5-3
玄関先まで歩く。たったそれだけのことをする間、ミアはエーディトたちのことをたくさん思い出した。失うと、どうしてこんなにも特別になるのだろう。もう触れ合うことのできない相手だからこそ、もう一度と願う。人はわがままな生き物だ。
「この敷地内にいてもキメラが襲って来た。気をつけて」
可哀想なカルラはここでキメラに攫われた。そうして、それを皆で追った先で惨劇が起こったのだ。
リーンハルトはうなずきながら、わかったと答えた。
そう、そのための拳銃だと、ミアは自分を納得させようとした。けれど、心がザラついたままなのは、それで自分をだますことができないからだろうか。
エンリヒは正面玄関で入口のパネルに指紋と網膜を読み取らせる。すると、電子音と共にロックが外れ、扉は開いた。
けれど、その内部は閑散としていた。どうしたわけか、人の気配が感じられなかった。本来ならば、主であるエンリヒの帰還に、使用人たちはどんな仕事の手も止めて出迎えるはずである。それが、静かなものであった。近づいて来る足音さえない。
「誰も……いない?」
思わずミアがそうつぶやくと、エンリヒに睨まれた。馬鹿なことを言うなとばかりに。
カツン。
エンリヒの靴底が音を鳴らす。先を行くその背中に、ミアとリーンハルトは続いた。廊下を行くも、やはり誰にも出会わない。ディートリンデたちはどこにいるのだろう。
まさか、キメラが入り込んだなんてことはないと思いたいけれど――。
そう考えて身を震わせると、ミアはその考えをかぶりを振って落とした。
地下へ続く階段は、一枚の扉で隠されていた。ミアたちが存在を知らなかったのも無理はない。その扉の先はただの部屋だと思っていた。
冷たいブルーグレーの床。その先に続く下り階段。その道筋をいくらライトが照らし出そうとも、先には闇しか見えない、そんな気がした。あの先にアヒムがいる。あの先に――。
会いたかったはずなのに、どこかで怯えている自分を感じた。それは本能か。この先にまるで恐ろしいものが待っているかのような恐れがある。
「皆にはここへ近づかず、部屋で待機していろと言ってある」
エンリヒがそんなことをぽつりと言った。
「どういうことですか……?」
アヒムは大人しい子だ。まるで危険人物であるかのような扱いはあんまりではないだろうか。
けれど、エンリヒはミアに唾棄するような勢いで言ったのだ。
「危険だからだ」
「危険?」
そんなはずはない。むしろ不安に震えているはずだ。一人でこんなところに閉じ込められ、気も狂わんばかりになっているだろう。
その時、リーンハルトはミアの肩越しにささやいた。
「……ミア、アヒムがもしかすると――」
ミアはとっさに振り返った。リーンハルトの表情からは何も窺えない。けれどその手には拳銃がしっかりと握られていた。ハッと息を飲み、そしてミアは動揺を隠しながら声を絞った。
「もしかすると何? アヒムがなんだって言うの?」
すると、リーンハルトは小さく嘆息した。室内のライトが彼に影を作る。薄暗く、謎めいた影を。
「アヒムがクラインだとしたらどうする?」
「え?」
アヒムが――クライン。
ミアのそばで見守って――。
賢いアヒム、すべてを識るクライン。
まさか。
まさかだ。
そんなことがあるとは思えない。
そうでなければ、アヒムが仲間であるはずのケヴィンたちまで殺したことになる。そう考えただけで体中の血が凍りつきそうになる。
「違う。きっと、違うと思う」
切れ切れにやっとそれだけ言ったミアに、リーンハルトは憐れむような目を向けた。
「それでも、会えば何かわかるかも知れない。行こう」
リーンハルトに促され、ミアは扉の先の階段に足をつけた。その冷たい感覚が靴底から伝わるようであった。ひたり、ひたり、と音を立てることを避けながら歩いてしまう自分がいた。リーンハルトはそんなミアを気遣ってか後ろに回り、エンリヒはアヒムというよりもミアのことを警戒しているように何度も振り返りながら先を行った。エンリヒを突き飛ばすつもりなどないのにと言っても、この男は信じないだろうから、言わない。
