脅威の多くは、その桁外れの巨体にある。

 ヤクモもクローヴィン神殿で現れた怪物を見ていたから、それに比べれば、まだ卵から出てきたばかりなのかと思うような大きさだ。


 だが。


 本当に。そうなのか。

 あの女は、オルゴイ・ホルホイを使役しているだけなのか。

 そうなら何故、鼻を突くこの臭いは、ジャスワンたちに届かなかった?


 「来るぞ!」


 ヤクモの思考は、緊迫した声に弾けた。

 今は形にならない不安に意識を向けている場合ではない。例え小さかろうと、ラスヤントで対峙したのが『顔剥ぎ』で間違いないのであれば、人体など簡単に咬み千切る。


 …あれ?

 噛み千切る?ファン、なんか言ってなかったっけ?


 形にならない不安が疑問へと輪郭を固める時間は、与えられなかった。

 声も音もなく、ただ悪臭を振りまきながら、オルゴイ・ホルホイは身をくねらせて襲い来る。

 三頭同時の襲撃は、道の広さを考えれば避ける事も難しい。


 『顔剥ぎ』の顔は頭巾で隠されて見えない。しかし、その身が纏う気配からは、焦りなどは微塵も感じ取れなかった。

 実際に今まで襲い、殺してきた相手は、初手の攻撃で仕留めてきたのだろう。


 オルゴイ・ホルホイを知っていても、街の中で生活していては、実際に見る機会はない。せいぜい、絵図を目にしたことが合う程度に過ぎない。

 襞になった皮膚、ぽっかりと開いた口、その周りに蠢く触手…それらは、見たものを恐慌状態に陥らせるに十分な悍ましさだ。

 そして動きは、咄嗟の対応が難しいほどに早いとなれば、よほどの手練れではない限り、一方的に殺されるしかない。


 『顔剥ぎ』の余裕は、経験に裏付けされたものだ。

 ただ、間違いがあっただけで。


 今、この場にいるのは、「よほどの手練れ」だけだという事に、気付いていない。


 「ぃよっこらせぇっと!!」


 ジャスワンの斧が、ややふざけた掛け声と共に振り抜かれる。

 狙いは違わず、耳障りな衝撃音と共に、まっすぐに襲い来るオルゴイ・ホルホイの頭部がありえない軌道を描いて石畳に叩きつけられた。

 それでも斧は止まらず、ほとんど間を置かずに迫る次のオルゴイ・ホルホイの口を横殴りに叩きつけ、壁にめり込ませる。


 「貰った!」


 最後の一頭は、ユーシンの槍が弾き飛ばした。貫くつもりで繰り出された一撃は弾くだけにとどまり、ユーシンの眉間に皺が刻まれる。


 完全な不意打ちでさえなければ、ヤクモの目にも、オルゴイ・ホルホイの動きは十分捉えられた。

 ならば、ヤクモよりよほど強い戦士たちが後れを取るはずもない。

 

 だが、オルゴイ・ホルホイは身をくねらせ、怯んだ様子を見せながらも無傷だ。


 「なんでっ!?」

 「やっべえなあ…」


 じわりと斧を構えたまま、ジャスワンは後退った。

 シドとココチュも、敵が無傷であることに驚いている。十分に捌ける速度と勢いではあるが、殺せないのは厳しい。

 十分に捌けると言っても、手を抜いても出来るほどではない。体力気力を削られ、一撃でも食らえば容易に致命傷となる。


 「なんかさ、うまーく身体が動かんね。ってか、力はいんない」

 「将軍もか!俺もだ」

 「あ、もしかして…」

 「うん、これが呪縛とやらなら…思ったより、キッツいかも」


 口調は軽いが、声は硬い。


 「それに、いくらなんでも無傷はねーな。武器も、普通の鋼じゃ通らないのかも」

 「む。前に戦ったでっかいのもそうだった!クロムの『紅鴉の爪(ナランハル・ホロウ)』は切り裂いていたが!」

 「そっかー。おにーさんもちゃんととっておき持ってくればよかった。オルゴイ・ホルホイを捌いて本体殴ってみよっか」

 「心得た!」


 声は硬くても、悲壮感や絶望は何処にもこびりついていない。

 瞬時に現状の把握とこれからの作戦を決めると、ジャスワンは斧を構えなおした。


 オルゴイ・ホルホイは再度の攻撃を躊躇っている様子だ。その仕草に、ヤクモは再び先ほど感じていた疑問が集まって形になっていくのを覚えた。

 あの時。クローヴィン神殿の前で、ファンはオルゴイ・ホルホイをどんな生き物だと語ったか。


 基本的には臆病で、一度狩りに失敗すればすぐに地中に戻る。

 知能はほとんどなく、攻撃して興奮させると放電して無差別、広範囲に攻撃を仕掛ける…


 攻撃は、した。正確には迎撃だが。

 しかし、放電をする様子はない。むしろ、こちらを伺っている…いや、追撃を躊躇している?

