1-5 地球防衛軍 (HAGE)のエース? 訓練の日々(2)
研究所の室内は、文系の典史にはそれが何の薬品かは判断できなかったが、少し鼻を衝くような匂いで充満していた。並んでいるのは、いくつかの実験台と、半透明のシリコンチューブがつながったガラス器具の数々。
その奥で、煌々と青白い光で照らされる事務机で何やらデータが並ぶパソコン画面に目を走らせる、ポニーテールの女性の後ろ姿があった。
「よう、レイミ―! 新しい仲間を紹介するぞ。斉藤典史クン――コードネームは『テンシ』だ」
「よ、よろしくお願いします」
キーボードから手を外し、こちらを振り返った女性。
ポニーテールが揺れ、研究用白衣の肩口に束になった髪がふわりと舞い降りた。
「おお、キミはあの歌自慢の番組で張り切っていた男だね! 私の“毛髪量”監視プログラムを学習したAIが、キミの毛髪の“不自然な増量”を感知したものだから――すぐに『組織』の力を使ってスカウトしたってわけさ」
――僕が監視されてた? スカウトされた??
そんな疑問を胸の内に抱えながらも、典史は一瞬で分かった。
眼光鋭く、溌剌豪快な美人オーラを身にまとってハキハキと話すこの女は、自分とは全く違う世界に居るということを。そして、私生活の部分では決して交わる部分など永久に発生しない、ということを――。
そんな彼の思いをわかっているのかいないのか、シャチョーはマジックの種明かしをする三流マジシャンのようにニヤリと笑って言った。
「彼女――コードネーム『レイミ―』の本職はね、敵の動きに関するレーダー解析と世界中から送られてくる画像の解析なんだ。本当は今も2階でモニターとにらめっこしてなきゃいけないんだけど……なぜか最近、ここでの抜け毛予防薬の開発に凝っていてね。あまり2階にはいないんだ」
「だって、この薬の開発は地球防衛のために大事なものなんでしょ? なんかこっちの方がおもしろくなっちゃって」
「おいおい、銚子クン! 冗談は困るよ。薬の開発は私の仕事だ。君は、その助手に過ぎない――」
「おい。今、私のこと――なんて呼んだ?」
「ん? 銚子クンと言っただけだが――し、しまったぁ!」
狼狽えるシャチョーに、ゆっくりと椅子から腰を上げて立ち上がった白衣姿のレイミ―がすごい形相で睨みつける。すらりとした高身長の彼女が、やや小柄なシャチョーを上から見下ろす。
そのすさまじい圧力でガタガタと震える体を懸命に制御しながら、シャチョーは喉の奥から言葉を絞り出した。
「す、すみませんでした。私が間違っておりました――柄神原 麗美さま!」
「ふむ……わかればよろしい。二度と間違うなよ」
「は、ハイッ!」
「キミも、今のことは忘れるように――テンシ君」
「はいっ!!」
二つの小気味良い返事に満足したレイミ―は、スッと穏やかな顔に戻った。
何故か自分まで怒られる羽目に陥ったことには疑問を感じながらも、事務机の椅子に彼女が座り直したそのときだった。まるで、今までため込んでいた何かを吐き出すように典史が言った。
「さっき、レイミーさんは僕を監視してスカウトした、って言ってましたよね? どういうことですか?」
なぜそんな分かり切ったこと訊く? といった顔をしてコードネーム「レイミ―」こと本名「千葉 銚子」、自称「柄神原 麗美」が彼の問いに答えた。
「キミ……まだ自分のことが解っていないようだね。キミの頭部に存在する『資質』が、この地球の平和を守るために必要だっていうことなのよ――血統的にもね。だからキミは、随分と前から我々組織に注目されていたの」
あれほどお金をかけて頑張った『増毛』の効果も薄くなり始めた典史の頭部をしげしげと眺めながら語る、レイミー。その横で、シャチョーがこくりこくりと頷いた。そんな二人の姿に反発した典史が、少し声を荒げた。
「世界中にあるカメラで監視してたんだったら、僕が大学4年の時に就職活動に困っていた頃にスカウトしてくれればよかったじゃないか! ホント、あのとき内定が決まらなくて困ってたんだよ」
「物事には良い頃合い――タイミングというものがあるのよ。っていうか、もしかして……シャチョー、まだ彼にウチの『戦士』の能力について話してないの?」
「……そういえば、まだ詳しくは話してなかったわ。だって、まだ彼の能力はポテンシャルのみで、そこまで話す必要はないと思ってたからさ……。わかった、あとできちんと話しておく……と、いうことでテンシ、レイミーとの顔合わせはこれまでということにしようか」
「あ、ハイ」
「レイミーも、あまりここに入り浸ってないで、画像解析の本来任務もぼちぼち頼むよ」
「はぁい、わかりましたぁ」
――全くわかってはいないな、この女。HAGE 日本支部、大丈夫か?
