13 異変
翌日、神殿を廻る為にメイスタッド王宮を発った。レティシアには出る直前まであれやこれやと世話を焼かれていたミレニスだったのだが、それでも出る時には穏やかな笑顔で見送られていて、レティシアが新調してくれたマントを翻すミレニスは、照れていながらもどこか誇らしげに見えた。
メイスタッドを出て港からエレウテリアで海路を進んで行く。目指す場所は、地の神殿だ。
「地の神殿なのに、海にあるの?」
「ああ。船でなければ決して辿り着けない場所にある」
暫く進んで行くと陸が遠のき、ただの海が広がっている。本当にこんな海の真っ只中に地の神殿があるのだろうかと、段々と不安になってきたのだが、数時間後にそれは見えてきた。
「ここが極地の祭壇だ」
エレウテリアが停まり、画面一杯に映し出されているものを皆は見つめる。海中から伸びる、神殿の柱と同じ材質の白い階段。数段昇った先にある神殿は、見た感じ島などに建っているようには見えなかった。
そう、それはまるで海の上に浮かんでいるよう。リクス達は四度目になる神殿だった。
階段に横付けをし、エレウテリアから降りるとそのまま階段を上って神殿の内部へと入って行った。
「やっぱり、神殿は普通じゃないね」
「洞窟に森ってどうなってんだよ」
人の手などまるで入っていないかのようにゴツゴツとした岩がむき出しの洞窟内は、あちこちに草が生え、狭苦しそうに樹が曲がって生えている。樹の根が張っている地面は凸凹としていてとても歩き辛い。洞窟の幅も高さも狭いという印象はないのだが、草木が生えているせいか、一番長身のキースがギリギリ通れる高さに、二人並ぶのがやっとという幅しかなくなっていた。
その為、先頭をリクスとスフィア、その後をメルヴィーナとディラルド、後方をキースとミレニスが歩いている。大小のペアで歩いていれば、狭い道でも少しばかり余裕が出来ている。
「ねえ、ミレニス、ディラルド。この光ってる石は何?」
前を歩いているリクスが、道の途中に幾つも埋まっている仄かにオレンジ色に光る石について、知っていそうな二人に視線を向けて訊ねた。
「この石はルキオラです。リルアーテルでも、灯りとして使われている鉱石ですよ」
「地の神殿には自生しているらしくてな、こうして灯の代わりをしている」
「ルキオラは自ら光を発していて、十年は光り続けると言われています」
「へぇ」
ベルティエラの人間だからとミレニスにも訊ねたのだが、やはり、知識はディラルドの方が上らしい。知識量で言えば、博士であるディラルドには敵わないという事なのだろう。
歩いている一本道はクネクネと曲がりくねっていて、まるでモグラの巣の中にでもいるかのようだった。
どれ程の距離を歩いたのか、今はどの方角を向いているのか、どのくらいの時間を歩いたのか、その総てを知る術はなかったが、やがてその場所へと辿り着いた。
洞窟を抜けた先には最奥である広場と崖があり、崖の先には巨大な岩の塊が浮かんでいる。
スフィアが先端に立つと、地面に円形の地の紋章が描き出され橙色に光り輝いた。直後、地鳴りのような音が響き渡ったかと思うと岩が砕ける中から分厚い白い石で出来た板が伸びてきて崖の先端に結合し、板に水平に亀裂が入ると上部分が、板と同様の石で出来た石柱に押し上げられて垂直に上がっていく。石の板は三メートルほどの高さに達すると重い音を立てて止まり、岩は全て砕け散り紋章も消えた。
石で出来た通路を進んで行けば、台座と四本の支柱があり、中央部に橙色の大きな宝石をあしらった、装飾の施された十字架がその中心に浮いている。
台座の周りには溝がありメイスタッドのように砂が引かれていて、薄暗いこの場を十字架についている宝石が淡く光っている事で照らし出している。
