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第3話 異世界生活にも進捗管理は必要です



 それにしても、この世界はいったい何なんだろう。


 焚き火の前にしゃがみ込み、昨夜の灰の中から熾火を探しながら、俺はここ数日ずっと頭の端へ追いやっていたその疑問をいよいよ見て見ぬふりできなくなっていた。生き延びることに必死だった最初の頃は、そんなことを考えている余裕が本当になかったのだ。起きて、水を確保して、火を守って、食べられそうなものを探して、日が傾く前に拠点へ戻る。まずはその繰り返しで一日が終わったし、終わるだけでも上出来だった。死なずに朝を迎えられた時点で花丸だと思っていたし、実際、いまでもその評価は間違っていない。


 ただ、七回どころかもう少し多く朝を迎え、生活がようやく「たまたま生き延びている」から「一応まわっている」くらいの段階へ移ってくると、空いた隙間へ別の疑問が入り込んでくる。


 俺はなぜここにいるのか。


 どんな仕組みでこの世界へ連れてこられたのか。


 どんな理由があって、右も左もわからないこんな辺境の地へ、会社帰りのスーツ姿のまま放り込まれたのか。


 異世界転生って、もっとこう何かあるんじゃないのか…?普通、もう少しイベントを挟まないだろうか。白い空間とか荘厳な神殿とか、やたら声のいい女神とか、「あなたは不遇な人生を送ったので第二の人生を授けましょう」みたいな前置きとか、そういう説明責任の一端くらいは果たしてくれてもよくないか。能力だってそうだ。ステータス画面、スキル一覧、チート魔法、収納空間、鑑定、言語理解、身体強化、農業補正、調理補正、せめてどれか一個くらいは初期特典として入っていてしかるべきだと思う。


 それが俺ときたら、顔はそのまま、服装もそのまま、荷物は財布と社員証と赤ペン、説明役ゼロ、目的不明、スタート地点は人里から遠そうな山奥である。雑にもほどがある。ソーシャルゲームのチュートリアルでも、もう少し丁寧に「まずはこちらをタップしてください」くらい言ってくれるぞ。こっちは死後という人生最大の仕様変更を食らっているのに、運営からのアナウンスが一切ない。お知らせもメンテ補填もない。ブラックだ。世界の運営会社がブラックすぎる。


「神さま、見てます?」


 灰を掘り返しながら、俺は空へ向かって言ってみる。


「この際、天使でも悪魔でも、営業担当でもいいんですけど、転生させるならもうちょっと説明してくれませんかね。こっち、利用規約読まずに新サービス登録させられたみたいな状態なんで、安心して遊べないんですよ」


 当然ながら返事はない。


 鳥の声がするだけだ。風が草を揺らしているだけだ。こういうときに、雲間から光が差して「山田勘太郎よ……」とか始まってくれたら多少は救われるのに、現実はずいぶん静かなものである。異世界なのに演出が地味だ。いや、静かな山の朝としては完璧なんだけれど、転生者側の事情に寄り添う気配はまるでない。


 俺は小さくため息をつき、灰の奥に残っていた赤い熱へ細枝を寄せた。


 じわ、と熱が移る。細い煙が立つ。息を吹きかけると、小さな炎が枝先へ移った。よし。今日も火はつながった。


 火が育つのを見ながら、もう一度思う。


 説明がないのは腹が立つ。


 能力がないのも不満だ。


 服装がスーツのままなのも納得いかない。


 案内役がいないのもどうかしている。


 もし俺にサバイバル知識がなかったら、本当に開始数日で終わっていた可能性が高い。山の中で火も起こせず、水辺の危険も知らず、寝床も作れず、植物へ迂闊に手を出して腹を壊し、夜の寒さと不安で体力を削り、どこかで力尽きていたかもしれない。そう考えるとこの異世界転生システムはザルどころの話ではない。安全管理会議へ出したら三分で差し戻されるレベルだ。


「まあ、文句言ってもどうにもならんか……」


 それが結論だった。


 愚痴は出る。かなり出る。もっとちゃんとやってくれと思う。死んだあとまでユーザーサポートが雑なのはさすがにひどい。けれど、どれだけ不満を述べたところで火起こしの手間が減るわけでもないし、魚が自動で焼けるわけでもないし、ヌメワニが就業規則を守るようになるわけでもない。