返事の内容とは裏腹、くるりと向き直ると椅子に座ってパソコンをいじりだすレイミーの姿に、典史は率直にそう思った。
肩をすくめたシャチョーに促され、典史は3階を後にする。
2階へと下る階段の途中――。
世界の終わりが近づいた、というくらい深刻な顔つきになったシャチョーが、千葉銚子――レイミーについて語りだした。
「あの娘はね……ホントに良い娘なんだよ。頭は切れるし、世界を守る気概もある。けれども……自分の名前のことになると性格がうって変わって、それはそれは恐ろしいんだ」
「ちばちょうこ、さんでしょ? 別に良い名前じゃないですか。なんで――あ、もしかしてちょうこさんの漢字って……」
「そうだ。千葉にある、あの町の名前と同じなんだよ。なんでも、戸籍登録のとき、千葉県出身のお父さんが、本当は『一兆円』の『兆』を書くはずだったのに、ついつい書き慣れた『銚子』の漢字を書き込んでしまったという都市伝説が千葉県にあるくらいなのだ」
「そ、そうだったんですね……でも、だからといって別名が柄神原麗美というのもちょっとやりすぎな気が‥…」
「だが、言っておく。このことは、我が組織以外、絶対に漏らしてはならない、国家機密並みのマル秘事項なのだ。もしもばらしたときは――ああ、怖い! 考えただけでも恐ろしい!!」
何やら過去のおぞましい記憶を思い出したらしく、身震いするシャチョー。
この国にはいろんなレベルの国家機密があることを、体感として学んだ典史である。
やがて、2階のサロン受付の前を通り過ぎようとした二人を、『ひーな』のやわらかな声が迎えた。
「おかえりなさーい。今日も相変わらず、暇でーす」
「おお、そうかね。それは結構、結構。じゃあ、奥で『テンシ』と話してるから、適当に受付しといてよ」
「了解でーす」
受付横のドアを抜け、事務所のソファーに対面で座るシャチョーと典史。
ぽそり、シャチョーがこぼした。
「いやあ……ひーなは、本当は凄腕でやり手の増毛カウンセラーなんだよ。ウチに勤めさせておくのはもったいないくらいさ」
「じゃあ、どうして雇ってるんですか。彼女はいわゆる『組織』の人間じゃないんでしょう?」
「それがな……」
シャチョーは、声のトーンとボリュームを数ランク落とすと、組織で足りない『毛髪カウンセラー』として、普通の一般社員としてひーなは雇ったのだが、HAGEの゛秘密の壁“の動くときの音があまりにも大きく、すぐに気づかれてしまったという経緯があることを説明した。
呆れ顔で、典史は肩をすくめる。
「そりゃあ、そうでしょ。音もそうだけど、あんだけ派手なネオン看板とかあったら、すぐにばれちゃいますよ」
「だから、今となってはもう、彼女を解雇できないのさ。この秘密を口外されては困るからな。ただ、もしも彼女がそれを口外してしまったときは……」
「しまったときは……?」
典史の喉がゴクリと鳴った。
と同時に、彼のお腹もぎゅるると鳴った。
「す、すみません。ちょっとトイレ行っていいですか? なんだか緊張でお腹の調子が悪くなったみたいです――というか、ここが地球を守る組織だなんてまだ理解できてないんですよ。……大きい方がしたくなっちゃいました」
「わかった。いいから、行ってこい。その後に、キミの果たすべき使命と得るべき能力について話をするよ」
「じゃあ、そうします!」
立ち上がりかけた典史に、シャチョーが思い出したように言う。
「ああ、そういえば、ここの奥の男子トイレだけど――」
「な、何ですか」
「それはな、ええと、隊長のマバラが――」
「ああ、ダメだ、間に合わなくなる。もう話をしている時間はありませんよ。あとで、それも教えてください」
「あ、そう? まあ、それならそれでもいいけど」
ソファーから立ち上がった典史が、駆け足で事務室の奥にあるトイレに向かう。
バタン、とトイレのドアが閉まった音を確認したシャチョーが、ぽそり呟く。
「あのトイレの“おしりシャワー“、マバラ隊長が『尻を洗うのに一般商品では勢いが足りぬ』と噴水出力を張り切ってパワーアップした特注品だから、『強さ』を最小くらいにしないと大変なことになるよ、って教えあげたかったんだけどな――まあ、いいか」
その数分後。
シャチョーは、トイレの扉を突き抜けて部屋中に響き渡るような、とんでもなく大きな悲鳴を聞いた。「あーあ、やっちまったか」と、シャチョーは念仏を唱えるように手を合わせた。
「ここのトイレ、どうなってるんだよッ。水の勢いが強すぎる! ケツに穴が開くかと思ったよ!!」
「いや、もう開いてるって……」
トイレから出て来るなり真っ赤な顔をして苦情を申し立てる典史に、シャチョーは冷静な表情でそう応えた。