極地の祭壇。世界の最果てにある祭壇は、まさに極地。
銀色の髪を靡かせながら台座に乗り、自分よりも大きな十字架の中央部に埋め込まれた宝石に手を伸ばし、そっと触れた。
瞬間、淡い橙色の光が宝石からすぅっと出てきたかと思うとスフィアの胸の前で停滞し、スフィアは橙色の光を両手で包み込み、目を閉じると光はスフィアの体を包み込み、砂塵が巻き起こる。
「賢き猫が地を奔る」
言葉に呼応するように砂塵はすぐに止み、スフィアを包んでいた光が弾け霧散すればスフィアはスッと目を開け振り返ったのだが、キョロキョロとしながら辺りを見回し、そして自分の着ている服を見ては首を傾げている。
「スフィア、どうかしたの?」
「服……」
「いつもの服じゃないから、違和感があるのかもな」
昨日はあんなにはしゃいでいたのに。しかし、突然変わった服に慣れないのも仕方がないのかもしれないと思う。着慣れている服の方が、やはり良いのだろう。
「それで、何か思い出せた?」
「あ、うん。セレネ、いるした」
「セレネ?」
「いつも一緒、いるした人」
恐らくは、思い出した記憶の中にいつも出てきていた女性の事だろう。その人物は、セレネという名なのだと。
「じゃあ、セレネさんっていう人に会えれば、スフィアは帰れるんだね」
これで一歩、進む事が出来る。今まで、何も得られなかったスフィアに関しての情報がこうして得られた事で、何かが変わるのかもしれないと思った。
そう思った時だった。ディラルドのブレスレットに埋め込まれている白いブランカコアが強い光を発して辺りが白に包まれた。光が消えて目を開ければ、台座の上にあった十字架はなくなり、代わりに奥へと続く道が出現した。
「今のって、ラディウスの……」
「そうだと思います。けれど、どうして……」
「とにかく、行ってみたら判るんじゃないかい」
ニコッと笑いながら言うメルヴィーナの言葉は、楽観的だが的を射ている為、皆は出現した奥への道を進んで行き最奥の更に奥へと入った。そこには火の神殿で見たのと同じような空間が広がっている。
違うのは、大量のルキオラで照らされているという事と、植物の弦が壁に張り巡らされているという事。
ブレスレットに埋め込まれた橙色の宝石を十字架に向けているディラルドは、皆の前へ出て胸の前で握ると目を閉じる。
「我は主の代行者 我は願う 御身を我が前に!」
目を開けると、十字架の中心についている宝玉とディラルドの持っている橙色の石が淡く光を放ち、互いの光が中心に向かっていくと、橙色の光がぶつかった。すると橙色の光はそのまま床へと落ちていき、床に触れるとそこから芽が出、床のすぐ上で人間大ほどの巨大な蕾をつけると花が開いていく。
花の中には、巨大な猫が居た。クルガトワールと同じ装飾品が額につけられ、橙色の宝玉がキラリと光る。胴部分と足にも装飾品がつき、樹の根が張った胴体と、草のような体毛を持っている。二又の尻尾はしなやかな枝葉のようだ。
樹猫と呼ばれている、地の神獣――樹猫-アルフェーレス-。
【……誰】
谺するように響く、落ち着いた女性の声。
「僕は、ディラルド・エスティーダと言います。アルフェーレス、僕に力を貸して下さい」
【そう じゃあ 花を咲かせて】
アルフェーレスは、そう言うと尻尾の葉で床を叩いた。すると、触れた場所から植物の弦が床を這い、六つに枝分かれすると垂直に伸び始めた。
そして皆の腰の高さまで伸びるとその動きをピタリと止める。
弦の先端には蕾がついている。
火の神獣・クルガトワールの時と同じ展開という事は、今度の試練なのだろう。
試練に合格しなければ、誓契できないという事。つまり、花を咲かせなければ先に進む事は出来ないという事だ。
