12 世界の先
どのくらい船に揺られていただろう。揺られていたと言っても、エレウテリアは普通の船と違って殆ど揺れは感じなかったのだが。何でも、エレウテリアは浮力によって浮いているのではなく、マテリアを船にコーティングする事によって水を切るように進んでいるのだと言う。その為に、波に揺られる事がないのだとミレニスは言っていた。そして、従来の船よりも数倍のスピードが出るのだとも。
ベルティエラでは一般的な手法であるらしく、自然の物以外はマテリアで動かしていると言う。
広い海を進んでいると、暫くの後にその場所は見えてきた。
世界の果てとされている巨大な滝、世界の扉があると言われている場所だ。雲の切れ間、空から落ちてくる滝の頂上を見た者はおらず、どれ程の高さなのかを知る術はリルアーテルには無かった。
滝のほど近くまで来て、エレウテリアは機能を停止させる。
「扉を渡る為には四種類のマテリアが必要だ。僕は雷。キースは、風だったな」
「ああ」
「見た限り、ディラルドは火、メルは地といったところか」
「そうです」
「だね」
「では、この四人のマテリアを使って扉を開ける」
呼ばれ、キース・ディラルド・メルヴィーナの三人はミレニスの傍までやって来た。それから、ミレニス同様に台の上にある玉に四方から手を翳す。
すると四属性それぞれの紋章が船の上下と前後に出現して、エレウテリアを取り囲む。そして滝にも、同様の四属性の紋章が十字を描く様に浮かび上がった。
「開錠!」
声に反応するかのように双方の紋章が輝きを放つと、滝の紋章は左に少しだけ周り、ひし形から四角形を描く様に位置をずらした瞬間に鍵の開く音が聞こえた。そして滝に、縦に亀裂が入ると左右に割れていく。更に、エレウテリアを囲んでいた紋章も回転を始めて光が球体へ変化すると、亀裂に吸い込まれていった。
強い衝撃と光、激しい揺れ。
「うわああぁああぁぁ!」
一度は経験しているミレニスと、未だ意識の無いスフィア以外の四人がパニックに声を上げていて、光と揺れと叫び声で溢れ返るエレウテリア内で、リクスはただスフィアの事を抱き締めて衝撃から守る事しか出来なかった。
落ち着いたのは、それから幾何も経たない頃。衝撃と光が収まった事で目を開けて見ると、窓の向こうに広がる景色は何ら変わらない海の上だった。
「ここが、ベルティエラなの……?」
呟くようなリクスの言葉に、他の皆も目を開けてその光景を瞳に映す。リルアーテルと変わらない景色に、世界を渡ったという自覚はまるでなかった。もしかしたら失敗して、今はまだリルアーテルに居るのではという疑問を抱いてしまう。
しかし唯一人、海の先を見据えたままのミレニスが、その考えを否定した。
「ここは紛れもなくベルティエラだ。奥に見えるだろう」
ミレニスの言葉に目を凝らしてみれば、海の向こうに見えたのは巨大な鉄の船だった。それは、エレウテリアと酷似した形状をしている為にリルアーテルの船と違う事は一目瞭然だった。 それらはリルアーテルで見た事のないもので、確かに世界を渡ったのだと漸く実感が湧いてきた。
「あの船は巡視船だ。世界の扉を監視している船だ、ここまでやって来るだろう。対応は僕がするから、貴様らは大人しくしていてくれ」
それからすぐに、ミレニスの言った通りに巡視船はエレウテリアの目の前までやって来た。こうして見上げるとその大きさがハッキリと見て取れた。
ラディウス大聖堂の門を見上げた時とどちらが大きいだろうかというほどの、巨大な巡視船。鋼鉄の船の存在感は、圧倒されるほどのものだった。数メートル手前で巡視船が停泊すると、エレウテリアの窓いっぱいに男性の姿が映し出された。群青色のかっちりとした軍服に身を包んだ男。
『こちらはメイスタッド軍所属の巡視船である。聖魔の扉に近づくことは禁じられている。違法行為と見做し、拘束させてもらう』
一方的な物言いに、ミレニスは左足に体重を乗せて腰に左手を置くと、呆れた様に息を吐いた。
「相変わらずだな」
『何?』
「僕はミレニス。メイスタッド王の勅命によってリルアーテルへ赴き、フェアトラークを連れて戻った。このままメイスタッドに帰還する」
『ミ、ミレニス様!? こ、これは、失礼致しました。我々がメイスタッドまでお送り致しましょう』
「いい。貴様らは任務を続行しろ」
『はっ』
対峙している者がミレニスだと知るなり、それまで威圧的だった態度が急激に低姿勢へと変わり、ミレニスに向けて敬礼をすると男の姿は消えて、再び巡視船の姿が堂々と映し出された。けれど巡視船はすぐにエレウテリアの航路から外れるように動いて行き、その姿が完全に見えなくなると、ミレニスは再び操作してエレウテリアを発進させた。
何事もなかったかのように平然としているミレニス。しかし、他の面々はそんなミレニスに興味津々と言った様子だ。じろじろと見てくる視線が痛いほど突き刺さり、無視し続けられなくなったのか、苛々した様子で眉を顰めたミレニスが声を発する。
「何だ」
「ああ、いや。お前って、すげーんだなと思って」
「世界を渡って来られたと聞いていたので、只者ではないと思っていましたが……」
「今更、何を言っている。当然だろう」
ふんっと鼻を鳴らすミレニスはそう言って一蹴した。