 愚痴を行動へ変換しなければ、この世界ではあっさり詰む。


 だったら、いま俺にできることを徹底するしかない。


 火の前で膝を抱えながら、俺はそこで思考の向きを切り替えた。


 もともと、俺はデータ分析そのものが好きだったわけではない。そういうと同業の人に怒られるかもしれないが、正直に言えば、「データ分析をしなければならない環境に常にいた」と言ったほうがずっと正確な実態に近い。数字を見ろ。売上を追え。先月比を出せ。競合を調べろ。市場を把握しろ。顧客の反応を分類しろ。上司の思いつきを裏づける資料を作れ。そういう圧の中で長く働いていると、好き嫌い以前に、情報を集め、整理し、優先順位をつけ、目の前の業務へ落とし込む癖が骨の髄まで染み込んでくる。


 パソコンに埋め尽くされたオフィスでやるか、棒と石しかない森でやるかの違いはあっても、理屈としてはたぶん変わらない。


 いま必要なのは、身の危険を遠ざけるためのあらゆる要素の排除と、森で生活していくための中長期プランの構築だ。


 短期的に達成できる目標を決める。


 日々の繰り返しで運用できるライフワークを確立する。


 足場を固める。


 そのうえで、少しずつ行動範囲を広げる。


 会社なら「年間目標から逆算した四半期計画と週次タスク管理」みたいな言い方をしていたところだ。異世界でやると急に仰々しい。けれど、やることは同じである。


「よし、棚卸ししよう」


 俺はそう呟いて、拠点の前に平たい石を一枚引き寄せ、その表面へ小枝で簡単な印をつけ始めた。文字は石へ残りにくい。紙もない。だからこれは記録というより、思考を見える化するための作業だ。頭の中だけで考えると、不安も願望も同じ強さで暴れ出す。目に見える形へ一度置くと、少しだけ扱いやすくなる。


 まず大項目を分ける。


 食料。


 水。


 火。


 寝床。


 防衛。


 探索。


 衛生。


 予備資源。


 この八つだ。


 書きながら、自分でもちょっと笑った。仕事か。完全に仕事だ。異世界サバイバルを前にして、なぜ俺は朝からタスク整理をしているのか。しかも妙に落ち着く。悲しい職業病である。いや、悲しいと言い切れないな。いまのところ、この癖にかなり救われている。


 食料。


 現在の主力は、ガラスエビ、石つぶ、きらきら、たまにずんぐり。加えて、ごく一部の安全確認できた植物。量としては日々の消費をかろうじて満たしているが、安定性に欠ける。雨天時や不漁時のバックアップが薄い。保存食も未整備。ここは改善が必要だ。


 水。


 湖と小川があり、困ってはいない。飲用後の体調不良もいまのところなし。ただし、長期的には煮沸やろ過の体制を整えたほうが安心。水汲みの効率も課題。いまは貝殻や葉を使ってちまちま運んでいるだけなので、容器の確保が急務だ。


 火。


 維持はかなり安定してきた。熾火の保存もおおむね成功している。ただし、雨天と強風時の対策が弱い。火口の備蓄、乾燥薪の在庫、雨除けの構造化が必要。火が死ぬと生活全体が一段階きつくなる。


 寝床。


 初期より大幅改善。風よけ、床材、位置取りは悪くない。とはいえ、本格的な雨や長雨への耐性が未知数。虫対策も不十分。寝具の清潔維持も課題。夜の冷え込みが今後どう変わるか不明なので、保温強化も検討。


 防衛。


 棒槍と石刃しかない。正直かなり不安。ヌメワニや夜吠え相手に積極戦闘は現実的でない。基本は遭遇回避と拠点防衛の補強が主になる。見張り位置の整備、逃走ルートの確認、火と煙を使った威嚇、音の出る仕掛けなどを考えたい。


 探索。


 生活圏の把握は進んだが、人里は未発見。今後は短距離の往復探索を増やし、尾根上の視点場や湖の反対側の確認を進める。ただし、魔物の気配が強いエリアは無理に踏み込まない。帰還可能性を最優先。