「花を咲かせるとは、どういう……」
【そのままの意味よ 方法は任せるわ】
それ以上の事をアルフェーレスは告げる事無く、待っていたところでヒントは貰えそうにない。
「……とにかく、やってみようよ」
試行錯誤するにも、先ずは行動してみなければ始まらない。
だからリクスは蕾を両手で覆ってみた。どうすれば良いのかなど計り知れないが、アルフェーレスは任せると言っていた。もしかしたら、方法は自分達で見つけなければならないのではと思っての事だ。皆も、それに倣うように手で覆ってみる。
手を離して見ると、そこにあったのは蕾ではなく、純白の美しい花だった。
「さ、咲いた!」
「僕もです」
ディラルドの弦には、オレンジ色の花が咲いている。
メルヴィーナの蕾は赤い花を、キースの蕾は青い花を咲かせている。
「……仕方がない」
息をついたミレニスと、何だかよく分かっていないスフィアも花を両手で包み込んで目を閉じ、そしてすぐに目を開けて手を離して見れば、ミレニスの蕾は黄色い花を咲かせている。
しかし、スフィアの蕾だけは消えて無くなっていた。
「えっ? どういうこと?」
弦はあるのに、先端の蕾だけが綺麗さっぱり消えてしまっている。一体何がどうなったのかと、皆がスフィアの傍に集まった。
「何で、スフィアの蕾だけ……」
「いや、よく見ろ。花びらが透明なんだ」
近付いて見てみた事で判明したが、ルキオラの光を反射してキラキラと輝いている。それは咲き誇る花の形をしていて、確かに、そこに花として存在していた。光がなければ見る事は出来なかっただろう。
「へぇ。スッフィー凄いじゃん!」
「僕、透明な花なんて初めて見ました」
「やはり、スフィアは特別という事か」
祭壇へ行く為の道を出現させられるのも、今はスフィアしかいない。どういう原理で道が出来るのか解明されていない為に、スフィアの何に反応しているのかという事も、判明しないのだという事だった。ディラルドでさえもお手上げなのだと。
その様子を遠巻きに見ていたアルフェーレスだったが、話を遮るように口を開いた。
【まあいいわ 全員 咲かせたから合格よ 本質は見せてもらったわ カレンドラコアに誓いを立てて】
とにかく合格できたという事なので誓いを立てようと、ディラルドが再び橙色のコアに触れた時、白いコアから強い光が放たれ、光は形を成すと光の神獣・ラディウスへと変貌した。
「ラディウス……どうして」
何故このタイミングで出て来たのかとラディウスを見つめるディラルドだが、ラディウスがそれに答えるよりも早くアルフェーレスが声をかける。
【あら ラディウスじゃない コアで眠るなんてズルいわね】
【仕方がなかったのです 私たち神獣は 自らの意思で神殿から出ることはできないのですから】
神獣は神殿から世界中にマテリアを循環させている。だからこそ、常に神殿に居なくてはならず、神獣が神殿の外に出る事はないのだと、ディラルドも言っていた。
しかし、ラディウスはこうしてディラルドの許にいる。
【そう……やっぱり気のせいじゃないのね】
【そなたも感じましたか】
【地の神獣だもの 世界の変化は分かるわよ……そうね わたしも連れて行って頂戴】
言いながら、アルフェーレスは真っ直ぐにディラルドを見る。
しかし、ディラルドはどこか不安気な表情だ。
「あの、神獣が神殿を離れてしまっても良いんですか?」
世界に何らかの異変が起きるのではないかと、そこを危惧しているようだ。
【本当はダメよ でも そんなこと言ってる場合じゃないのよ それに 力をもらったから今は離れても平気な気がするの】
【世界に異変が起きています リルアーテルもベルティエラも このままでは崩壊してしまうでしょう】