これまで、ミレニスが自身の話をする事はなかった。必要に迫られて、ベルティエラの人間だと明かしたくらいで、その他にミレニスの事で知っていると言えば、年齢くらいだろうか。
どこの誰かという事を、リクスもキースも、ディラルドもメルヴィーナも気にはしなかったからだ。そもそもリクス達もディラルド達も、自分がどこの誰かという事を話してはいない。各々、必要な時に必要な分を話すだけだ。
それはきっと、スフィアの事があるから。
現状、スフィアという人間の事は何も判明していないに等しい。思い出される記憶に、スフィアの素性を知るような情報はないからだ。キア・ソルーシュが唯一知っていた事だったが、メルヴィーナの話でそれも存在を証明できるようなものではないと知った。女神と世界に全てを捧げる人間の事を指すのだから、誰であっても同じという事。
スフィアの事は何も知らずに受け入れているのに、他の者が受け入れられないという話などないだろう。だからこそ、何も訊く事はなかった。
それはきっと、この先も変わらない。スフィアが何者かを知るまでは。
そうしていると皆の耳に、透き通る水のような声が届いた。
「……リクス……?」
呼ばれ、バッと腕の中にいるスフィアを見下ろせば、金の双眸がリクスを見ていた。
「スフィア! 気が付いたんだね」
体を起こそうとするスフィアに、リクスは抱いたまま立ち上がるとゆっくりと座席に下ろして座らせてあげた。それから目線を下げるようにしゃがみ込み、スフィアの顔を覗き見る。
「気分はどう? どこか痛いところとかない?」
優しく問いかけると、スフィアはふるふるっと首を横に振った。
「スフィア、平気」
「そう……良かった」
安堵の笑みを浮かべて、リクスは脱力するようにその場に尻餅をついて座り込み、俯くとその顔から笑みが消え失せた。
そして小さく開かれた口から出たのは、謝罪の言葉だった。
「……ごめんね、スフィア。俺が連れ出したばっかりに、こんな……」
ずっと、悔いていた。あの時に出会わなければ、フィエスタから連れ出さなければ、大聖堂に来なければ、スフィアが辛い思いをする事はなかったのに、と。
自己満足だったのかもしれない。スフィアに出会ったから、自分が何かをしなければいけないのだと。否、自分にも何か出来るのだと証明したかったのかもしれない。何も持っていなくとも、誰かに与える事が出来るのだと。
そんなリクスを見下ろすスフィアの目は、とても穏やかだった。
「……リクス……スフィア、楽しい」
紡がれたのは、ハイドレンジアでの言葉。スフィアを旅に連れ出した事への迷いがあった時に、スフィアから紡がれた言葉。
「旅、楽しい……リクス、キース、ミレニス、ディラルド、メル、いる。スフィア、一人違う……スフィア、嬉しい、楽しいよ。ありがと」
顔を上げてスフィアを見れば、あの時と何ら変わらない笑顔をリクスに向けている。あの時から、きっとスフィアの中では何も変わっていないのだろう。旅に出た事を後悔などしていないと、後悔した事などないのだと、そう言っているようだった。
今のスフィアがどこまで理解しているのかを、リクス達は知らない。けれどそれでも、スフィアは的確な事を言葉にする時がある。本能で理解しているような、そんなスフィアに救われる事は沢山あって、そんなスフィアに今のリクス達が出来る事はきっと、一緒にいてあげる事だけなのだろう。
座り込んでいた足に力を込めて体を床から浮かせ、立ち上がるとリクスはスフィアを真っ直ぐに見て手を差し出した。それは握手を求めている手で、けれどもその意味が解っていないスフィアは首を傾げながらも手を繋ぐようにリクスとは逆の手で繋ぐ。
少し不格好な握手。けれどもスフィアらしくて良いと、リクスは微笑んだ。
「俺も楽しいよ、スフィア。これからも、一緒にいようね」
「うん!」
ニッコリと満面の笑みを浮かべて頷くスフィア。
神獣ラディウスに言われた言葉、そしてスフィアの本当の気持ち。それらを受け取ったリクスの中から、迷いや不安は消え去っていた。
そうして、海の向こうに影が映り込んだのを確認したミレニスが、操舵をメルヴィーナに移行してスフィアに自分が羽織っていたマントを渡した。今のスフィアは女神ヴェルミナそのものの姿をしている為に、そのまま外に出れば混乱は避けられないという事だったから。生憎と小さなエレウテリアには着替えなど用意してはおらず、これまでスフィアが着ていた服は大聖堂に置いて来てしまった為に、それが最低限で最善の措置だという事だ。
段々と近付いて来る影は、次第にハッキリとその姿を現した。鉄壁と鉄の門。自然溢れるリルアーテルでは見る事のなかった鉄製のそれらは、仰々しく威圧的な雰囲気を漂わせている。港らしいそこには、巡視船と同様の造りの船が幾つも停泊していて、そんな船と並ぶようにエレウテリアも港に停泊する。
エレウテリアから降りるとすぐに軍服の男達が近付いて来たのだが、ミレニスが名乗るなり敬礼し、態度が急変していた。やはり、ミレニスは相当な地位についているらしい。
軍の人間にエレウテリアを託したミレニスはそのまま歩いて行ってしまい、勝手の分からないリクス達はただ後をついて行く。港にいる人達を見てみても、リルアーテルと服装や顔立ちはそう変わらない。リクス達がリルアーテルの人間だと知る者は、恐らくミレニス以外には居ないだろう。
