第4話 焚き火の前で、仕事のことを考える
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焚き火は、いつの間にか生活の一部になっていた。
異世界へ来たばかりの頃は、とにかく火を絶やさないことだけで必死だった。灰の中に熱が残っているかどうかで一日の幸福度が決まり、夜の間に火が弱れば「終わったかもしれない」と本気で腹の底が冷えたし、逆に朝いちばんで小さな炎が立ち上がれば、それだけで「今日はまだやれる」と思えた。いまでもその感覚は変わらない。変わらないのだけれど、火を前にして座る時間が単なる作業の延長ではなくなってきたのも事実だった。
薪を足す。火の勢いを見る。魚や貝を焼く。暖を取る。火種を守る。
やることは実用そのものだ。それでも火というやつは、じっと眺めていると妙に考え事を引っ張り出してくる。オフィスの蛍光灯やパソコン画面にはない力がある。あっちは見続けるほど気力が削られたのに、こっちは見続けるほど頭の中に埋もれていた何かがじわじわ表へ浮かんでくる。
その日の夕方も、俺はセーフハウスの前で焚き火をいじりながらぼんやりと仕事のことを考えていた。
あれもこれも、生活が少しずつ回るようになったおかげかもしれない。最初の数日は、生き延びることに必死で余計なことを考える余裕なんてなかったからさ?
ぱち、と枝の先が割れる。
小さな火の粉が飛び、すぐに闇へ溶ける。
湖のほうから吹いてくる夜の風は少し冷たく、焚き火の熱はその冷たさを押し返しながら岩陰の前へ狭い円のようなぬくもりを作っていた。その円の外側は暗く、木々の輪郭がうっすらと見える。空を見上げれば綺麗な星が、頭上を切り裂く運河のように煌めいていた。どこかで夜吠えの声が聞こえてくる。さわさわと流れる風の音を拾いながら、不思議と頭の中は少しずつ静かになっていく。
…思えば、社会人として生活するようになってから、仕事って何なんだろうなと考える時間が増えていた気がする。
別に、学生の頃から意識が高かったわけではない。むしろ逆だ。俺は勉強もろくにしてこなかった。胸を張って言えることでもないが、事実だから仕方ない。中学や高校の頃から将来の夢が明確にあったわけでもないし、「こういう大人になりたい」という立派なビジョンを掲げてノートの端へ書いていた覚えもない。サッカー選手になりたいとか、医者になりたいとか、教師になりたいとか、そういう眩しい答えがすらすら出てくる同級生を見てすごいなあとは思っていた。思っていたが、自分には何もなかった。
朝起きて学校へ行って、授業を受けて、テスト前だけちょっと慌てて、友達とだらだらして、たまに部活やバイトをやってそのまま卒業していた。学生時代って、案外そういうものかもしれない。いや、ちゃんとしている人はちゃんとしていたんだろうけど、少なくとも俺は、ものすごく普通で、ものすごく流されるままにそこを通ってきた。
就職だって、熱い志があったわけじゃない。
そろそろ働かないとまずいな、親にも心配かけるし、周りもみんな就活してるし、どうせ働くなら正社員のほうがいいんだろうな、くらいの、だいぶぼんやりした理由だったと思う。いざ面接の場になると、誰だってそれなりのことを言う。「人と関わる仕事がしたい」「成長できる環境に魅力を感じた」「御社の事業内容に共感した」。あのへんの言葉の何割が本心で、何割が場に合わせたものかなんて、当時の俺には考える余裕すらなかった。
気がつけば学校を卒業していて、気がつけば働き始めていて、気がつけば二十代も半ばへ差しかかっていて、気がつけば「俺、このままでいいのかな」とたまに思う程度には社会人をやっていた。
そう考えると、平凡って何なんだろうなと思う。