「そんな……どうにかならないんですか!?」
【そなた達は このまま神殿巡りを続けて下さい いずれ 全ての神獣の力が必要になるでしょう】
そう言い残し、ラディウスは光になってブランカコアへと入っていった。
それを見届け、アルフェーレスから早く誓いを立ててという視線を受けた為に、ディラルドはすぐに橙色の宝石――カレンドラコアをアルフェーレスに向ける。
「我が名はディラルド・エスティーダ フェアトラークの資格を与えられし者 我が願いは主の願い、主の願いは世界の願い 我らに力と加護を与え賜え 我が生涯は主の為に」
【誓契成立ね】
花弁と葉がアルフェーレスの体を取り巻き、アルフェーレスの体が見えなくなると花弁と葉はカレンドラコアの中へと入っていき、コアの中に桃色の花が咲く。そして、祭壇上の十字架についている橙色の宝玉が、一度大きく煌いた。
これで、地の神獣との誓契も完了した。
来た道を戻り、神殿の外に出て階段を降り始めていると、リクスがぽつりと呟いた。
「世界が崩壊するって、どういうことだろう……」
それはラディウスが言っていた言葉。その言葉が、ずっと気になっていた。頭の中でグルグルと回っていて、離れない。
世界に起きているという異変は、何度も身を以て経験している。古都ノヴァーリスと、聖域ウィスタリア、そして大聖堂。
「異変は、メルクリウスだけではない。リルアーテルに砂漠があるだろう。火の神殿の影響かと思ったが、あそこは水の神殿の傍だという話だったな」
「うん。俺たち、水煙の祭壇に行ったから間違いないよ」
「本来、水のマテリアが強く作用している神殿近辺で砂漠化するというのは、有り得ない事だ」
神殿に近ければ近いほど影響を受けるというのが、マテリアの特徴であると言う。その為、神殿内部はマテリアを象徴しているような構造になっているのではないかというのが、これまで神殿を廻った中でミレニスが辿り着いた結論だった。
水の神殿は滝と川が流れ、風の神殿は竜巻によって風が吹き荒れ、火の神殿はマグマが滾り、光の神殿は光で溢れ、地の神殿は地面に覆われていた。
同じ考えだったのか、ディラルドはミレニスの言葉に頷き、言葉を引き継ぐ。
「そうですね。アクバール周辺の砂漠化は、未だ解明されてはいません。判明している事は、地のマテリアが異常に多く、水のマテリアが極めて少ないという事だけです。ここ十年程で砂漠が出来上がったという話ですよ」
十年、その単語にリクスはピクリと反応を示した。しかしそれでも、ミレニスとディラルドの話に口を挟むような事はせずに、黙ったまま二人の話に耳を傾ける。
「そして、メル。大聖堂は神官が持つエンブレムが無ければ入る事は叶わず、ただの氷山でしかないと言ったな」
「ああ、そうさ。聖域よりもたくさんの雪が降る。結界の中では光が降っていただろう? あれが外では雪なのさ」
「にしては、あんま寒くなかったけどな」
「恐らく、光の神殿の影響だろう。だが、そもそも雪が降るという事、それ自体がリルアーテルでは有り得ないと言っていい。火の神殿の影響で温暖な気候だからな」
確かに、リルアーテルに居て寒さを感じる事はない。実際、リクスもキースも半袖で、メルヴィーナに至っては袖がない。ディラルドは長袖ではあるが薄い生地の服だ。厚着をしているのはミレニスと、スフィアくらいなものだった。今のスフィアはメルヴィーナに負けないくらいの薄着なのだが。
メイスタッドは砂ばかりだったというのに、砂漠の中にあるアクバールのように暑いと感じる事はなく、むしろ風が吹くと少しばかりひんやりとしていた。メイスタッドは海に隣接した街だというのに、水ではなく砂が流れていたというのも、そう考えると妙だ。
