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第1章:理系学生、経済に触れる【転】

第1章:理系学生、経済に触れる【転】


「でもね、ボク」

 叔父はマグカップを置き、モニターの画面を、ある特定の日のチャートに切り替えた。

『2024年8月5日』。

そこには、日経平均株価が過去最大の下落幅を記録し、米国のVIX指数が垂直に跳ね上がった、狂乱の記録が刻まれていた。


「この日の日中、VIXは一時『65.73』という、歴史的な異常値を叩き出した。

リーマン・ショックやパンデミックに匹敵するパニックだ。

でも、あとになって冷静に分析してみると、この数字にはある種の『虚像』が混ざっていたことが分かったんだ」


「虚像? 数字が嘘をつくってこと?」

 ボクは身を乗り出した。理系の世界において、測定値は絶対だ。計器が壊れていない限り、そこにある数値は真実を指し示すはずだ。


「嘘というより、計器の仕組みそのものに脆弱性があったんだよ。ボク、VIX指数の数式を覚えているかな? さっきのレポートの1ページ目だ」


 叔父が指し示した数式には、複雑な積分記号とともに、ある変数が記されていた。

「ここで重要なのは、この Q(K_i) という記号だ。これはオプションの『取引価格』ではなく、『ミッド・クオート』……つまり、売り手と買い手が出している希望価格の中間値を指しているんだよ」



ボクはハッとした。実験室で使う精密天秤が、実際に乗せた物の重さではなく、天秤の周囲の空気の揺れ(気配)を拾って数値を表示してしまっているようなものか。


「通常、市場が健全に動いている時は、売り値と買い値の差、いわゆる『スプレッド』はごくわずかだ。でも、あの2024年8月5日のように、円キャリー取引の急激な解消と米国の雇用統計悪化が重なり、市場の流動性が一瞬で枯渇した時はどうなると思う?」


「流動性……生物学でいう血流が止まった状態?」


「その通り。血流が止まると、誰も怖がって適正な価格を提示できなくなる。

買い手は極端に低い値を出し、売り手は極端に高い値を出す。

すると、その中間値である『ミッド・クオート』は、実際の取引が成立していなくても、計算上だけで爆発的に膨れ上がってしまうんだ」


叔父は、国際決済銀行(BIS)が後に出した分析レポートを画面に映し出した。

そこには、あの日のVIX急騰の相当部分が、この『計算上のマジック』……つまり、流動性の低下によるスプレッドの拡大によって、実態以上に恐怖が増幅されて見えていた可能性が指摘されていた 。


「つまり、ボクたちは、壊れた温度計が示す『異常な高熱』を見て、さらにパニックになっていた、ということ?」


「そう。測定行為そのものが、測定対象である人々の心理をさらに乱してしまったんだ。量子力学の観測者効果みたいだね。ストラテジストたちは、この『数字の歪み』を見抜かなければならない。

もし数字だけを信じて、パニックの頂点で資産を全て投げ売りしてしまったら、その後の急速なリバウンドを取り逃がすことになるからね」


ボクは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


信頼していた「恐怖指数(VIX)」というものさし自体が、最も恐怖が必要な瞬間に狂ってしまう可能性があるなんて。


「さらに最近では、別の問題も起きている。**0DTE(当日満期オプション)**の台頭だ」


「ゼロディーティーイー。最近よく聞く単語だね」


「ああ。これは数時間後に満期を迎える、文字通りの超短期オプションだ。今やS&P500のオプション取引の半分以上をこれが占めている 。でも驚くべきことに、VIX指数の算出には、この0DTEは含まれていないんだよ」


「えっ? 一番取引されているものが、恐怖指数の計算に入っていないの?」


「VIXはあくまで『今後30日間』の期待変動を測るものだからね。でも、0DTEの取引が激増すると、マーケットメイカーという仲介業者がリスク調整のために現物株を猛烈に売買せざるを得なくなる。

『ガンマ・ヘッジ』と呼ばれる現象だ。そのせいで、日中の株価が激しく乱高下する。

VIXという温度計には現れないところで、市場という個体は、短期的で激しい痙攣けいれんを起こしているような状態なんだ」


叔父は、2025年4月の『Liberation Day(解放の日)』関税ショックの時のチャートも重ねて見せた 。


「この時はVIXが17未満から一気に50超までスパイクした。これは0DTEによる痙攣と、マクロ経済のファンダメンタルズの変化が共鳴した、本物の『多臓器不全』だった 。

数字が歪んでいるのか、それとも実体が本当に壊れているのか。

それを見極めるのが、今のストラテジストに求められる最も過酷な知性なんだ」



ボクは言葉を失った。

経済というシステムは、ボクが思っていたよりもずっと、脆くて、複雑で、そして人間臭い。

数式という冷徹な仮面の下で、不完全なデータと、それを見て右往左往する人間たちの生存本能が、泥臭く絡み合っているのだ。


「おじさん、だとしたら……。ボクたちは、何を信じればいいの?

 数字が信じられないなら、市場のどこに『真実』があるの?」

 ボクの問いに、叔父は今日一番の深い溜息をつき、それから少しだけ誇らしげに、デスクの奥にある一冊のノートを指差した。

それは、彼が30年間書き溜めてきた、あらゆる危機の記録だった。




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