平凡な社会人生活、と言葉にするのは簡単だ。けれどその中身をちゃんと説明しようとすると、意外と難しい。朝起きて会社へ行って、仕事をして、帰って寝る。休日は寝だめしたり動画を見たり、たまにキャンプへ行ったり、買い物したりして終わる。それだけ聞けばまあ普通だ。どこにでもいる、よくある大人の生活だと思う。
でも、その「普通」の中身はけっこう重い。
会社へ行けば、自分の都合だけでは片づかない仕事があり、客先の都合もあれば上司の都合もあり、締切もあるし数字もあるし、誰かの尻拭いみたいな案件もある。朝から晩まで全部が全部つらいわけじゃない。ちゃんとやり切れた日には少しだけ達成感もあるし、感謝されればうれしいし、資料がきれいにまとまったときは妙な満足感もある。それでも全体として見れば、決して楽ではなかった。
しかも俺のいた会社は、まあ、だいぶブラック寄りだった。
寄り、というか、かなりしっかりブラックだった気もする。残業は多い。急な差し込みは日常。上は「現場でなんとかして」と言い、現場は「いや無理でしょ」と言いながら結局なんとかする。休みの日までチャット通知が飛んでくるし、理不尽もかなり多かった。余計な仕事は増えるし、担当外の案件は飛んでくるし、「これ今日中で」と軽く言われたものがだいたい軽くないし、こっちのスケジュールがどうなっているかなど考慮されないまま次のタスクが積まれていくこともしょっちゅうだった。帰るころには頭が痛くなっていて、布団へ倒れ込んだ瞬間に意識が飛び、休日は身体を起こすだけで一仕事みたいな日も珍しくなかった。定時退社なんて都市伝説みたいなもんだ。新人の頃は「社会ってそういうものなのかな」と思っていたけど、数年もいるとそれなりに慣れてしまう自分がいた。慣れって怖いなって今更ながらに思う。終電で帰ることへ疑問を持たなくなった時点で、だいぶ危ない橋を渡っていた気がするが…
それでも最低限頼りにされるくらいには、バリバリ社会人をやっていた自覚はある。
いや、「バリバリ」という言葉の響きにちょっと語弊があるな。意識高くキャリアを積み上げていたわけではないし、仕事ができる男として社内報に載るような華もなかった。現実はもっと地味だ。「山田に振れば、文句は言うけど一応最後まで持っていく」「無茶な案件でも、なんだかんだで形にはする」「説明のための資料を作らせるとそこそこきれい」。そういう、組織の中に一人はいると便利な、ちょっと器用な中堅社員ポジションだったと思う。
ありがたいと言えばありがたい。頼りにされるのは悪い気分じゃない。若い頃は特に、「あ、俺って戦力なんだな」と実感できる瞬間が素直にうれしかった。
でも、何年もそのポジションで回しているとときどきわからなくなる。
俺は何のために仕事をしていたんだろう。
生活のため。もちろんそれは大前提だ。家賃を払う。飯を食う。スマホ代を払う。キャンプ道具を買う。病院へ行く。なんだかんだ生活には金がかかるし、社会の中で生きる以上、仕事をして対価を得るのは当たり前だ。
わかるよ?わかるんだけど、それだけじゃ少し寂しいなとも思う。
もっとこう前向きな理由があってもいいんじゃないかと、二十代の後半へ差しかかる頃から少しずつ考えるようになっていた。
誰かの役に立つとか、自分の成長につながるとか、仕事を通して何かを実現するとか、そういう就活の面接で口当たりよく語られる類の言葉を、社会人を何年もやったあとになってから逆輸入するみたいに俺はぽつぽつ考え始めていたのだと思う。
焚き火へ細い枝を差し込みながら、俺は苦笑いした。
「遅いんだよなあ、考え始めるのが」