「ここも、以前は陸地だった。この階段の先が見えるか」
海中から伸びているようにしか見えない階段の縁まで行って覗き込んで見ると、階段は水中深くまで伸びていて、その先に道らしきものが見えた。
「海面が上昇し始めたのも、十年程前だと聞いている。つまり、その頃から両世界は狂い始めたという事だろう」
十年前。
突如、その場の空気が重くなったような気がした。皆、その年に一体何があったのかと思案しているのだろうか。話は途切れ、しんと静まり返る。波の音だけが耳に届く中で、静寂を破ったのはメルヴィーナの明るい声だった。
「まっ、考えてたってわかるわけでもないし、そろそろ移動しないかい?」
「だな。ラディウスも神殿巡りは続けろって言ってたし、どうせだから次行こうぜ」
話ならば船の中でも出来るからと言う年上組の言葉に、このままここに居続ける理由などなかった為に皆はエレウテリアへと乗り込み、エレウテリアはメイスタッドとは別の方向へ向かって出発した。
暫く航行すると、メイスタッドと同じような港が見えてきた。ミレニスの話では、ベルティエラの港は皆、同じ造りになっているのだと言う。理由は、先程言っていた海面の上昇に伴ってという事だ。鉄の壁は、海の水が町に侵入しない様にする為。
港に停泊しエレウテリアを降りると港を横切ってすぐに鉄の壁を抜けた先には、石垣の街が広がっていた。フリントという街はメイスタッドと雰囲気がガラリと変わり、街は人が造った所なのだと再認識させられるようだった。
「ミレニス、次はどこに行くんだ?」
「距離はあるが、次は雷鳴の祭壇だ。街を二つほど通る。早くても五日後だな」
リルアーテルでも、祭壇同士は遠く離れていた。それはベルティエラでも変わらないという事だろう。
「あんまり遅くなると、レティシアさんが心配しちゃうね」
「レティシアは関係ないだろう!」
ふいっと顔を背けるミレニスは赤い顔をしているような気がした。あれもやはり、照れ隠しなのだろう。
それが判ると何だかおかしくなって、フフッとリクスは笑った。しかしすぐに、視線を感じて隣を歩くスフィアを見てみれば、スフィアがじっとこちらを見つめている。
「れてぃしあ?」
「ミレニスってば、レティシアさんに対してだけは素直だよね」
「れてぃしあ、人?」
「……え……?」
笑って細められていた目が、きちんと開いてスフィアの姿を捉える。リクスの顔に浮かべられた笑みは、すぐに引きつったものになった。
足は自然と止まり、立ち尽くすようにスフィアを見下ろす。
「何、言ってるの? レティシアさんだよ。スフィアのその服、選んでくれた人だよ」
耳に入ってきたリクスの言葉に、他の者達もその足を止め、振り返り静観している。けれども、スフィアの問いがいつもの無邪気な問いではないという事に皆が気付いていた。様子が、明らかにおかしい。
真っ直ぐにリクスの事を見つめ返すスフィア。
暫しの沈黙が訪れるかと思われたが、不意に、スフィアの金の目から雫が頬を伝って零れ落ちた。
涙を流すスフィアに戸惑い、あたふたとするリクスは声をかけようとして、けれども言葉は音にならなかった。
「スフィア……知るない……レティシア、知るない……」
ゆっくりと首を横に振りながら、眉を顰めて顔を歪ませながら、スフィアはただ涙を流した。
ポロポロと零れ落ちる涙に、リクスはただ見ている事しか出来ない。
呆然と立ち尽くすリクスと、ただ涙を流しているスフィアの二人に、それ以上どうする事も出来なくなった一行はとりあえず、街の宿屋に行く事にした。
部屋は二部屋とり、話をする為に奥の部屋へと入るとスフィアをベッドに座らせ、他の者達はその周囲にそれぞれ椅子に座ったり立ったまま壁に体重を預けたりして、スフィアが話し出すのを待っている。