階段はそう長いものではなく、一度折れた後に床が見えた。先にある部屋の扉も床と同じ質感であった。エンリヒが扉の右にあるパネルに触れた。そのパネルから室内の様子を窺うことができるようだ。エンリヒは自分で閉じ込めたアヒムがどうしているのか、今の今まで気にも留めなかったのだろうか。
「っ……」
とっさにパネルから顔を離す。その素振りにただならぬものを感じた。
どくり、と心臓が一度激しく高鳴り、それから彼らの言葉を搔き消すほどに、心音がミアの中で主張し続ける。
リーンハルトはじっと無言でエンリヒの言葉を待っていた。エンリヒは振り返ると、心なし青ざめた顔でつぶやいた。
「中で倒れています」
「!!」
アヒムは一人きりの不安の中、耐えきれなかったのだ。それほど強い子ではない。いや、ミアもこんな扱いを受けては気が狂っていたかも知れない。
「早く開けて!」
思わず叫んでいた。狭いその場所にミアの声が甲高く響く。けれど、エンリヒは扉を開けようとはしなかった。眉を顰めるばかりである。
「我々を油断させようとしているのかも知れない」
何を馬鹿なことを言うのかと、ミアはただ腹立たしさが込み上げた。エンリヒを押し退けてパネルを操作しようと意気込んだその時――。
扉はシュー、と静かな音を僅かに立ててスライドした。中の空調の整わない淀んだ空気が漏れる。
「馬鹿な……」
エンリヒがそう絶句してパネルを指で何度も叩いた。けれど、扉のコントロールはエンリヒの手を離れてしまったのだ。扉は開ききったままだ。ミアは後先構わず部屋に飛び込んだ。
「ミア!」
リーンハルトが制止する声にも振り返らなかった。
「アヒム!!」
冷たい床に体を横たえ、扉の方に小さな背を向けている。両手足を投げ出し、動く気配もない。ミアはそのそばに膝をつくとアヒムの肩を揺すった。その肩にはぬくもりと弾力が僅かながらにあり、死人のそれとは違うように思えた。そのことにほっとして、アヒムの顔を覗き込んだ。ひどく青い、血の気のない肌、伏せられた睫毛までもが髪と同じように白い。前髪に邪魔されず、アヒムの素顔を見たのは初めてかも知れない。
儚い――そう感じてしまう横顔が、僅かにミアの方を向いた。そう思った次の瞬間に、カッとアヒムの両目が開かれた。赤い、血のように鮮烈な色。
ミアは思わずアヒムの肩に添えていた手を退けた。
「アヒム……」
アヒムはゆっくりと体を起こす。長い前髪がサラリと零れ、赤い瞳を覆い隠した。そこにはミアの知るいつものアヒムがいるだけであった。そう思いたかった。けれど、アヒムはミアに殺気にも似た敵意を向けていた。まるでミアのことがわからないかのように。
そんなはずはない。そんなはずはない、と最後まで否定したがっていたからこそ、ミアはとっさに反応ができなかった。アヒムの細い指が、信じられないほどの力でミアの首をつかんだ。痛みよりも驚きが勝り、身動きすらできなかった。
あのままだと、首の骨が折られても不思議ではなかった。そうならなかったのは、エンリヒがとっさにアヒムの顔面を蹴り上げたからである。アヒムはその一撃を真っ向から受け、ミアの耳元にメキ、と鼻の砕ける音が残る。それはいつまでも耳の奥に粘りつくように――。
「あ、あ……」
喉の奥から意味のない言葉が漏れる。自分は何を言おうとするのか。
ミアから手を離して床に転がったアヒムは、まるで獣のような咆哮を上げた。狭い室内にその声が充満し、血の匂いが漂う。
折れた鼻から血を流し、顔を抑える指の間から赤い色が見えた。ミアがとっさに手を伸ばすと、その手を横からリーンハルトがつかんだ。思わずリーンハルトを見ると、彼はゆっくりとかぶりを振った。その時に気づいた。
リーンハルトもエンリヒも、アヒムの発狂に驚いていないのだと。
「どういうことなの……?」
アヒムは知能的だけれど戦闘力という点ではミアよりも劣っていた。それがあの力はなんだ。
リーンハルトは短く息をつく。
「彼はクラインじゃない。それはわかったよ」
「っ……。今はそういうことを言ってるんじゃない。アヒムのこの状態はなんなの!?」