港の出入口となっている重厚な門を潜り抜けると、砂礫の都が広がっていた。
鉄の壁に囲まれた円形の都は、中心部に向かって高くなっており、一番高い所に宮殿が堂々と佇んでいる。
宮殿のある頂上から下方へ、川のように滝のように白砂がサラサラと流れ落ちていて、大聖堂とはまた違った美しさがある。建造物は砂で出来ている訳ではなく、材質は恐らく鉄の壁と変わらないだろうというのに、白砂が流れ覆っている為にどこか柔らかい印象を受ける。
建物と道との間には溝があり、そこに砂が落ちている為にタイル張りの道には風で舞い降りた砂があるくらいだった。
光とも雪とも違う白さの都。色を宿しているのは、空の青さくらいなものだ。
「ここが、白砂の宮庭と呼ばれている、メイスタッド。リルアーテルで言うところの、王都ウィスタリアだ」
ウィスタリアも綺麗な都だが、聖域という名はメイスタッドの方が相応しいような気がした。そう思う要因は、ウィスタリアのギスギスとした険悪な空気の悪さにあるのだが。
このまま頂上の王宮へ向かうと言うミレニス。ベルティエラに行こうと言ったのも、ベルティエラに連れて来たのも、ベルティエラを知っているのもミレニスだ。その為、リクス達に選択権はなく、黙ってミレニスの後を歩いて行く。
それでも、初めて見る景色にただ黙ってという事は出来なかった。何分、その中には好奇心旺盛なリクスと学者のディラルドが居るのだから。あちこち見て回るリクスと、質問責めをしてくるディラルドの二人に、ミレニスはたじたじの様子だった。キースはフォローを入れられる知識がない為に傍観していて、メルヴィーナは大聖堂に向かう時と同じようにスフィアと楽しそうに会話している。宥め役の年長達の助けがなかったのでミレニスの苛々は段々と募っていき、最終的には「煩い」と、リクスとディラルドを一蹴していた。
タイル張りの道を何度か曲がりながら歩いて行けば、両端が通路になっている坂が設けられた白砂の川に差し掛かった。その川は頂上から一直線にここまで伸びてきていて、真っ直ぐ進めば王宮に辿り着けられそうだ。リクス達が歩いて来た円形の道と、川がぶつかっている部分だけが、道のタイルが丸くなっている。その直径は、二メートルはあるだろうか。川と両脇の通路を合わせた大きさと同じだ。更に、円形のタイルの上には、エレウテリアに設置されている台と球体の石が置かれている。
円形のタイルへと近付くなりミレニスはタイルの上に乗り、倣うように皆がタイルに乗ったのを確認してからミレニスは石球に手を翳した。すると、タイルを覆うようにカプセルのような黄色い膜ができ、水平を保ちながら川の上を頂上に向かって昇っていく。
「わぁ、凄い!」
「これもマテリアで動く仕組みなんですね! 僕、感動です!」
「こりゃ、楽でいいね」
「世界って、こんなに違うもんなんだな」
「キラキラ」
各々の言葉を聞いても振り返る事はしなかったミレニスだったが、その反応は見ずともよく分かるようなものだった。聞いているだけで、それぞれの表情が見て取れるようだ。
何となく話に入っていく気になれず、背中で盛り上がる会話を悉く無視していると頂上へ辿り着き、動きを止めると覆っていた膜が消え去った。
そこから見えた、聳え立つ王宮は荘厳で、美しいだけではない威風堂々たるその姿。巨大な宮殿は、リルアーテル王城と大きさとしては変わらない様に見える。煌びやかな王城は縦に長く、清浄なる宮殿は横に広い。
メイスタッド王宮を前に、皆が感嘆の声を上げる中で先頭に居たミレニスが振り返った。
「すまないが、僕は先に寄る所がある。先に王宮内に入っていてくれ」
「それはいいけど、俺らだけで入ってていいもんなのか?」
「衛兵に話は通しておく。何かあったらミレニスの名を出せばいい」
いつにも増してピリピリしているような気がするミレニス。これ以上は声をかけるだけで怒鳴られる気がしてならない為、キースでさえもそれ以上の言葉を紡ぐ事はなかった。
それから王宮前に立っている衛兵の傍まで近付いたミレニスが衛兵に声をかけていて、数回言葉を交わすとミレニスはそのまま王宮を離れ、リクス達がここに来たのとは別の方向へと向かって行ってしまい、代わりにミレニスが話しかけていた衛兵がこちらへやって来る。
そして、皆の前で立ち止まるなり敬礼をする。
「ミレニス様からお話をお伺いしました。こちらへどうぞ」
促され、王宮へと続いている道を歩き始めた。
「皆様は、ミレニス様のお知り合いだとお伺いしましたが、どちらからいらしたのですか?」
「えっと、俺たちはリルアーテルから来ました」
「リルアーテルからですか。それはまたずいぶん遠くから……」
ニコニコとしながら話していた衛兵だったが、リクスの言葉に足と動きと話を止めた。恐らく今、リクスが告げた単語を頭の中で反芻している事だろう。
「リル、アーテル……リルアーテル!? な、そそ、それは大変だ! 衛兵、衛兵はどこに! あ、自分か……とにかくどなたかに報せなければ!」
あまりの驚きに思考が停止していた衛兵だったが、ハッとして一気に喋ったかと思うと王宮へと駆け出し、すぐに何かに躓いてしまったかのように盛大に転んでいた。しかし再び駆け出して行った衛兵は、ディラルドとはまた違うタイプのドジっ子なのかとリクスとキースは憐れむように見送った。