しかし、一向に話をしようとしないスフィア。未だ、目には涙が溢れんばかりに溜まっている。
そのまま沈黙が続くかと思えたのだが、息を吐いたミレニスが口を開く。
「先程のスフィアの言葉から察するに、どうやらスフィアは記憶を失っているようだな。少なくとも、メイスタッドに来てからの記憶はないと思っていいだろう」
メイスタッドに入ってすぐにレティシアとは会っている為に、ミレニスの推測で合っている筈だ。
ミレニスが話し始めたからだろうか。話す気になったらしいスフィアが、ぽつりと言葉を漏らす。
「……ディラルド……スフィア、知るなかった……」
「え? 僕、ですか?」
コクンと頷くスフィア。
「スフィア、祭壇……イヤ」
「祭壇、か……スフィアは、十字架に触れた後に服を見て不思議がっていたな。あれは、服に違和感があった訳ではなく、突如、服が変わっていた事に驚いたという事か」
腕組みをしたまま呟かれたミレニスの言葉に、そう言えばとディラルドも口を開く。
「火砲の祭壇の時に、僕の事をじっと見ていました。あの時、戸惑っていたようにも思います。それもやはり、十字架に触れた後でした」
「水煙の祭壇でも、風韻の祭壇でも、今思えばスフィアの様子は違ってたな」
「つまり何かい? スッフィーの元の記憶が戻る代わりに、今の記憶が無くなっちまうってことかい」
ミレニス、ディラルド、キースの話を総合すると、そういう結論に至ってしまう。
そう考えているのはメルヴィーナだけではないという事を、その場の空気と皆の表情が物語っている。
ぎゅっと、椅子に座っているリクスが拳を握った。
「……ずっと、気になっていたことがある」
目を伏せながら、ミレニスが静かに言葉を紡ぐ。
「スフィアの記憶の事だ。スフィアの記憶は戻っているように感じる。だが、四つの祭壇を廻って得られた情報は唯一つ。セレネという女性と共に居たという事だけだ。それでもまだ、どこの誰かは判明していない。得られる情報が、あまりにも無価値だと思わないか」
確かに、これまでスフィアが十字架に触れて思い出した記憶は、あまりにも少ない。
《髪、黄緑、金いっぱい。スフィア見て楽しそう笑った。暖かい庭、スフィア、いた》
《スフィア、優しい人、一緒、遊んだ。髪、金、ふわふわ》
《スフィア、スプライト一緒いた。花、草、いっぱいあるとこ》
《セレネ、いるした。いつも一緒、いるした人》
今までスフィアが思い出したという話を全て纏めると、スプライトが飛んでいる暖かい庭で黄緑色や金色の髪の人達、そしてセレネという女性と遊んでいたと、ただそれだけの記憶だという事だ。
その情報を小分けにしていただけで、思い出した事はただ一つの風景だけという事になる。草花の咲いた暖かい庭。そこがどこかも一切、語られぬその記憶に一体、何の意味があるというのかと、ミレニスはそう言っている。
「何か、陰謀めいたものを感じるな。スフィアの記憶という餌を置き、祭壇を廻る事を誰かが意図的に仕組んだように思えてならない。お前達が祭壇を廻ろうと思ったきっかけは何だ」
「……俺たちは、フィエスタ近くの聖堂で、教えてもらったんだ。スフィアはキア・ソルーシュとして大聖堂に行かなきゃいけないって」
「また、聖職者か」
ミレニスの言葉にはトゲがある。
大聖堂での神官の事があるからだろう。そして、光の神獣・ラディウスの言葉も引っかかる所ではある。
「ずいぶんな言い草だね……って言いたいけど、アタシもレニの気持ちは分かるね。結局のところ、キア・ソルーシュっていうシステムも神官どもが作ったことだろうし」
確かに、メルヴィーナの言う事は正しいのかもしれない。今回の事、発端は神官や司祭であると言っていいだろうから。