もうすぐ三十路、という年齢が見えてきて初めて、仕事って何なんだろうと真面目に考える自分がいた。もっと早く考えろよという話ではある。学生の頃とか、新卒の頃とか、もうちょっと余裕のある時期に考えられたらよかったのかもしれない。けれどそんな余裕はなかった。というより、余裕を持たないまま流されるように働いていたから、ある程度年齢を重ねてようやく自分の立ち位置が見えてきたのだろう。
残業続きでヘトヘトではあった。
帰って寝るだけの毎日だった。
それでも、ニュースで景気の悪さやら倒産やら雇用不安やらを目にすると、「なんだかんだ仕事があるだけマシかな」と思う自分もいた。仕事の愚痴を言いながら、その仕事が途切れる未来までは望んでいない。昔は早く休日が来ないかなと思っていたし、いまでも休みはうれしい。だけど仕事に追われる日が続いていく中で、どうやったらこのタスクを乗り切れるか、どう順番を組み直せば今日を回せるか、どこを先に片づければ被害が少ないか、そういうことを嫌でも考える習慣がついてしまっていた。
いま思うと、あの習慣はかなり異常な環境で鍛えられたものだったのかもしれない。
でもその異常さが、いまの俺を助けている。
火を守る。
水を運ぶ。
魚を捕る。
寝床を乾かす。
薪の在庫を切らさない。
生活圏の危険を把握する。
次にやるべきことを並べ、優先順位をつけ、今日のうちに片づけるものと明日へ回していいものを分けていく。
これ、やっていることの本質は会社の仕事と大差ない気がするんだよな。もちろん、数字もパソコンも会議もないよ?でも代わりに魚と火と魔物がいる。ずいぶん極端な置き換わり方をしているが、それでも「限られたリソースで、必要なものを、必要な順番で回す」という意味では、妙に地続きなのだ。
だからなのかもしれない。
いまの生活が、けっこう楽しい。
しんどい。普通にしんどい。ちょっと気を抜いたら即ゲームオーバーになってもおかしくない環境で、毎日手は汚れるし、服はぼろぼろになるし、塩ひとつない食生活へ涙目になることもある。風呂に入れないのはかなりつらい。睡眠中に変な音がすると飛び起きるし、虫はいるし、衛生面の不安は常につきまとう。
それでも、楽しいのは楽しい。
それは間違いない。
会社にいた頃より、いまのほうがよほど毎日「生きてるな」と思える。
焚き火がぱちりと弾ける。赤い火の粉がふわりと浮いて、すぐ夜の空気へ溶けていく。
俺は膝を抱えながら、その火を眺めていた。
…仕事
……仕事がかあ
ある意味、社会人時代の俺は恵まれていたのかもしれない。
食べるものに困らない。寝る場所に困らない。決まった時間に起きる。会社から与えられた仕事をこなす。給料が入る。明日もだいたい同じように始まる。何度も言うけど、そりゃブラックもブラックだった。ヘトヘトにもなるし理不尽にもぶつかるし、「もう無理です」と心の中で叫びながらパソコンに向かう夜だっていくらでもあった。
でも考えてみれば、少なくとも生活の土台は保証されていたのだ。
会社のタスクをこなせなくても、その日のうちに明日が来なくなるわけじゃない。上司に怒られるかもしれないし、評価が下がるかもしれないし、胃は痛くなるかもしれない。けれど水が尽きて死ぬわけではない。火を起こせなくて凍えるわけでもない。寝床を確保できなくて雨に打たれるわけでもない。
いまは違う。
必要なことを必要なだけやらないと、本当に明日を迎えられない可能性がある。
その差は大きい。とてつもなく大きい。
会社での「今日の仕事が終わらない」は、そのまま命の危機へ直結しない。いまの俺の「今日の水を運ばない」「今日の火を維持しない」「今日の寝床を整えない」は、わりと真面目に致命傷へつながる。
なのに、どうしてこんなに気分が違うんだろう。
そこを考え始めると、いよいよややこしい。