 

 アレは、本当に「オルゴイ・ホルホイ」なのか?

 マルダレス山でドノヴァン大司祭は、魔獣と混ざった異形の姿に変貌した。

 ユーシン達の不調が、ファンの言っていた「創造神の呪縛」によるものなら、『顔剥ぎ』が魔の眷属に堕ちていることは間違いない。

 それなのに、人の姿を保ってオルゴイ・ホルホイを操るだけ…などという事は、ありえるのか?


 「気を付けて!なんか変だよ!!」

 

 叫んだ瞬間、背中がぞわりと粟立った。

 それは本能の警告であり、少ないながらも冒険者として積んだ経験の教えでもあった。

 ひたすらに、本能と経験が叫ぶ。

 

 危険だ!と。


 その声に突き動かされるように、ヤクモは振り向いた。

 視界に移るのは、ホンランの姿。手には何か紙を持ち、急に振り向いたヤクモに少し驚いた顔をしている。


 その足元。いや、正確にはホンランの影。

 薄い陽光に造られた、影が、歪んだ。


 「ホンランさん!!」


 ヤクモが叫ぶ声と、再度の襲撃のどちらが早かったか。

 ホンランの護衛であるココチュも、前方のオルゴイ・ホルホイの迎撃に意識を集中している。

 影の主であるホンランでさえ、足元の異変に、気付いていなかった。


 歪んだ影は、瞬く間に形を変えた。

 それはもう影ではなかった。いや、影はむしろ「それ」を押しとどめようと身をねじっているかのようにすら思えた。

 しかし、その抵抗もほんの一瞬。


 影を破って躍り出たもの。

 それをヤクモの眼はしっかりと見ていた。


 女だ。

 さきほど絹布に映し出された、『顔剥ぎ』と断定された女。


 しかし、その顔を見て「何の特徴もない」とは決して誰も思わないだろう。

 いや、それは「顔」なのか。

 オルゴイ・ホルホイに無理矢理目鼻を加えた、としか表現できないような、悍ましい容貌は。

 

 ぽっかりと開いた口には触手はなく、ただ鋭い歯が幾重にも連なる。なのに、唇と思える部位はまだ、その「顔」に存在していた。


 「!!」


 ホンランの動きが遅れたのは、あまりにも不意打ち過ぎた事と、創造神の呪縛ゆえか。

 それでも、遅れたのは息をひとつ吸う間よりも短い。だが。

 その半呼吸の遅れは、致命的にすぎて。

 

 血の臭いが、首巻を貫いて鼻に届く。

 同時に顔に感じた熱は、おそらく飛び散った血の温度。


 『顔剥ぎ』の歯は、まっすぐにホンランに襲い掛かった。

 狙うのは、彼女の整った顔。

 そして、咬み千切ったのは。


 ホンランに飛びついて突き飛ばした、オツタの右肩だった。

 

