第六章 二人の距離(5)
ふとした拍子に、龍時は眠りの中から目を覚ました。
この日、夏泉との最後の別れを行った龍時は、家に帰るなりすぐに寝てしまった。そのことを思い出した龍時は、次の日の準備を忘れていたため身体を起こそうとする。ベッドの横に置いてある時計は、午後十一時半を示していた。
次の日から、いつも通りの日常が龍時を待ち構えている。夏泉が死んだ後もそれに変わりはなく、龍時はそんな生活に戻っていた。
しかし、そんな日常への入り口に立たされた龍時は、今更になって違和感を覚えていた。
部屋は電気が消されており、置き時計の蛍光塗料と窓の外の街灯の光だけが、龍時の目に飛び込んできている。目だけを動かして部屋を見渡してみても、特に変化はなくいつも通りである。しかし、龍時はそんな部屋に不思議な感覚を覚えた。
違和感の一つとして、龍時には帰宅してから電気を消した覚えはなかった。ベッドに横になり、夏泉との記憶に浸りつつそのまま寝てしまったはずなのだ。
ただそのことに関しては、龍時が寝ぼけて消したという可能性がある。そのため、一概に何か変化があったと考えることは難しかった。
しかしそれでも、龍時は何か懐かしいものを感じていた。
「……龍時」
龍時が寝ぼけた頭で無意味とも思われることを考えていた時、突然龍時の耳に小さな声が届いてきた。聞き覚えのある優しい声である。
「……夏泉?」
どうして声を聞いて夏泉の名前が出たのか。ただ、その存在を求めるように、無意識の内に龍時は声を出していた。
「……龍時、久しぶり」
先程よりもやや声量が大きくなって声が届いてくる。龍時はその声を聞き逃さないように、目を見開いて脳を叩き起こし、耳を澄ませた。
次に反応したのは視覚だった。龍時は暗い部屋の中に立つ、一人の影を見つけたのである。見覚えのあるその影に龍時は絶句する。
「……なによ、その変なものを見たような目は?」
部屋に立っていたのは紛れもなく夏泉だった。
「夏泉……どうして?」
「最後に会いたかったから来たの。大好きな龍時にね。……嫌だった?」
「あ……いや……」
龍時は目の前の状況を理解することが出来ず、その場で人影を凝視する。ただ、部屋の暗さに慣れてきた龍時の目は、はっきりと夏泉を特定した。
「私は死んだわ。だから、今から行かないといけないの」
「……死んでるのか?」
「ええ。目の前で見てたでしょ?」
「それなら……どうして笑っている?」
夏泉の言葉と表情が一致していないことを、龍時は疑問に思った。普通ならば、自らの死など受け入れられるはずがないのだ。
「私も初めは何が起きたか分からなかったわ。でも、私の最期が龍時の近くで良かったと思ってる。離れるのは嫌だけど……でも仕方ないしね」
「何言ってんだよ!俺は嫌だ!」
龍時は必死になって身体を動かそうとする。今夏泉を抱きしめれば、もう一度夏泉と一緒に居られると思ったのだ。
しかし、龍時の身体は金縛りにあったように動かない。
「ごめんね、龍時。私まだいろいろ龍時に伝えたいことあったんだけど……」
「なんだよその言い方!言いたいことがあるなら今……!」
龍時は今が夜であることも忘れて大きな声で叫ぶ。ただ、夏泉はそんな龍時に答えてはくれなかった。
「私のお母さんから聞いたでしょ?私も龍時には普通の生活を送ってほしいと思ってる。龍時は優しくて格好いいから、きっと私よりもずっと良い人が見つかると思うわ」
「馬鹿言うなよ……!俺は夏泉じゃないと……」
龍時は縋るようにそう叫び、気付けば涙を流していた。夏泉はそんな龍時の涙を手で拭う。
「私は幸せだったわ。……それにこれ、龍時からのプレゼント。大切にするね」
夏泉はそう言って龍時の近くに寄ってくる。夏泉が首につけていたのは、龍時がクリスマスに夏泉に渡す予定だった赤と白のマフラーだった。
その夏泉の姿を見て、龍時の興奮は一気に引いていく。
「……すごく似合ってるよ」
夏泉との別れを惜しんでいた龍時だったが、脱力した声でそう呟く。一番辛い思いをしているのは夏泉である。龍時はそんな夏泉を困らせたくなかった。
「龍時のネクタイも良かったよ。ちゃんと付けてるところ見せてくれてありがとう。やっぱり格好良かったわ」
「……夏泉」
龍時は、夏泉も自分と同様涙を流していることに気付く。龍時はそんな夏泉を見ていられなくなった。
「……じゃあそろそろ行くね」
「………」
「時々龍時のことを見てるから、悪いことはしちゃダメだよ?私は龍時にとって、太陽と月になるんだから」
「………」
「あと最後に。新しく好きな人ができても気にしないで。それと、その人の前で私のことは話しちゃダメだよ?」
「……くそっ」
龍時は夏泉を引き止めたい気持ちを我慢していた。しかし、やはりどうにもならなかった。
「夏泉……好きだ……」
「うん、私も」
「夏泉の分も生きて、面白い話を持って会いに行くから」
「分かったわ。絶対ね。楽しみにしておくから」
龍時が聞いた夏泉の最後の言葉はこれだった。喜びに溢れていた夏泉の言葉を聞いた瞬間、龍時は突然の脱力感と共に気を失った。
龍時が目を覚ましたのは、いつも起きる時間とほぼ変わらなかった。龍時は一度周囲を見渡してから、すぐに夏泉のことを思い出す。そして、龍時は急いで夏泉の姿を探した。
しかし、夏泉がこの部屋にいた痕跡は何一つなく、部屋の灯りが弱々しく部屋を照らしているだけだった。
目が覚めた瞬間、龍時は間違いなく夏泉と会うことができたと信じて疑わなかった。しかし時間が経つと、その記憶が正しいものなのか分からなくなっていく。龍時はそれが嫌で、ひたすら夏泉と共有した時間を覚えている限り紙に書き綴った。
夏泉がいない世界は、龍時にとってひどく無意味で淡白なものである。しかし、夏泉と交わした約束は龍時が生きる理由となった。
龍時がこれから経験することは、そのほとんどが夏泉も共に経験するはずだったことである。それをいつか夏泉に伝えるため、龍時は生きることにした。
夏泉がいなくなった今でも、龍時には夏泉の生きた証が残っている。それは勿論、夏泉が龍時に伝えた感情のことである。これから龍時が生きていく上で、必要不可欠な武器と言っても過言ではない。
夏泉は今でも、龍時と共に生きていた。