 衛生。


 ここが地味に深刻だ。風呂はない。衣類の洗浄も限定的。歯もかなり不安。爪、髭、傷口、寝床の清潔。体調が崩れてからでは遅い。水浴びの頻度、布の乾燥、傷薬代わりになる植物の検証が必要。


 予備資源。


 薪、火口、食料、石材、紐材、葉材。この備蓄が薄い日は精神的にも落ち着かない。常に一日二日ぶん余るくらいの在庫を持ちたい。企業で言えば安全在庫だ。異世界でも在庫切れは心にくる。


「……うん、見えてきたな」


 声に出した瞬間、頭の中で散っていた不安が少し整った。


 つまり俺は、いまの生活を偶然の連続から、運用可能な日常へ移行させなければならないのだ。短期目標と中長期目標を分ける必要がある。何でも一度にやろうとすると、仕事でもサバイバルでもだいたい失敗する。優先順位を誤ると足元から崩れる。


 短期目標はこうだ。


 一、火と薪の安定化。


 二、水運搬の効率化。


 三、食料の捕獲精度向上。


 四、寝床と防衛の強化。


 中期目標はこうなる。


 一、保存食の確立。


 二、簡易容器の製作。


 三、生活圏の拡大と高所観測点の固定化。


 四、人里探索のための装備整備。


 長期目標はもちろん、人里の発見と、この世界のルールの把握。ついでに、もし可能ならもう少し人間らしい食事と暮らしである。毎日貝とエビと魚だけだと、味覚も気分もやや荒む。


 そこまで考えたところで、俺はふと苦笑いした。


 会社員時代、上司から「山田くん、もっと主体的に中長期視点で動いて」と言われるたびに、「まずは今日投げられた仕事を片づけさせてくれ」と心の中で泣いていたのに、いまは異世界の岩陰で自発的に中長期プランを組んでいる。環境が人を変えるというか、追い詰められると計画性が育つというか、どちらにせよ状況としてはだいぶおかしい。


 よし、今日はこの計画に沿って動く。


 俺は朝食代わりに昨日の焼き魚の残りを少し食べ、水を飲んでから、まず薪集めへ向かった。


 火の安定化は最優先だ。なぜなら、火がなければ食料の安全性も下がるし、夜の不安も増すし、衛生面の余裕もなくなるからで、異世界暮らしの土台みたいなものはほとんど火にぶら下がっていると言っていい。どこかの文明論の本みたいな言い回しだが、実感として本当にそうだ。


 薪集めにも最近はルールを作っている。


 太さで三種類に分けるのだ。火種から炎を育てる細い枝、中継ぎの中枝、夜まで持たせる太枝。この三つが雑に混ざっていると使い勝手が悪い。会社でファイルサーバーの階層整理をしていたときと同じで、どこに何があるかぱっとわかる状態が精神衛生へ効く。


 尾根の下にある白皮の木の落枝ポイントへ向かい、乾いた枝を選びながら拾っていく。濡れた枝は重いし、叩くと鈍い音がする。乾いた枝は軽く、折ったときにぱきっと気持ちよく割れる。最近はその感覚も手に馴染んできた。異世界で身につけるスキルとしては地味すぎるが、役に立つことだけは間違いない。


 拾った薪は、長さをざっくり揃えて束ねる。紐材には白皮の樹皮を裂いたものと、蔓を乾かして作った細い帯を使う。強度は不安だが、一回運ぶぶんには十分だ。束を三つ作り、拠点へ持ち帰る。往復する間、頭の中では次の工程が動いている。薪の次は、水運搬の改善。その次は食料用の罠もどきの手直し。そのあと、寝床の入口へ音の出る仕掛けを試したい。


「なんか……普通に忙しいな」


 思わず漏れた。


 異世界スローライフという響きには、もっとこう、木陰で昼寝して、川で魚釣って、気が向いたら畑をいじって、夕方にのんびり鍋をつつくような穏やかさを期待していたところがある。現状は全然違う。管理項目が多い。やることが細かい。いちいち現場判断が必要。これ、ほとんど小規模事業所の立ち上げじゃないか。従業員一名、設備投資ほぼゼロ、顧客は自分、失敗時のペナルティは死。業務内容がシビアすぎる。