取り残され、どうしたものかと思っていると、衛兵と入れ違いに王宮の方から歩いて来る年配の女性が見受けられた。王宮の侍女かメイドだろう。
「慌ただしいでしょう。彼、落ち着きがないの。ごめんなさいね」
物腰の柔らかな品の良い茶髪の女性。まだ四十代だろうか。
代わりに私がご案内します、と踵を返し王宮へ続く道を歩いて行く女性に、リクス達は連れて行ってくれるのならばとその後に続いた。
王宮へと続く道の両端には支柱が樹のように、等間隔に並んでおり、その奥には砂の泉が広がっている。泉には噴水もあるのだが、流れているのはやはり水ではなく砂だった。泉の噴水から吹き上げられた砂が、下方にある家々へと流れているらしい。
これがミレニスの言っていた、神獣と神殿がある事による影響なのだろうか。
王宮の扉の前に立つと扉は自動で外に開き、エントランスが広がっている。そしてそこには、ミレニスが着ている服と似たデザインのかっちりとした深緑の服を着ている黒髪の男性が立っている。落ち着いた雰囲気の優しい目をした彼は、メルヴィーナやキースよりも年上だろうか。
「あなた方が、ミレニス様のお客様ですね」
「そうですけど……」
「わたしは、王佐をしております、シヴァと申します。お話は衛兵から伺いました。どうぞ、お部屋までご案内致します」
シヴァと名乗った人物が引き継いだ為に、ここまで案内してくれた女性はスカートを抓んで一礼すると奥へと行ってしまった。
次から次へと案内してくれる人が変わっているが、目的は同じらしいという事で、特に口を挟む事はせずに案内してもらう。
エントランスから伸びる、中腹から二又になっている階段を上って行き、奥へと続く通路を歩いて行く。どこもかしこも白い王宮の中で、ふと見えたその場所だけが色を持っていた。壁に飾られた数枚の絵。その中の一枚に、リクスは目を奪われた。
「わぁ、綺麗な子……」
リクスの金髪とは違う、輝くような金の長い髪に透き通るような青い瞳の、ディラルドよりもずっと幼い少女。年齢的にはエレナと同等に見えるが、気品溢れるその面持ちは大人びて見える。可愛らしくあり、そして美しさと気高さを併せ持った顔立ちの彼女に、他の者達も足を止めて見入っている。
「まだ幼い頃の画ですが、この方は、イレイユ・メイスタッド様。この国の姫君です」
「お姫様……俺、お姫様って初めて見たよ」
「キレイ」
「とても美しいです」
「アタシなんかとは、やっぱ生まれから違うね」
「お前、それさすがに卑下しすぎじゃねえか?」
各々の感想に、シヴァはくすりと笑みを零した。
それぞれの性格がよく表れているようだ。
「シヴァさん。このお姫様ってどこにいるの? 会える?」
「イレイユ姫は今――」
「シヴァ!!」
怒号と共に、ツカツカとミレニスがエントランスの方からこちらへと歩いて来る。もう用事は済んだのかと見ていると、ミレニスはリクス達を通り過ぎてシヴァの許まで行き、身長の高いシヴァを睨むように見上げる。
「その名を口にするなと言っただろう!」
「しかし…………」
「イレイユはもういないんだ! その名、僕の前で二度と口にするな」
「……はい……」
シヴァの表情が曇り、目を伏せている。しかしながら、ミレニスは気にした様子もなく、踵を返すと皆を見る。
「部屋に行くのは後だ。先ずは王に謁見する。先に行って王に伝えろ」
「かしこまりました」
一礼するとシヴァは奥へと向かって行き、その後ろ姿をミレニスは振り返る事もせず、ただ、壁に掛かっているイレイユ姫の肖像画を見上げている。
その厳しい視線に、リクスは隣にいるキースにこそっと小声で話しかけた。
「ねえ、キース。もしかして、ミレニスってイレイユ姫のこと……」
「かもしれねえな」
「レニとお姫様が婚約者ってか。レニのあの怒りっぷりは凄かったからね」
「ミレニスさん、可哀想です」
少し離れた場所でそんな事を話しているなど露と知らないミレニスは、ふいっと肖像画から顔を背けると奥に向かって歩き始めた。
「早くしろ。王が待っている」
足を止めたのはミレニスだったのだが、文句を言う事もなく、今度はミレニスの後について行く。
奥へと続く、天井がアーチ状になっている光の差し込む長い通路を進んで行くと扉があり、開いて中へと入る。天井から垂れている王家の紋様が刻み込まれた赤い布で埋められた、広い空間がそこには広がっていた。入り口から真っ直ぐに伸びる赤い絨毯。十段程の階段の上に玉座があり、その横にシヴァが立っている。
玉座には男が座っている。右肩でマントを留め、シヴァの着ている服に似たデザインの、空の色を映しながらも深く世界を包み込んでいる海のような青色の服に身を包んでいる。その色は、王という立場にある人間の、威厳と尊厳と懐の深さを表しているかのようだ。
動作に合わせて胸元の金の飾りと、輝くような金の髪が揺れている。
「よく来たな、お前達。オレはこの国の王、ランバルド・メイスタッドだ」
雰囲気と身に纏っている空気とは打って変わって軽い口調の王。それも問題なのだが、その他にも驚くべき事があった。
「お……王様!?」
「わっかいね~」
「俺らとそんな変わらない歳じゃ……」
「王様って、若くてもなれるものなんですね」