 「オツタ殿!?」

 「オツタさん!!」


 ヤクモとホンランの叫びに、真っ先に反応したのはジャスワンだ。

 斧を振り回してオルゴイ・ホルホイを弾き飛ばすと、肩越しに振り向いて何が起こったのかを視界に収める。


 「クソが…」


 低く唸ると同時に、地を蹴って瞬時に『顔剥ぎ』へと肉薄する。

 『顔剥ぎ』は、自分の攻撃が防がれたことに茫然としているようだった。不意打ちを得意としながら、不意を打たれたことが信じられなかったのかもしれない。


 だが、そんなことは、ジャスワンの知ったことではなかった。


 やや刃毀れを起こした斧の刃は、ひとかけらの容赦も躊躇いもなく、『顔剥ぎ』の人間ならば首に当たる部分へと叩きこまれる。

 本物のオルゴイ・ホルホイの皮膚がいかに強靭でも、これほどの一撃を受ければ、容易く引き裂かれていただろう。

 しかし、『顔剥ぎ』は衝撃で地に叩きつけられはしたが、その皮膚には紙で裂いたほどの傷すらなかった。


 それがわかっているからか、『顔剥ぎ』の眼がにんまりと歪む。

 だが、次の瞬間、違う形に歪みを変えた。


 石畳が、大きな音を立てて割れる。

 首に叩き込まれた斧ごと、皮膚が陥没していく。


 「ココチュ!オツタ殿を!」

 「わ、かた!!」

 「皆さん!こちらに!!将軍の術は長く持ちません!」


 ホンランの声に視線を向けると、空き家の扉の前にその姿があった。

 手にして居た紙がぶら下がる錠前に叩きつけられると、鍵が外れ派手な音を立てて石畳に落下する。


 「ヤ、クモ!!はや、く!!」

 「うん!!」


 それはきっと、彼女の何らかの魔導によるものなのだろう。

 呻くオツタを抱えたココチュを先に行かせ、ヤクモはオルゴイ・ホルホイを警戒しながら後に続いた。

 めちゃくちゃな動きで暴れまわり、壁や家に激突する三匹のオルゴイ・ホルホイを時に弾き、いなし、避けながら、ユーシンとシドも駆け寄ってきた。


 「将軍!」

 「ッは!!」


 ジャスワンが大きく息をつくと同時に、斧が一層強く『顔剥ぎ』の首を地にめり込ませる。

 それを見届けることなく、斧を手放したジャスワンが最後に、家の中へと駆けこんだ。

 それと同時にシドが扉を閉め、閂を掛ける。

 

 家の中は薄暗く、唯一明り取りの窓から差し込む頼りない光だけが、完全な闇に飲まれるのを防いでいた。造りがどうなっているのか、調度品があるのかなどは全く見えない。


 「ちと眩しくなるよ」


 ジャスワンのやや疲れた声と共に、丸い光が現れた。手袋が外された右手、その中指に嵌められた指輪が、眩い光を放っている。

 照らされて見えた室内は、がらんと何もない。簡易バリケードを造るために使えそうな家具や何かも、何もなかった。


 その埃っぽい床に、ホンランが広げたのは先ほども見た白い絹布。

 いや、よく見れば、白だけではない。

 墨痕鮮やかに描かれているのは、砦の絵だ。


 「其は彼に通じ同一と為す」


 ホンランの声が歌うように告げると、ほぼ同時。

 扉に何かが激突する音と衝撃が、家を震わせ…なかった。


 代わって震えたのは、絵の中の砦。

 しん、とした家の中、絵の砦だけが震え、ばらばらと破片を零していた。


 「私の魔導です。この家に向けられた攻撃は、すべてこの絵の砦に転嫁されます。絵の砦が完全に破壊されるまでは」

 

 説明しつつ、ホンランは鞄に手を突っ込み、白い布を取り出す。その布をオツタの血を流し続ける肩へと押し当てる。

 

 「ココチュ。しっかり押さえておいてくれ」

 「是!」


 顔をくしゃりと歪ませながら、ココチュは服や手が血で染まるのも厭わず、布を押し当てる。しかし、それが痛みを伴い訳がない。大きくオツタは身を震わせ、細い悲鳴を漏らした。

 

 「其は彼に通じ同一と為す」

 

 先ほどと同じ呪文。同時にオツタの胸に乗せられたのは、掌ほどの大きさの紙人形だった。

 見る間に人形が赤黒く染まっていく。だが、それと呼応するかのように、オツタの悲鳴は収まり、ぼんやりと目が開いて行った。


 「オツタ殿。すぐに魔法薬での治療を開始します。痛みは紙人形で吸収するので…」

 「やめなよ…」

 

 鞄へと伸びたホンランの手を、オツタの血の気が失せた左手が止めた。


 「もったいねェ。まだ、あの化け物とやりあうんだろゥ?薬は、とっときなよ…アタシが生き延びてもサ、アンタら死んじまった、どうせ殺されるよゥ」

 「…何故、あそこに?」

 「言ったろ?アタシの母さんは巫女だったってねェ。たまァにさ、先の事、わかんだよゥ。なんか、もう、とんでもなく嫌な予感がしてねェ…はは、どんぴしゃりだ。ざまァみなよ、あの化け物…」