 薪を置いたあと、俺は水運搬のための容器づくりに取りかかった。


 理想は木をくり抜いた器や、焼き固めた土器のようなものだが、いきなりそこまでは無理だ。いま欲しいのは、とりあえず一度にもう少し水を持ち運べるもの。そこで目をつけたのが、でか葉と白皮の樹皮を組み合わせた簡易バッグだった。


 やっていることは単純で、幅広の葉を何枚か重ね、縁を樹皮紐で縫うようにつなぎ、底が浅い袋状になるよう折り込むだけである。工作としては子どもの自由研究のほうがよほど綺麗だろう。けれど、葉そのものが厚く、水を完全に通すわけではないことは雨受けで確認済みだ。短時間ならいけるかもしれない。


 試作一号は盛大に失敗した。


 水を入れた瞬間、底の合わせ目からじわっと漏れて、俺の膝を濡らした。ですよね。知ってた。いや、知ってたけど、もう少し夢を見せてほしかった。


 そこで、合わせ目の内側へ樹脂っぽいベタつく樹液を塗り込んでみる。以前、青皮の木の近くで手についたやつだ。べたべたして扱いにくいが、乾くと少し固まる。この世界のものなので毒性が怖い。食器に直接使うのは不安だが、水運搬用の外装シール材くらいなら試す価値はある。


 乾かしてから再度挑戦。


 今度は少しましだ。長時間は無理そうだが、湖から拠点まで急げば一回ぶんくらいは持ちそうだった。すばらしい。完全成功ではない。完璧とはほど遠い。けれど、「前より運べる」は立派な進歩だ。この積み重ねで生きているのだから、ここでは十分に価値がある。


「よし、仮運用開始」


 仕事の言葉が自然に出る。怖い。異世界に来てもなお「仮運用」という単語が口をついて出るあたり、社会人生活の爪痕は深い。


 次は食料だ。


 魚の捕獲精度を上げるため、湖畔の浅い入り江へ向かい、石の配置を見直す。以前作った追い込みは、魚が入りはするものの、出口が広くて逃げられやすいという欠点があった。なら、入口は広め、出口は狭め、奥は浅く。つまり魚が入りやすく、戻りにくい構造へ近づけたい。


 現代日本でサバイバル知識を仕入れていた頃、「石と流れを使った魚罠」という動画を何本も見た。見た。見たけれど、それをいま異世界の湖畔で実装しているのが信じられない。知識って本当にどこで役立つかわからないな。簿記三級よりこっちのほうが現時点ではだいぶ命を救っている。


 石を並べ替え、通路を狭め、水際に立って小魚の動きを観察する。昼の時間帯は警戒心が強いらしく、俺の影が伸びるだけで散りやすい。夕方のほうがいい。なら、この罠は夕方に本番を回すとして、日中は別の作業へ振ったほうが合理的だ。


 時間帯ごとの最適行動も、ここ数日で少しずつ見えてきた。


 朝は火の確認と水と採取。


 昼前は薪や資材集め。


 正午前後の暑い時間帯は、拠点作業や道具づくり。


 夕方は魚。


 日没前は防衛確認と火の準備。


 夜は極力動かない。


 こうして整理すると、完全に業務スケジュールである。午前会議、午後資料作成、夕方顧客対応、みたいなノリだ。違うのは、遅延の理由を「ヌメワニが出たため」と書けることくらいだろうか。いや、書く相手はいないんだけど。


 拠点へ戻った俺は、今度は防衛面の強化に取りかかった。


 戦って勝つつもりはない。そこはもうはっきりしている。いまの装備と身体能力では、小型の獣ならともかく、魔物クラスが本気で来たら正面からの対処は難しい。だから、狙うべきは「近づかれる前に気づく」と「近づかれにくくする」だ。


 まず、セーフハウスの入口周辺に、乾いた小枝と石を使った簡易の音鳴り帯を作る。獣道っぽい方向と、俺自身が普段あまり使わない側面に重点配置。踏めばぱきっと鳴る、あるいは石が転がって音がする程度の、ごく単純な仕掛けだ。それでも夜中に完全無音で近寄られるよりはずっとましである。


 さらに、入口の風よけを少し広げる。完全に閉じると出入りしにくいし、煙もこもる。だから正面は空けつつ、左右へ枝を斜めに組んで視線と突進を多少遮る形にする。防壁というより、ワンクッションだ。これだけで大型の魔物を止められるとは思っていない。けれど、相手が「よくわからないけど入りにくい」と感じてくれればそれでいい。