それでも、納得できるかどうかは別の問題だ。
「でも、あの司祭様が、スフィアを死なせる為に大聖堂に行かせたなんて、信じられないよ。そんなことする人じゃないんだ。俺やフィエスタの子たちを、本当の子どものように可愛がってくれて……」
「リックーの言いたいことは分かる。それが、本来聖職者としてあるべき姿だからね。世界を慈しみ、民を愛し正しく導くっていうのが、ね」
「俺も信じらんねえけどな、そんな神官がスフィアにしたことを、俺らはハッキリ見てる……分かるだろ」
大聖堂で神官は確かにスフィアを殺そうとしていた。体内を巡るマテリアを全て搾取されて、無事で済む筈がない。それを承知の上でのスフィアへの仕打ち。あの時のスフィアの悲鳴も、姿も、忘れる事など出来ない。
スフィアを見れば、その時の事は憶えているらしく膝の上で両拳をぎゅっと握り、眉間に皺を寄せている。
あの神官も確かに聖職者なのだ。
解き伏せるように紡がれる言葉。それでも納得する事など出来なくて、拒絶するようにリクスは皆から視線を逸らした。メルヴィーナとキースの言葉は、頭では理解できる。それでも、心がその考えを拒んでいた。
そんなリクスにミレニスが声をかけようとしたのだが、それはディラルドの言葉に遮られた。
「では直接、訊いてみてはどうですか?」
「え……?」
驚いてディラルドを見やれば、ディラルドは落ち着いた笑みを浮かべている。
「考えて分からない事は、訊くしかないんです。人の考えならば尚更ですよ。どのみち、風と水の神獣に会う為にリルアーテルに行かなくてはなりませんから」
そこで一度、言葉を区切るとディラルドはスフィアへと視線を移す。
「風と水の祭壇にはすで行っているという事なので、十字架に触れる事はなく、スフィアさんの記憶が失われる事もありません。今一度、クルガトワールに会うというのもいいかもしれませんね」
それから皆を一度、見回す。何かを決意したように、真っ直ぐな目で。
「その間に、スフィアさんの記憶が消えてしまう原因を解明します。学者の僕に出来る事はそのくらいしかないので、必ず見つけ出してみせます」
そう言って、ディラルドは顔を上げて自分を見ているスフィアの前まで行くとしゃがみ、固く握られている手に自分の手を重ねてスフィアを見上げる。
「ですから、一緒に行きましょう」
ニッコリと笑うディラルドの笑顔に、スフィアの心に落ちた影が取り払われたかのように、二人の周囲の空気がほのぼのとしたものへと変わった。そしてスフィアも、ディラルドに負けない満面の笑みを浮かべた。
その姿に、スフィアの笑顔に、他の者達はやれやれといった表情になったが、やはりスフィアとディラルドはほんわかしているのが一番だと、笑みも零れていた。
唯一人、リクスを除いて。
その日は話している内に陽が暮れてしまった為に、そのまま宿屋で休む事になった。夜になって、スフィア、ミレニス、メルヴィーナの女性陣と、リクス、キース、ディラルドの男性陣で部屋を分け眠りについた。
しかし、リクスは一人、部屋を抜け出してバルコニーに佇んでいる。太陽がないせいか空気はとても冷たくて、澄んだ空気に星空がとても美しく輝いている。けれども星空を眺めている気分にはとてもなれなくて、手摺に置いた腕に顔を埋めていた。
「俺は……結局、何もしてあげられなかった……」
苦しんでいるスフィアにしてあげられる事など、何一つなかった。
スフィアを笑顔にしたのはディラルドで、自分は、キースやメルヴィーナに宥めてもらっていた。あの時リクスがするべきは、スフィアの不安を取り除く事だったというのに、自分の事で手一杯になっていた。スフィアの事よりも、フィエスタ近くの聖堂にいる司祭を弁護する事で頭がいっぱいになっていた。