「髪、キレー」
スフィアの感想はともかく、皆、思う事は同じのようだった。その姿は、道の途中に飾られていたイレイユの肖像画の隣に合った人物と瓜二つで、年齢もさほど変わっていないように見える。多く見積もっても二十代後半といった容姿だ。
王と言うには、あまりにも若い。
「若いのは、先王が亡くなってすぐに王位継承したってだけのこと。なったばかりの新米だからな、オレは。歳だってまだ二十六だ」
「アタシと五歳しか違わないのか」
「ま、そういうことだから、気軽に話してくれて構わないぜ」
「ランバルド様……貴方は一応、国王なのですよ?」
「いいじゃねえか。民衆と親しくなれるっていうのはさ」
そう言ってカッカッと楽し気に笑うランバルド。
この人も、メルヴィーナ同様に豪快で器の大きい人のようだ。新米の王という事もあるのだろうか。
そうして暫し談笑していると、ゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえてきた。
「そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか、国王陛下」
怒気を含み、苛立ちを隠そうとしていないこの声はミレニスのものだ。
そんなミレニスの声と怒気を受けても、ランバルドは全く笑みを崩す事無く楽し気にミレニスを見返している。
「いいぜ」
「……先にもお伝えしたように、彼らはリルアーテルの住人です。そして、ここに居るディラルド・エスティーダ博士が、僕らが捜していたフェアトラークの資格を持つ者です。彼が居れば、神獣から力を借り受ける事が出来る為、これから各地を廻ろうと思っています。今回は、ご報告に伺いました」
「そうか。見つかって良かったぜ。ま、多少不安の残りそうな顔ぶれだが、そいつがいればこの国じゃ何の問題もねえだろうから平気だな。少なくとも、この国でそいつに逆らえるような奴はそういねえ」
言いながら真っ直ぐにミレニスを見ているランバルド。その視線から逃れるように顔を背けているミレニスは、やはり相当な地位に居る人物らしい事が窺える。王佐をしているシヴァでさえも、ミレニス様と呼んでいたのだから。
「何せ、オレの妹だからな、そいつは」
ニッコリと楽しそうに笑いながら言い切ったランバルドに、リクス達の動きと思考が完全に停止した。
今、ランバルドは一体、何と言ったのだろうか。
皆の表情に、ミレニスがランバルドを睨むように見る。
「兄上! その事は言ってはならないとあれ程……――」
しかし、紡いだ言葉は更に墓穴を掘る結果となってしまった。ハッとして自らの口を押えたけれど、時すでに遅く、振り返って見れば皆の視線が今度はミレニスへと向いていた。
「兄上ってことは、ホントに妹なの!? じゃあ、ミレニスはお姫様だったんだ!」
「いや、っつーかお前、男じゃねえの!?」
「……僕は一度も男だなどとは言っていない」
「否定もしてなかっただろ、男だって言われても!」
「そう見られている方が、都合が良いと思ったからだ。僕がイレイユだと知られると面倒なのでな」
つまり、男装をして、男になりすましていたという事だ。本人の口から自分は男だと告げている訳ではないので騙っていたという訳ではないが、否定しないミレニスもミレニスだろう。確かに、女であるよりも男であった方が何かと都合が良かったのかもしれない。何より、ミレニスはベルティエラから一人でリルアーテルにやって来たのだから、女では野党などに襲われる事もあったかもしれない。
とは言え、ここまで共に旅をしてきたのだから、一言、女だと告げてくれれば良かったものをと思うが、ミレニスの事だから何があろうとも口にはしなかっただろう。
第一、ランバルドにも口止めをしていたらしい事から、この先も明かす気など毛頭なかったという事だ。
「僕の話はどうでもいい。それで兄上、頼みがあるのだが。ここにいるスフィアは女神ヴェルミナと姿が似ている。今は服も酷似していて、このままでは外に出られない。用意してほしい」
頭からマントを被っているスフィアを指すと、一瞬、目を眇めたランバルドはすぐに笑みを浮かべて頷いた。
「いいだろう。今日は王宮内で過ごせ」
一礼をしてからミレニスはすぐに謁見の間を後にするので、リクス達も頭を下げて謁見の間から出る事となった。そのままミレニスの案内で辿り着いた部屋は、四つのベッドが置かれている広い部屋だった。豪奢過ぎない煌びやかな装飾が施されている室内。
メイスタッド王家の色が青なのだろうか。部屋は全体的に青く、白地とのコントラストが美しい。天蓋付きのベッドに腰掛けてみると、ふかふかとしている。
「わぁ、凄い。俺、こんなベッド初めて!」
「まるでロイヤルスイートだな。さすが王宮ってか」
ウィスタリア王城のベッドも柔らかかったが、このベッドは柔らかさに加えて弾力がある。どちらが心地良いかと訊かれたら、やはりメイスタッドの方だろうか。
「兄上は、眠りには特に拘っているのでな。王宮内は全て同じ物を使っている」
「そうなんだ」
軽く返事をし、それからリクスはミレニスの事を見つめる。各々、ベッドに腰掛けたり椅子に座ったりしているのだが、ミレニスは未だドアの傍の壁に体重を預け、腕組みしたまま立って難しい顔をしている。