 作業しながら、俺は頭の中でさらに細かいタスクへ落としていく。


 本日中にやること。


 一、薪三束を乾燥場所へ固定。


 二、水袋もどきの耐久確認を兼ねた運用一回。


 三、魚罠の夕方テスト。


 四、入口の音鳴り帯完成。


 五、寝床の床材交換一部。


 今週中にやりたいこと。


 一、観測用の高台候補を二つに絞る。


 二、保存食用の干し台改良。


 三、尖った石刃の予備を増やす。


 四、手洗い用の水場と作業水場を分ける。


 五、夜に使う松明もどきを試作。


 すごいな。頭の中が完全にプロジェクトマネジメントだ。異世界へ来てもこうなるのか。会社員時代、タスク管理ツールへ期限付きで並んだ案件を見るたびに胃がきりきりしたものだが、いまはそれを自分で作っている。皮肉というか、たぶん俺はこういう「整理して進める」こと自体は嫌いじゃなかったのだろう。嫌だったのは、整理しても整理しても上から無限にタスクが降ってくる構造そのものだったのかもしれない。


 森は理不尽だ。危険も多い。けれど、少なくともタスクを増やしてくる部長はいない。


 そこはかなり大きい。


 昼が近づくころ、俺は一度作業を止め、湖畔で水を飲みながら休憩した。


 風が気持ちいい。空は高い。湖面は穏やかで、遠くの木々が水へ揺らいで映っている。静かだ。静かすぎるくらい静かだ。こうして座っていると、異世界に来たことも、魔物がいることも、スーツ姿で原始生活をしていることも、全部夢みたいに思えてくる。


「ほんと、なんなんだろうなあ……」


 また同じ疑問が戻ってくる。


 この世界には魔法があるのか。王国とか帝国とかあるのか。獣人やエルフやドワーフは存在するのか。貨幣経済はあるのか。言葉は通じるのか。そもそも俺は転生なのか転移なのか。死んだあとに来たのだから転生っぽい気もするが、見た目がそのままなら転移寄りでもある。用語の定義が曖昧だ。運営は仕様書を出してくれ。


 そういう疑問に答えてくれる相手が誰もいない現状では、推測しても限界がある。だったら、観察できる範囲の情報をまず積むしかない。世界の真理に手を伸ばす前に、今日の焚き火の燃料を確保しろ。ずいぶん地に足のついた態度だが、生きるにはその順番が正しい。


 午後、俺は寝床の床材を一部交換した。


 草や葉は便利だが、数日も使うと潰れ、湿り、匂いが変わる。衛生面でも気になるし、寝心地も悪くなる。最初の頃は「眠れれば何でもいい」と思っていたけれど、一週間以上続くと話は違う。睡眠の質が翌日の判断力へ響くことを、ここへ来て強く実感している。夜きちんと休めるかどうかで、朝の足取りも、刃物の扱いも、危険察知の感度も変わる。


 つまり寝床改善は贅沢ではなく業務効率化である。


 我ながら、生活のあらゆる要素を業務へ変換するのがうまくなってきた気がする。喜んでいいのか微妙だが、少なくとも役には立つ。


 床材を外へ出して日光へ当て、新しいしっとり草とでか葉を敷き直し、その上へ乾いた細枝を格子状に組んで空気層をつくる。完全なベッドには程遠い。けれど、体の下へ少しでも空間があるだけでだいぶ違う。実際、前より腰が楽だ。もし将来、人里へたどり着いて宿屋のベッドへ寝転がったら、俺はたぶん感動して泣くと思う。柔らかい布団ってそれくらい偉大だ。


 午後の終わりには、水袋もどきの実地運用も試した。


 葉の袋は、やはり長時間は厳しい。けれど、湖から拠点まで急いで運ぶぶんには十分だった。二往復で、いつもより明らかに多い水を確保できた。すばらしい。文明は少しずつ前進している。たぶん石器時代の誰かも、初めてまともに水を運べる容器を作れたときはこんな気分だったんじゃないか。違ったらすみません。でもかなりうれしい。