 嘲笑うオツタを何とも言えない顔で見ていたホンランは、止める手を振り切って鞄から瓶を取り出した。


 「やめなって…」

 「痛み止めです。せめて、これを」


 瓶が傾けられ、透明な液体が赤く染まっていく布へ零される。

 そう言いながら、回復薬だよね?とヤクモは一縷の望みをかけて、ホンランを見つめた。

 

 「…血が、流れ過ぎている」

 「え…」

 「俺なら、多分、死なない。だが…」


 呻き声のような、今まで聞いたことのない声。

 ユーシンの口から、今まで聞いたことのない声が、言葉の続きをヤクモに教える。

 否定してほしくて見回したシドも、そしてジャスワンも。

 ユーシンの声と、同じ感情を顔に浮かべていた。


 「そうさァ…。アタシはもう、助からないよゥ。でもね、痛くねェのはありがたい。痛くッて、苦しいのはさァ、嫌だものねエ。こうして、喋れるのもいい。なあ、アンタさ、うそは言いっこなしだよ…?」

 「…断事官の剣にかけて」

 「なんだいそりゃあ…まあ、いいか。あのさ、あの件、頼んだよ?シンファの骨壺、アタシの家の、箪笥ん中あるからさ」

 

 オツタの声は、掠れていた。アンタと呼びかけながらも、ホンランを見ていない。

 ただ、宙に向けられた双眸は、既に焦点を結んでもいなかった。


 「かならず、お二人同じ墓に。花が咲き、陽が当たる場所に埋葬すると、剣にかけて誓いましょう」

 「アタシはほっかっておいても良いけどサ…ああ、でも、そうしてくれたら、嬉しいね」


 安心したように、オツタは口を噤んだ。微かに笑っているように見える唇は、僅かな生気も見つけられない。

 

 ああ、このヒトは死んでしまう。

 

 その事実が、ヤクモにも襲い掛かるように理解できた。


 だんだん、冷たくなって。

 話しかけても、何も答えなくなって。

 …のように。


 「…あ…」


 頭を殴られたような衝撃と共に、記憶が意識を支配する。

 

 見たこともない、大きな樹が立ち並ぶ森。

 その根元に横たわる人。

 上半身を染める赤は、流れる血の、命の色。


 (何…今の…ぼく、知らない…よね?知らない…知ってる…?)


 意識を飲み込んだ光景は、すぐさま消え失せた。

 視界に映るのは、ココチュに抱えられたオツタと、その最期を見守るユーシン達。

 皆、知っている。知っている人だ。でも、さっきの人も。


 混乱し、呆然とするヤクモの耳が、再びオツタの声を拾った。

 声ではあるが、言葉ではない。

 柔らかな響きと、穏やかな旋律。それは、歌だ。


 「…子守唄」

 「子守唄か。知らない響きだね。ヒタカミのかね」

 「おそらく。…この手、きっと今、オツタ殿は、子を抱いていますね」


 オツタの左手は曲げられ、確かに何かを包んでいるように見えた。

 ぴくりぴくりと指が動くのは、力が残っていれば、ぽんぽんと腕に抱く子を叩いてあやす動きになっていただろう。


 「…ぼく、この歌、知ってる」

 「ヤクモも、歌ってあやされたのか」

 「うん…よく、シズリが歌ってくれた」


 シズリ。洩れた言葉に、ヤクモは驚いて手で口を覆った。

 もう、二度とその名前を落とさないように。忘れないように。


 「シズリ。ぼくのお守りで、あの時も、いっしょにいた」


 なんで忘れていた?なんで、また、忘れそうになっている?

 シズリは、あの日、誰に殺された?


 「あ…」

 「ヤクモ!」

 

 あと少し。あと少しなのに。

 額が痛い。そこを押さえつけられて、せっかく思い出した名前も顔も、また記憶の沼の底へ沈みこんでいきそうで。


 「ヤクモ殿下、たまにこうなったり?」

 「すくなくとも、俺が会った時からはない」


 困惑したシドの声が聞こえる。ヤクモ!と名を呼ぶユーシンの声もする。

 なのに、身体が動かない。声も出せず、ただ額を押す力に抗う事しかできない。

 

 「ホンちゃん。画砦はあとどれくらい持つ?」

 「奴が諦めるのが早い事を祈りたいところですね」

 「ダメだった場合は、俺ちゃんが引き受けるから。なりふり構わず、逃げて」

 「将軍!俺も残る!俺が言いだした!シドは、ヤクモを連れて行ってくれ!」

 「だぁめ。ユーシン殿下死んじゃったら、俺ちゃん生き残っても死罪だから」

 「むう…!」


 どうしよう。ぼく、こんなことしてる場合じゃないのに。

 オツタさんの声は、もうほとんど聞こえない。間に合わない。


 どうしたらいい?こういう時、どうしたらいいの?