そんなミレニスに、リクスは声を投げかけた。
「ねえ、ミレニス」
「何だ」
「ミレニスは、どうしてミレニスなの?」
唐突で突拍子もない質問に、眉を顰めたのはミレニスだけではなかった。
「リクス……さすがに俺も質問の意味が分からねえ」
「あ、えっと……さっき、イレイユはもういないって言ってたでしょ。それって、名前を捨てちゃったってこと?」
暫しの沈黙が降りる。ミレニスの眉間の皺は深く刻まれており、地雷を踏んでしまっただろうかとリクスは冷や汗をかいた。
この後に飛んでくるのは怒鳴り声だろうか。ミレニスの口が開いたのを見て身構えるリクスだったが、聞こえてきたのはドアをノックする音だった。そして、返事を待たずにドアは開く。
入って来たのは先程、王宮内まで案内してくれた侍女の女性だ。
「イレイユ様。お戻りになられているのでしたら、一言お声かけください」
「レティシア……」
入って来るなり、ドアのすぐ傍に居るミレニスを見つけたかと思うと静かながら詰め寄るように声をかけてくる侍女の女性に、ミレニスはたじたじの様子だ。
「僕はミレニスだと言っただろう」
「まあまあ、そのような言葉遣いなど、はしたない。姫以前に、レディとしてなっていませんよ」
「だから、僕はミレニスであってイレイユではないと――」
「それでも、貴女はイレイユ・メイスタッド様です。例え、名を変えようともそれは変わりません」
穏やかな表情で、しっかりとミレニスを見たまま告げるレティシアという侍女。全く揺らがない瞳。
「名というものは、初めて与えてもらう大切なものです。それが、誰にどのような理由でつけてもらったとしても、捨ててはいけません」
ふと、リクスの視線がメルヴィーナへと向いた。大聖堂を出た後にエレウテリア内で聞いた話が本当だとするなら、メルヴィーナは自分の名を忌み嫌っているだろうか。名を呼ばれる事、それ自体に嫌悪しているだろうか。
表情が曇っているという以外に、メルヴィーナから何かを読み取る事は出来なかった。
「分かった、もういい。イレイユという名は、お前がつけてくれた名だ。捨てるなど、馬鹿な事はしない」
照れ隠しか、気まずさからか。顔を背けるミレニスに、レティシアは目尻に皺を寄せて優しい笑みを浮かべている。
会話から察するに、ミレニスを育てた侍女なのだろう。心配の仕方、世話の焼き方が普通のメイドとは違って見える。乳母に当たる人物だといってもいいのではないだろうか。
「では、イレイユ様。お召し替えをしましょう。イレイユ様の為に誂えたドレスをご用意しております」
「なっ、ドレスなど着る筈がないだろう!」
「とても良くお似合いになると思いますよ」
「しつこい! 僕の事より、スフィアの方が先だ。用意は済んでいるのだろうな」
「勿論で御座います。別室に沢山ご用意していますよ。よろしければ、女性の皆様でどうぞ」
幾ら怒鳴られようとも冷たくあしらわれようとも、全く態度も表情も変えないレティシアは、さすがミレニスに長年仕えていた侍女というところ。それに比べてミレニスは、他に誘導する事に必死で余裕がなく、数回やり取りをかわしただけで息が上がり、肩が上下している。
女性の皆様と言って、スフィア、メルヴィーナ、そしてディラルドを連れて出て行ったレティシアには恐らく、ディラルドの否定の言葉など聞こえていなかっただろう。ミレニスも共に連れ出されようとしていたのだが、行けばドレスを着させられると思ったのか、断固として拒否をしていた。
レティシアが居なくなった事で、ミレニスはフラフラとベッドに近付くと脱力するように腰掛け、そのまま背中から上半身もベッドに預けてしまった。
「珍しいな、お前がそんなになるなんて」
「煩い。僕は今、気が立っている」
「見りゃ判るって」
「やっぱり、ミレニスの育ての親だから?」
リクスの言葉に少しだけミレニスは目を伏せる。
「……昔から、レティシアには頭が上がらない。育ててくれたのは確かにレティシアだからな。名も、気に入っている」
それは、イレイユという名の事。
名を捨てたと言うのも、イレイユはもう居ないという言葉も、本心からのものではない。
けれどそれ以上の事をミレニスは話そうとはしなかった。訊きたいけれど、今はそれ以上踏み込む事を拒んでいるように見えたので、リクスは話題を逸らした。
「あ、そう言えばミレニスってお姫様なんだよね。やっぱり、姫様って呼んだり、敬語使ったりした方がいいのかな?」
「リクス……そこまで僕を逆上させたいのか?」
「……何でもないです」
これまで聞いた事のないようなドスの利いた声と殺気に、リクスは冷や汗を浮かべながらミレニスから顔を背けた。目が合っていた訳でも、ここからミレニスの目が見える訳でもなかったというのに。
これ以上はミレニスの怒りが爆発しそうだ。敢えて逆鱗に触れる必要もない。
こうして部屋の中で黙っていてもただ時間が流れるだけだと、リクスは逃げるように部屋から出て行った。王宮から出なければいいとミレニスから許可はもらったので、リクス一人でも大丈夫だろう。
だから、キースはついて行く事をしなかった。
ドアが閉まり、ミレニスの寝転がっているベッドの隣のベッドに腰掛けているキースは、天井を仰いだまま口を開いた。
「なあ、ミレニス……いろいろ、悪かったな」