ミアは叫びながらリーンハルトの手を振り払っていた。リーンハルトは少しだけ悲しそうに見えた。ミアがそうであってほしいと願うからか。
エンリヒは荒く呼吸をむさぼるアヒムから視線を外さずにいる。
「副総帥、もう気がお済みになったでしょう。この部屋から出た方がよろしいかと」
「ああ」
アヒムをまた閉じ込める気だ。ミアは再びアヒムに駆け寄ろうとしたけれど、あっさりとエンリヒに捕まった。エンリヒの膂力はリーンハルトの比ではない。というよりも、リーンハルトのようにミアを労わってくれるわけではないのだ。つかまれた手首が千切れそうに痛かった。
「アヒム!」
叫んでも、アヒムは答えてくれなかった。獣のように唸った、それだけだった。
リーンハルトが静かな足取りで部屋を抜ける。その背に続くエンリヒがミアを部屋の外へ放り出す時、吐き捨てるように言った。
「あれにはもう自我などない」
「どうして――」
振り返って問い質そうとした。アヒムが発狂したわけを、少なくともこの二人は知っているのだ。
けれど、その時、扉が唐突に閉まった。誰もパネルには触れていない。扉は自動で閉まったのだ。エンリヒとアヒムを残して。
「な――!」
リーンハルトが扉の隣の操作パネルをカタカタと叩く。けれど、パネルの電力が落ちてしまったかのように画面は薄暗く色を失った。
「エンリヒ!!」
パネルから離れ、リーンハルトは扉を叩いた。けれど、呼び声もきっとエンリヒには届いていない。中の音も外には漏れない。
一体、どういうことなのか。あの二人が中に閉じ込められた場合、エンリヒはアヒムを殺すだろうか。それとも、手負いのアヒムがエンリヒに牙を剝くのだろうか。どちらにせよ、恐ろしいことが起こる予感しかない。
どうしたらいいのか――。
頭を抱えてしまったミアに、その声はまるで天啓のように響いた。
『ミア、おいで。ここへおいで。君の味方は僕だけだと言っただろう?』
クライン。
懐かしくさえ感じるその声。
これは白昼夢か。そんなことはどうだっていい。
ミアは大きな存在にすがりたい一心だった。
「クライン!」
その名を呼ぶ。声が返る。
『おいで、ミア。こっちだ』
この声はどこから聞こえるのか。音声スピーカーを通しているように感じられる。そう思った瞬間、リーンハルトが瞠目していた。
「クライン――この声が……っ!」
リーンハルトにも聞こえるのだ。このクラインの声は。
クラインは確かにここにいる。ミアはリーンハルトのそばをすり抜け、階段を駆け上った。クラインがミアの味方だというのなら、ミアが頼めばアヒムを救ってくれるだろうか。真実を教えてくれるだろうか。
『こっちだ、ミア』
廊下の角を曲がり、クラインのもとへと急ぐ。目まぐるしく変わる状況に、ミアの心は悲鳴を上げていた。クラインに会えば、ミアはもうこうした思いはしなくても済むのだろうか。
わからないけれど、会いたい。会えばすべてが解決すると、そんな気がした。
脚が、気持ちの揺れに負けそうになる。それを必死で奮い立たせて走った。リーンハルトがミアを追って来る足音が聞こえる。けれどミアは彼を待たなかった。
自然と、こっちだと体が向かって行く。ミアが辿り着いたのは、エンリヒの書斎である。主不在のその部屋。――いや、今はもう、エンリヒを主とは呼べないのかも知れない。この館はクラインの意のままだ。
扉がシャ、と開く。クラインが開けたのだ。ミアの背に、リーンハルトも追いついた。
『ミア、おいで』
中へと誘う声。ミアはその入り口を潜った。
けれど、本棚の壁の前には誰もいない。エンリヒがいつもミアを迎え入れた椅子の上は無人であった。近づいてみてもそこには誰も、何もない。
その時、書斎の横の扉が更に開いた。予測していなかった動きに、ミアはびくりと肩を跳ね上げる。あの扉の先はなんなのか。寝室だろうかとあまり深く意識したことはなかった。けれど、そんなミアの背後でリーンハルトがつぶやいた。
「この館のコントロールルームだ」
そこにクラインがいる。
ミアは恐れと胸の高鳴りとを抑えながらその先へと歩んだ。