会社の仕事には意味がなかったわけじゃない。あれはあれで誰かの生活とつながっていたし、世の中を回す一部だった。真面目な話、誰もが好きな仕事ばかりしていても世界は回らないだろうし、汗水垂らしてがむしゃらに働く人たちがいるからこそ、国の経済は回っていく。物流も、営業も、事務も、清掃も、工場も、インフラも、どこか一つ欠けたら日常はすぐほころぶ。俺だって、そういう巨大な仕組みの一部として働いていた。
だから、仕事というものを「やりたいことじゃないから意味がない」と切り捨てるのは違う気がする。
むしろ世の中の大半の仕事は、やりたいかどうかだけで成立していない。必要だから、誰かがやらなければならないから、仕組みを維持するために担われている。それをこなしている人たちがいるから、他の誰かが安心して暮らせる。そう考えると仕事ってもっと地味で、もっと現実的で、でもたぶんかなり大事なものなんだろう。
わかる。
わかるんだけどなあ、と、焚き火の前ではどうしても本音も出る。
「それでも、もうちょいこう……気持ちよく働きたかったよなあ……」
誰に向けるでもないぼやきが夜へ溶ける。
意味があることと、つらくないことは別だ。必要な仕事であることと、環境がまともであることも別だ。俺がやっていた仕事に意味があったとしても、残業まみれで体を削る必要まではなかったはずだし、もう少しちゃんと休めて、もう少しちゃんと感謝されて、もう少し人間らしい速度で回せたなら、見えていた景色も違ったかもしれない。
そのへんをうまく言葉にできないまま働いていたから、俺は「仕事が嫌なのか、仕事の仕方が嫌なのか」さえ、途中でよくわからなくなっていた気がする。
いまは、その違いが少しわかる。
ここでやっていることは、全部仕事みたいなものだ。生きるための仕事。誰からも命令されない代わりに、やらなければすぐ困る。しかも成果は明確だ。薪を拾えば火が長持ちする。寝床を直せばよく眠れる。魚を捕れば腹が膨れる。水を運べば安心して朝を迎えられる。入力と出力が、気持ち悪いくらいまっすぐつながっている。
そこが気持ちいいのかもしれない。
会社の仕事は、ときどきこのつながりが見えにくかった。資料を作る。会議をする。調整する。連絡する。数字をまとめる。どれも必要ではある。必要ではあるのに、最終的に何がどう良くなったのか、自分の一日が誰のどんな役に立ったのかが見えづらい日も多かった。努力の先にある結果が遠くて、しかも間にいろんな人の都合が挟まるから、やり切った感覚だけが薄くなっていく。
その点、異世界生活は容赦がないぶんわかりやすい。
今日は水を多めに運べた。うれしい。
今日は魚が二匹捕れた。かなりうれしい。
今日は寝床を乾かせた。夜が楽しみ。
今日は薪を切らさずに済んだ。明日も生きられそう。
喜びの単位が小さい。小さいけれど、その小ささが妙に濃いんだ。
俺は火のそばに置いていた細長いきらきらの干し魚もどきをひっくり返しながら、そんなことを考えていた。
干し魚もどき、というのは、昨日から試している保存食チャレンジの産物である。試しに小ぶりの魚を開いて、火から少し離れた場所で煙に当てつつ乾かしてみているのだが、これがなかなか難しい。近すぎると焼ける。遠すぎると生乾きで不安。時間もかかるし、虫対策も必要だ。現代の食品衛生基準で見たらたぶん真顔で止められる工程なのだけれど、いまはやれることを増やしていくしかない。
俺は魚の表面を指先でそっと押し、乾き具合を確かめた。
「うーん……まだちょっと怖いな」
食えなくはなさそうだが、保存食として信頼を置くにはもう少し工夫が必要だろう。やはり塩がほしい。塩があれば一気に話が変わるのに、この世界の塩事情がどうなっているのか何も知らないのが悔しい。岩塩とかないのかな。いや、そんな都合よく目の前にあったら苦労しないか。
焚き火へ薪を足しながら、俺はふと笑った。