 (ファン、どうしたら…?)


***


 「ファン?」


 突然立ち止まった夫を、ガラテアが不思議そうに見つめる。

 注意を促しに行ったら、すでにチェの知人に会いに行った後だと知らされ、しかもジャスワン将軍も同行していると聞いて、大いに戸惑ったのは少し前。


 追いかけるかどうかは身支度しながら決めようという事になり、ファンの私室に入って、とりあえず上着を…と手を伸ばした動きが、ぴたりと止まる。


 「…なんか、すっごくまずい気がする」

 「どうした?」


 伸ばしていた手をファンは引き戻し、無言で掌を開いた。

 その掌にくっきりと浮かび上がる、灯の形をした刻印。


 「これは、勝手に出てくるのか?」

 「いや。でも、一回、経験がある」


 マルダレス山でドノヴァン大司祭と対峙した時。

 あの時、確かにファンは灯の刻印に宿る御業を使った。

 だが、それは意識しての事ではなく…勝手に、刻印が浮かび上がり、その存在を主張したから思い出したのだ。

 

 魔の眷属には、灯の刻印がなければまともに戦えないことを。


 「…前回の経験を踏まえて、すごくまずい事になってる気がする」

 「それは、お前の予想が当たっている、という事か?」

 「可能性が高い。あーもう!早く、何処にいるか見つけなきゃ…!」


 チェの話で、シミ通りに向かったことは分かった。

 しかし、シミ通りはそれなりに広い。そして、遠い。

 端から探し始めて、間に合うか。灯の刻印はますます輝きを増し、ファンをせかすように瞬いている。

 これはもう、事態は一刻を争うという事だろう。


 「どうしたら…!!」

 「トールなどの魔導士に力を借りることは?」

 「探知探索が得意な人がいるか…あ!」

 「いるのか?」

 「心当たりはある!ぶっつけ本番だけど!」


 二太子の部屋にしては狭い私室を大股で横断し、痛みすら感じるようになってきた右手に掴んだのは、シドウの大弓。

 その握りにはめ込むのは、開祖と国母より授かった銀の環。


 「五代ジルチ大王は、『鷹の眼』の持ち主だった。俺より遥かにすごい。その眼は大軍の中に守られた敵将を見つけ出し、奇襲を仕掛けて討ち取るって戦法を得意とした」


 弓弦を張りながら思い出す、五代ジルチの研究者…いや、信奉者である、エルデニの著作。

 それは小説と見做されて却下されたが、細部にさえ目を瞑れば、ジルチの生涯や才能について、事細かに書かれていた。


 「だから、その力を借りれたら!」


 弦を引きながら、強く願う。

 

 「五代英王ジルチ!どうか、その眼をもって、俺の仲間たちの場所を教えてください!」


 本当に、神と崇め祀られる先祖たちが力を貸してくれるのか。

 自分にそんな力があるのか。

 それは、試してもいないからわかるわけがない。


 だが、わからないからと遠ざけ、目を逸らすのは、学者のやることではない。

 わからないなら試せばいい。それで失敗したら、また次を試せばいい。


 びん、と弦が鳴った。

 その音は不自然なほど長く、高らかに部屋に満ちる。


 「…ファン?」


 天に向かって弓を構えていた腕が、降ろされた。

 名を呼ぶガラテアに、ゆっくりと顔が向けられる。


 「ファンではない」


 ぼんやりと応える声は、良く知る夫の声。

 だが、それを発しているのはファンではないことに、ガラテアは言われなくても気付いた。


 ぼーっとした、寝起きのような顔。

 それは、ガラテアの知っている「ファンの表情かお」にはない。

 