「何がだ」
未だ不機嫌そうな声。更に怒らせる結果になるかもしれないが、言っておいた方が良いと判断し、言葉を続ける。
「いや、その……男だと思ってたから、成りゆきとはいえ抱き締めたり、とか……」
不用意な事を沢山した気がする。今までの事を思い出してみれば、着替え中に部屋に入ったり、リクス・スフィアと同様に扱って持ち上げたり、間違えてベッドに入り込んだ事だってある。
ミレニスも思い当たる節があるのか、「ああ……」と気のない声を出している。
「男だと判っていて抱きしめた方が問題だと思うがな」
「……怒んねえの?」
「今更だろう。僕は、貴様らを騙していた事になる。責められる事があっても、責めるのは筋違いというものだ」
「それこそ、俺らの勘違いだからな、誰も責めたりしねえよ」
ミレニス自身も口にしていたが、男だと騙った事は一度もない。口調・言葉遣い・服装・容姿、それらで男だと決めつけたのはキース達だ。騙されたと思う事がすでに間違っている。
そして、男である事を否定しなかったのもミレニスだ。これまで、男だと思って接していたキースに対して、ミレニスは異性であるという事で勝手に怒っていただけなのだから、責め立てる道理もない。
そうして問答をしていて、二人は同時にプッと噴き出した。
「ハハッ! 何やってんだろうな、俺ら」
「確かに、くだらないな」
声を上げて笑うキースと、声を押し殺して笑うミレニス。
こうして笑い合うのは、初めてではないだろうか。これまで、ミレニスがこうして笑っているのを見た事もなかった。どうしても怒っている印象が強いが、ミレニスとて人間なのだから、笑えない事はなかった訳だ。
今まで我慢していたものが、隠し事が暴露された為に一気に解放されたのかもしれない。笑う事も、きっと我慢をしていたのだろう。もしかしたら、兄であるランバルドと、育ての親であるレティシアに会った事で緊張の糸が解かれたのかもしれない。
「こうして笑うのは、本当に久しいな」
天蓋を見上げながら、ミレニスが言葉を紡ぐ。
それは初めてミレニスから語られる、自らの事。だからキースは黙って聞く事にし、ミレニスの方を向いた。
「見ただろう、あの肖像画。あれが描かれて間もない頃だ。僕は、反乱軍に誘拐された。反王政派が過激化してな。すぐにメイスタッド軍が救出に来てくれたが、酷い惨劇だった。辺りは血で染まり、炎が轟々と燃え盛り、悲鳴と絶叫と怒号が飛び交う中で、僕は一人、何も出来ずに震えていた」
あの時の光景は今でも忘れない。目を閉じれば鮮明に蘇ってくる。反乱軍は一般人をも巻き込み反撃に出ていて、それは地獄絵図のようだった。
何も出来ず、ただ震えている事しか出来なかった。目の前で次々に人が殺されていくというのに、何も出来ない現実に涙が溢れた。その惨劇を引き起こしたのはミレニスだ。それなのに見ている事しか出来ないなんて、その時ばかりは無力さを呪った。
「だから僕は、何も出来ない姫である事をやめ、身なりから変えた。兄上とシヴァに武術を習い、ミレニスとなったんだ」
「つまり、姫と同時に、イレイユという名も女であることも笑顔も封印したってことか」
「強くなる為には、半端な覚悟では望めなかった。ミレニスという別人になる他なかったんだ」
今までの自分を変える為に別の人間になる。確かにそれが一番手っ取り早く、良い方法だったのかもしれない。しかし、自分が自分であるという事を全て捨てて別人になるなど、そう簡単に出来るだろうか。
否、簡単ではなかった筈だ。
肖像画の年齢は恐らく、七、八歳くらいだ。十年近く別人として生きてきたからこそ、今のミレニスがあるのだろう。
「後悔してるのか?」
「いいや。何もさせてもらえなかったイレイユの時より、任せてもらえる今の方が充実している」
「そっか。なら、良かったな」
「……ああ」
ミレニスは、変わった事を後悔していない。それが知れただけで良かったと、キースは笑みを浮かべた。
少しずつ、いろいろな感情を取り戻していってほしいと。
レティシアに連れられて別室へとやって来たスフィア達は、女性用の衣装がずらりと並べられている部屋に居た。様々な種類の、色とりどりの服にスフィアの目はキラキラと輝いている。
「凄いですね……」
「スフィア、キラキラ好き!」
どうやらスフィアの目には、ここにある服達は輝いて見えるらしい。煌びやかなドレスから可愛らしい普段着まで本当に様々で、男であるディラルドも思わず見入ってしまっている。キャッキャとはしゃぎながら服を選んでいる様は女の子同士のそれで、遠巻きに見ているメルヴィーナは思わず笑ってしまった。
自分よりもディラルドの方が、よほど女の子らしいではないかと。
スフィア達の事を微笑ましそうに見ていたレティシアは、そんなメルヴィーナを見上げていて、その視線に気付くとメルヴィーナはレティシアを見返した。
「アタシが、どうかしたのかい?」
「珍しい髪色だと思ったものですから」
「ああ、生まれつきさ」
「そう……苦労、なさったのかしら」
「え?」
意図が理解できずに訊き返すと、口に出してしまったかしらとレティシアは驚いたように口を押え、それから照れ隠しのように笑うと少しだけ目を伏せた。
「いえ。実は私の娘も赤髪なのよ。昔から赤は不吉だと言われているでしょう。だから貴女も、何かと言われたのかと思ったのよ」