会社で残業していた頃、こんなふうに一人で作業をしながら、自分の労働観についてしみじみ考える余裕なんてあっただろうか。たぶんなかった。時間もなかったし、疲れすぎていた。せいぜい「この修正何回目だよ」とか「早く帰りたい」とか「土日まであと何日」とか、そのへんの気持ちで頭がいっぱいだった気がする。
昔は本当に、早く休日が来ないかなあとばかり思っていた。
金曜の夜が近づくだけでちょっとだけ救われたし、三連休なんて聞くと数日前から心が軽くなった。休日に大した予定がなくても、ただ「会社へ行かなくていい」というだけで価値があった。休日が終わる日曜の夕方になると、急に気分が沈んだ。あの感覚は、名前をつけたらみんなわかってしまうタイプのやつだ。
だけど――
「嫌なことばっかじゃなかったんだよな、たぶん」
小さくそう言ってみる。
たぶん嫌だったのは、働くことそのものじゃない。
何のために働いているのかわからなくなりやすいことと、働くことの負荷に対して、報われた感じや納得感が薄かったことと、生活の主導権があまりにも自分の手元から離れていたこと、そのへんが重なってしんどかったのだと思う。
いまの俺は命の危険にさらされているくせに、生活の主導権はわりと自分の手元にある。
今日は何をするかを決めるのは俺だ。
薪を集めるか、魚を狙うか、高台を探すか、拠点を直すか、優先順位をつけるのも俺だ。
失敗したら困る。すごく困る。けれど少なくとも、自分で選んでいる感覚がしっかりある。
その違いは思っていた以上に大きいのかもしれない。
焚き火の光が揺れる中、俺は両手を火へかざした。
温かい。
この火は誰かが与えてくれたものじゃない。自分で起こし、自分で守り、自分で使っている。だから嬉しいのだと思う。めちゃくちゃ手間だけど、その手間をかけたぶんだけ生活の輪郭が自分のものになる感じがするんだ。
会社の仕事だって、本当はそういう感覚がもっとあれば違ったのかもしれない。自分がやったことが、ちゃんと自分の実感として返ってくるなら、人はもう少し納得して働けるのかもしれない。
いや、なんだこの結論。異世界の焚き火の前で労働論を深めてどうする。俺は評論家じゃないし、経済紙のコラムを書く予定もない。いま必要なのは魚を焦がさないことである。
「あっ、やば」
慌てて干し魚もどきを持ち上げる。少し端が焦げていた。危ない危ない。考え事に夢中になるとすぐこれだ。焚き火はロマンをくれる代わりに、目を離すと普通に実害も出す。
俺は干し魚を少し離れた位置へ移し、水をひと口飲んだ。
夜風が頬に当たる。湖のほうは暗くて見えにくい。遠くで鳥とも獣ともつかない声がした。異世界の夜は相変わらず静かなのに怖い。昼間は綺麗な景色として見られる森が、夜になると急に「こちら側の論理で暮らしていません」という顔をし始める。ヌメワニも夜吠えも、空を飛ぶやつも、たぶんこういう時間帯に元気なのだろう。
そう考えると、やはりいまの状況は全然安全じゃないっつーか、気を抜けないな…
そのとき入口のあたりで、小枝がぱきりと鳴った。
俺は反射的に棒槍へ手を伸ばした。
咄嗟に背中が固まって、思わず呼吸が浅くなる。火の音が急に遠く感じる。風か。小動物か。もっと大きい何かか。入口側へ視線を向けると、枝を組んだ簡易の風よけの向こうで草がわずかに揺れていた。
「……誰だよ」
自分でも、問いかけたところで返事が来るとは思っていない声色だった。
数秒待つ。
また、ぱき。
今度は軽い音だ。重い足取りではない。低く身構えたまま様子をうかがっていると、風よけの隙間から小さな影がぴょこんと跳ねた。ぴょこ角だ。耳の長い鹿と山羊の中間みたいなあの小型獣が、こっちを見ていた。目が丸い。警戒はしているが、完全に逃げる気配でもない。
「……なんだお前か」