それなのにスフィアの笑顔を見た時に、どうして自分の力ではないのかと後悔し、ディラルドに対して嫉妬のような感情を抱いていた。そんな自分に、嫌悪する。
「何で、俺……俺が、俺のせいなのに……」
強く握った拳。喰い込んだ爪に、血が滲んだ。
「思い詰めるのはよくねえぞ」
隣から、よく聞き慣れた声が聞こえてきた。先程まで一人だった筈なのに。そう思ったけれど、驚く事などしなかった。
「それと、自分を傷つけたところで意味ねえからな」
「……スフィアの痛みを、代われるわけじゃないもんね……判ってても、止められなかった。俺に出来ることが、見つからないんだ……」
「お前は……スフィアに、誓ったんじゃないのか」
「そうだね。それでも、何も見いだせない……俺がまだ、何も知らない子どもだから、よく、判らないんだ……」
埋めた顔が、腕からずり落ちる。話している内に段々と溢れてくるものが、もう止まらなかった。涙も、嗚咽も、気持ちも、何もかも。
行き場を無くし、上げられたままの右手をキースが握ってくれた。手のひらに滲んだ血がつく事も気にする事無く、強く、握ってくれた。
「何ができるかじゃねえよ。お前がしたいことをすればいい。その時できることを、できる奴がすればいいんだ。引け目を感じる必要なんてねえよ。だからこそ、今は泣いとけ。それで、いいんだからな」
自分に出来る事は未だによく判ってはいない。今まで村を出た事のなかった、外の世界を知らなかった十七の子どもに出来る事など、僅かな事でしかないのだから。
けれども、自分がしたい事なら嫌という程に理解している。自分の事なのだから、他の誰に分からなくとも、自分だけが理解している。
今はただ、自分の中に生まれた嫉妬と言う醜い感情を消し去りたい、後悔しか出来ない自分を責めたい、そんな事しか出来ない自分を許してあげたい。その思いを涙と嗚咽に変えて、リクスはキースの隣で泣き続けた。
窓から差し込む光に目が覚めた。
いつの間に戻って来たのだろうか。きちんとベッドの上で眠っていたらしい事にリクスは疑問を抱くものの、恐らくキースが運んでくれたのだろう。上半身を起こして部屋を見回そうと思った時、銀色の絹糸が陽の光で輝いているのが見えたのも束の間で、すぐに正面からの衝撃に見舞われた。
驚いて瞬きをするが、その人物はリクスの首に腕を回し、ぎゅっと強く抱きしめてくる。
「え、えっと……スフィア……?」
何故ここにいるのかという疑問と、どうして突然抱き着かれたのかという疑問と、もう大丈夫なのかという問いとが混ぜこぜになってしまっていて、言葉は音にはならなかった。
そして問いかけてはみたものの、スフィアは満面の笑みを浮かべながら更にリクスを抱き締めている力を強める。
「リクス、だーいすき!!」
一体、何がどうなっているのかとあたふたしながらも、その言葉と、声音と、抱き着いてくれているという行為に自然と笑みが零れた。スフィアと居ると心が安らぐ。ただ一言、大好きだと言ってくれただけで嬉しくて、悩んでいた自分が滑稽に思えた。
《その時できることを、できる奴がすればいい》
キースの言っていた言葉の意味を、今、漸く理解したような気がした。
だからリクスはスフィアの背に腕を回し、優しく抱きしめる。
「ありがとう、スフィア。俺も、スフィアのこと大好きだよ」
今は、これで良いのだろう。
ディラルドがスフィアを笑顔に出来たから、こうしてスフィアは笑っていられる。誰のおかげだろうと、笑顔になれたという事実だけで良いのだと、リクスは思った。
こうして笑い合えるだけで良い。それだけで、今は十分だ。