 「呼ばれた。俺が一番で、大変うれしい。開祖が文句を言いそうだが、気にしない事とする」

 「…あなた、は?」

 「ファンのひいひいおじいちゃん。ジルチという。ひいひい孫の嫁、わが一族の一番新しい家族。よろしく」

 「呼ばれた…?」

 「ファンの巫師の力。あとで本人から聞くと言い。あまりゆっくりしていると、ファンの魔力が尽きてしまう。まずは、お願いを聞く。ガラテア、何か書くものはあるか?」

 「すぐに」


 ファンは何か覚悟を決めて、おそらく、賭けに出た。

 その結果が、呼びかけた相手…ジルチの降臨ならば、その助けをしなくてはならない。

 魔力が尽きるまでが刻限ならば、急がねば。魔力は過剰にあっても酔うが、魔力が尽きれば昏倒し、場合によっては衰弱死する場合もある。

 

 幸い、ファンの部屋だ。筆記用具は豊富にある。

 すぐに板に張った紙に、筆と墨壺を持っていくと満足そうに頷かれた。

 

 「ガラテアがいるから、シドの魂を見つけやすい」

 「魂?」

 「俺の『鷹の眼』、魂を見つけられる。場所がわかれば、こうして…」


 さらさらと紙に書きつけていくのは、陣だった。

 心得がないから、それが何を発動するための人なのかはガラテアにはわからない。だが、ファンならば読み解くこともできるはずだ。


 「ん。できた。ちょっと急いだ方が良い。嫌な魂がいる。ファンも見ているな。守護者スレンを呼ぶ方法教えるから、ちゃんと覚える」


 紙をガラテアに渡し、ファン…いや、ジルチはちょっと離れた。


 「まあ、守護者って勝手に来るけど。イシダジブを撒くのは大変だった…」

 「撒かなければよいのでは?」

 「遊びにいくと怒る。怒られるうえに遊べなくては、嫌だ。だから遊んでから怒られる事とした」

 

 なるほど。間違いなく、「ジルチ」はファンの先祖だ。そして、今、そう名乗ってファンの身体を使っているのは、本物だと確信できる。


 「主が呼ぶ。来い。クロム」


 その声。いや、「クロム」と呼ぶ声だけは、間違いなくファン本人のもの。

 そして、声が響いた一瞬の後。


 「ってぇ!!?」


 どさ、と音を立ててクロムが床に転がった。

 何故か布団に簀巻きになっているが。


 「は…?なんだここ、ファンの部屋…?」

 「魔力酔い、していないようだな」

 「召喚するのに、余分に入っていた魔力使った。ひいひいおじいちゃんの心づくし」

 「そうでしたか…お手数おかけしました」

 「気にしない。ひいひいおじいちゃん、嬉しい。それに、クロムを召喚すれば、たぶん…」

 「弟っ!?なんかクロムがそっち行ったが、何事だ!?」


 音もなく絨毯の上に陣が現れ、姿を現したトールを見て、ガラテアはなるほどとジルチ王の認識を上書きした。

 武勇に優れ知略に長け…と史書に記載されているが、それは誇張ではないらしい。何をどうすれば、最善の結果を最短で掴めるか、一瞬で判断しているのだろう。


 「トール。ひいひいおじいちゃんだ。この陣を発動させ、すぐにファンとガラテア連れていきなさい」

 「ひいひいおじいさま…?ジルチ大王…?」

 「そんな他人っぽく呼ばれるの、ひいひいお祖父ちゃんは嫌だ。…む、もう駄目か。ファンが元気でいなければ、打破は難しい。なので、大変に名残惜しいが、帰る。そのうち、気絶してもいいときに呼んで欲しい。みんなをいい子いい子して可愛がりたい」

 「…その、あの…」

 「ではまた」


 ひらりと手を振り、一つ瞬きすると。

 ファンは膝から崩れ落ちる。


 「ファン!」

 「弟っ!?」


 飛びついてくるトールを蹴り飛ばし、ガラテアはファンの身体を支えた。

 室内は暖房が効いているが、それにしてもありえないほどの汗が顔を覆い、絨毯へと滴っている。


 「…しんどかった」

 「大丈夫か?」

 「おい、どうした!!くっそ、なんで布団に巻かれてるんだよ!俺は!」

 「説明は、あとで」


 顔をぐいと拭い、満月色の双眸に強い意志の光を宿して。

 ファンは、ガラテアの手を借りつつも立ち上がった。


 「兄貴、それ、転移陣だよね?」

 「うむ。ここへ行かねばならぬのだな?」

 「ああ。行かなきゃ」


 握りしめる右手には、いまだに消えない灯がある。


 「魔王には、絶対負けないんだからな。俺は。ましてその目玉なんかに、好きにさせない」

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