気が抜ける。
ぴょこ角は俺と火を交互に見たあと、鼻をひくひくさせ、少しだけ近づいてきた。いや、近づくな。お前を食料候補として見ていないわけではないんだぞ。こっちの心を試すような距離感で来るな。かわいさは武器になるぞ。
しばらく見合っていたが、向こうは結局俺の持っている干し魚の匂いに興味を示しただけらしく、火がぱちりと大きく弾ける音がした瞬間、びくっと耳を跳ねさせて森へ逃げていった。
……危機ではなかった。
危機ではなかったのだけれど、心臓には悪い。入口の音鳴り帯、ちゃんと機能してるな。そこはよかった。よかったけど、夜の気配に対して一々この反応をしていたら心がもたない。
「はあ……」
棒槍を置きながら、大きく息を吐く。
火は相変わらず燃えている。危険ではなかった。ぴょこ角だった。かわいかった。たぶん、いまの一件も含めて、この生活なんだろう。静かな時間があって、考え事をして、急に緊張が走って、結局たいしたことなくて、でも気は抜けない。その繰り返し。
会社員時代の緊張とは質が違う。あちらは「メールの文面を間違えていないか」「会議で詰められないか」「締切に間に合うか」という、社会的には十分重いけれど直接噛みついてこない類の緊張だった。こちらは純度100%の物理だ。足音がすれば構える。夜の声が聞こえれば火を見る。明日の水と薪を気にしながら眠る。
つらさの種類は違う。単純比較はできない。できないけれど、少なくとも、いまの俺は自分の一日を「ちゃんと生きた」と思いながら眠れそうだった。
それは案外、貴重なことなのかもしれない。
俺は干し魚もどきを少しちぎって口へ放り込んだ。まだ微妙だ。保存食としての完成度は低い。味もよろしくない。噛めば噛むほど「塩……」という感情が募る。そこは今後の改善点だ。
「仕事も生活も、改善点だらけだなあ」
苦笑しながら、火へ最後の薪を一本足す。
改善点があるということは、まだやれることがあるということでもある。会社の仕事では、その改善が自分のためになっているのかよくわからなくなることがあった。ここでは違う。改善は、そのまま俺の明日へつながる。
だから、明日もまたやるしかない。
水を運ぶ。
薪を集める。
魚を捕る。
高台を探す。
人里へつながる何かを見つける。
その途中でまた仕事のことや、普通の生活のことや、自分が何をしたかったのかを考えるのだろう。
焚き火は静かに燃え続けていた。
その光の前で、俺はしばらく何も考えずに座っていた。考えすぎると頭が疲れるし、火を見ている時間はそれだけで少し心が落ち着く。社会人としての俺も、異世界で生き延びている俺も、たぶん根っこのところではそんなに変わっていない。ただ、いまのほうが、自分の手で自分の生活を回している実感がずっと濃いだけだ。
今の方が楽しいのは楽しい。
それは間違いない。
けれどその楽しさは、危険があること、明日が保証されていないこと、毎日必要なことを積み上げなければならないことの上へ成り立っている。
だからこそ、明日もまた気を抜かずにやろうと思えた。
仕事って何なんだろうな、という疑問に、きれいな答えはまだ出ていない。たぶん一生出ないのかもしれない。それでも、いまの俺には少なくとも一つだけ言えることがあった。
やるべきことをやって、明日につなげること。
その感覚があるだけで、働くことも、生きることも、少しだけ受け止めやすくなるのかもしれない。
火の温もりが残る手を見つめながら、俺はそっと寝床へ横になった。
夜の森は静かで、遠くで水の音がしていた。会社のタイムカードも、チャットの通知も、上司の声もここにはない。その代わり明日を迎えるための小さな仕事が、もういくつも頭の中で並び始めている。
それを面倒だと思わない自分が、少しだけおかしかった。