血を連想させる赤が不吉だというのは、リルアーテルもベルティエラも変わらないという事だろう。赤髪の人間が存在しない訳ではないが、珍しいという事もあって、不吉とされているのかもしれない。
「まあ、苦労してないってこたないかね。けど笑ってればいつか、いいことあるって育てられたもんでね、アタシは気にしないことにしたのさ。アタシはアタシらしく生きる。自由っていいもんさ」
そう言ってニカッと笑うメルヴィーナは、晴れ渡る青空に輝く太陽のようだ。
それと同時に、大空を羽ばたく鳥が見えたような気がした。自由気ままに、風に乗って世界を飛び回る赤い鳥が。
「それは……素晴らしい人に育てて頂いたのね」
「ああ。最高の人間さ」
ラグナに出会ったからこそ、メルヴィーナはこうして生きていられる。自由にいられる。他の人間が育てていたならば、今の聖堂の神官達のようになっていたかもしれない。
だからこそ、自分だけはあの神官と同じような道は選ばないとメルヴィーナは決めた。染まらないと決めた。それが、育ててくれたラグナに対して出来る唯一の事だから。
暫し沈黙が降り、何となく気まずくなったメルヴィーナは壁から離れると、ずらりと服の並んだ中から一着の服を手にした。
「スッフィー、ディーちゃん、これなんかどうだい?」
そうしてスフィアとディラルドの服選びに参加するメルヴィーナ。わいわいとはしゃぐ様子を見ながら、レティシアは再び微笑みを浮かべ、メルヴィーナ同様に輪の中へと入って行った。
その頃、リクスは王宮内のとある通路に立っていた。支柱の通路に囲まれた中庭。そこには花が咲いている。ベルティエラに来て、空と海以外に見た自然だ。硬く分厚いザラザラとした葉をつけた薄紅色の花は、葉が不釣り合いなほど、可憐で美しい。
花畑とまではいかないが、それでもかなりの数が咲き乱れている。
「緑がなくても、花って咲くんだ……」
「その花は、水を必要としないのですよ」
聞こえてきた声に左の方を見ると、そこにはシヴァが立っていた。会釈をされ、リクスもつられるように頭を下げる。
「見ての通り、メイスタッドは砂の国。水の恩恵を受け難い為、植物は育ちません。この花は、ランバルド様が遠征に赴かれた際に、イレイユ様の為にと持ち帰ったものです」
「ランバルドさんがミレニスの為に……妹思いなんですね」
言いながら、リクスはキースとエレナの姿を思い出していた。エレナの為ならば、キースも同じような事をするのだろうなと。
「イレイユ様も昔はよく、ここで花を眺めていたものです。しかし、ミレニス様となられてからは、近寄る事もしなくなってしまった」
「どうして……?」
「恐らく、イレイユ様にとって大切なものだったからでしょう。ミレニス様となる事は、イレイユ様の全てを捨てる必要があったのです」
他の人間になる為には、大切な物も全て捨てなくてはならない。ミレニスがミレニスとなった理由をリクスは知らないけれど、女としてではなく、男として生きていく事を決めたというのは何となく分かるような気がした。
ミレニスは、弱い者、小さい者として扱われる事を何より嫌う。女のようだと言われる事もだ。もしかしたら、ミレニスがイレイユではなくミレニスとして生きようと思った事に繋がっているのかもしれないと思った。
「シヴァさんはミレニスに、イレイユ姫に戻ってもらいたいんですか?」
何となく感じた事を率直に訊ねてみると、シヴァは困ったように苦笑を浮かべた。
答えたくはないのか、答える気はないのか――リクスにはどちらか判断できなかったけれど、聞いてはいけない事のように感じた。
「リクス!」
そうして何とも言えない気まずさのような空気が流れていると、名を呼ぶスフィアの声が聞こえてきた。
スフィアはパタパタと嬉しそうにこちらへと駆けて来ていて、リクスの少し手前で足を止めた。
「服、もらうした」
服の中央部が紐で結ばれた、ホルターネックになっている白にピンクの淵の服。肩が出ている袖は腕輪のような形状をしている。マンダリンオレンジ色の肩紐の無いベアトップのワンピースは、ヴェルミナの服の下に着ていたものだろう。左右で高さの違うリボンを足に巻いていて、何だかその雰囲気はヴェルミナの服を着ていた時よりも神聖なものに見えた。
今のスフィアは、まるで荒れ地に咲く一輪の花のよう。
「スフィア……すっごく綺麗だよ」
言いながら、リクスの顔がカァーッと赤く染まっていく。あまりの可愛さに直視できなくなってしまったというところだろうか。
そんなリクスの反応にスフィアはキョトンとしながら首を傾げていて、ディラルドは微笑ましそうに笑い、メルヴィーナは初々しいねとニヤニヤ笑っていた。
その後、部屋へと戻るとレティシアからもらったという、ひらひらとした蝶のようなリボンでキースに髪を結ってもらったスフィアは、とても喜びはしゃいでいた。
やっといつものスフィアに戻ったような気がして、皆の空気が更に暖かく柔らかいものになったのを、リクスは感じていた。
これからまた、祭壇を廻る事になる。全ての祭壇を廻ったら、スフィアの記憶も全て蘇るだろうか。
もしそうなったとしても、もう迷わない。スフィアが苦しまなければ、それで良い。
今は、それで――――。