 夕方、魚罠のテストに向かう。


 日が傾き、湖面の光がやわらかくなる。小魚の動きも昼と変わる。浅瀬へ寄る群れが増え、石の影に集まる個体も見えた。俺はできるだけ水際での影を小さくし、じっと待つ。焦らない。いきなり飛び込むと全部逃げる。相手の動線を見る。入るか。まだか。あ、いま、ちょっと狭い通路へ寄った。


 石を一つ、静かに落とす。


 群れが散る。その一部が追い込みへ入る。よし。出口側へ回り込み、棒でそっと水を押す。浅くなった場所で、きらきらが跳ねた。俺は棒槍を振り下ろし――


 外した。


「くっ……!」


 でも、一匹がさらに奥へ逃げ損ねた。もう一度。今度は石で水際を塞ぎ、慌てる魚の進路を限定する。棒を突く。手応え。水しぶき。暴れる銀色。


「よっしゃあ!」


 思わず声が出た。


 一匹。小さいが一匹。十分だ。罠としては未完成でも、運用方法込みで成果が出るなら価値がある。成功率を少しずつ積み上げればいい。仕事でもそうだった。いきなり百点を狙うと心が折れる。六十点を七十点へ、七十点を八十点へ持っていく現実的な改善が、いちばん長く効く。


 魚を持ち帰り、火へかけながら、今日一日の成果を数える。


 薪、良し。


 水運搬、仮改善。


 防衛、少し強化。


 寝床、改善。


 魚、一匹確保。


 完璧ではない。予定どおりでもない。けれど、朝に立てたタスクの大半は達成できた。これは大きい。達成感というやつは、生き延びる意欲を意外としっかり支えてくれる。


 火の前へ座り、焼き上がった魚を眺める。


 空は暗くなり始めていた。木々の向こうが紫から藍へ沈み、湖の輪郭も少しずつ曖昧になっていく。夜が来る。夜はまだ怖い。音も気配も、昼よりずっと大きく感じる。それでも、以前のようにただ怯えるだけではなくなってきた。火があり、寝床があり、入口には小さな仕掛けがあり、明日のやることまでだいたい決まっている。


 それはたぶん、生活と呼んでいい段階だ。


「進捗、悪くないな」


 焼き魚をほぐしながら呟く。


 会社でそんなことを言うと、大抵そのあとに「じゃあ、追加でこれもお願い」と新しい案件が増えたものだった。異世界はその点ありがたい。追加案件を投げてくる上司はいない。代わりに夜吠えとかヌメワニがいる。どっちがいいかは少し悩む。いや、やっぱり上司付きの会議より、いまのほうがマシかもしれない。少なくとも、夜吠えは意味のない会議を三時間も延長しない。


 魚を食べ終え、火を少し太くし、俺は寝床の前で空を見上げた。


 木々の隙間に星が見える。多い。驚くほど多い。星座はわからない。見覚えのある並びもあるような、ないような、微妙な感じだ。異世界だから当然といえば当然だが、空まで知らない顔をしていると、あらためて自分が遠くへ来てしまったことを思い知らされる。


 ここはどんな世界なのか。


 俺はなぜここにいるのか。


 神は見ているのか。


 この先、誰かに会えるのか。


 答えはまだひとつもない。


 それでも、今日の俺には、答えの代わりにできることがある。


 火を守ること。


 眠ること。


 明日の薪を確保すること。


 高台を探すこと。


 生活圏を少しずつ広げること。


 目の前のタスクを積み上げて、知らない世界の中で自分の立ち位置を少しずつ固めていくこと。


 たぶん、会社でも異世界でも、生き延びるためにやることの本質はそこまで変わらないのだろう。違うのは、資料の提出先がなくて、数字の代わりに魚と薪が増えるところくらいで、むしろそのほうが成果が見えて気分がいい。


 入口の枝が風で鳴る。


 遠くで、夜の鳥らしき声が一度だけ響いた。


 俺は棒槍を手の届く位置へ置き、火の状態をもう一度確認してから寝床へ体を横たえた。


 進捗管理。タスク整理。短期目標と中長期プラン。社会人時代には息苦しさの象徴みたいに感じることも多かったそれらが、いまは妙に頼もしい。


 異世界生活にも、進捗管理は必要らしい。


 できれば次は会議室じゃなくてちゃんとした家がほしいけれど、その前にまずは明日の朝、また無事に火を起こすところから始めることにした。


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