第六章 二人の距離(3)
「明石さんですね?夏泉の母の神戸摩耶です」
龍時がスーツ姿に紙袋を持って所定の場所で待っていると、一人の女性が龍時に話しかけてくる。その女性こそが夏泉の母親である摩耶だった。
「こんにちは、明石龍時といいます。以前は……」
「あっ、詳しいことは家でいいかな?」
「……はい。すみません」
「謝らなくていいわ。じゃあこっち来て」
摩耶は夏泉の母親だけあって、どこかでモデルをしているのではと思わせるほど、綺麗な女性だった。今日着ている服も、龍時のように堅苦しいものではない。
龍時は摩耶に連れられてタクシー乗り場までやってくる。摩耶が運転手に一言行き先を伝えると、タクシーは静かに動き出した。
タクシーはおよそ十分ほど住宅街を走り、ある一つの家の前で止まった。家はよくある民家である。
支払いを摩耶が一人で済ませようとしたため、龍時も急いで手を財布に伸ばす。しかし、龍時のその手は摩耶に制止され、結局摩耶一人で支払いを済ませた。
「さあ、入って」
「お邪魔します」
龍時は間違った態度を見せないように気を引き締めて、夏泉の家だった場所に入る。龍時が通されたのは椅子と机があるだけの客間だった。
「ごめんね、今これしかなくて」
摩耶は龍時の前に、ペットボトルに入ったお茶を差し出す。龍時は軽く会釈したものの手をつけはしない。
「まずは、夏泉のためにお葬式来てくれてありがとう。夏泉も喜んでいたはずだわ」
「いえ、感謝されるのはおかしいです」
「そう言うと思った」
摩耶は龍時の反応を見てそう口にする。龍時はそんな摩耶に夏泉の面影を重ねた。そして夏泉の遺影を思い出して、龍時は強く頬の内側を噛む。
「明石さんを呼んだのはね、一度会って話をしてみたいって思ったのもそうなんだけど、違う理由もあるの。……どっちから話そうかな?」
摩耶は声を明るくさせたまま龍時に尋ねる。ただ、今の龍時は完全に沈みきっていた。
「……では後者から」
龍時は深く考えることはせずにそう答える。摩耶が勿体ぶっている内容の方が、龍時も話したいと思っていた内容である可能性が高かったのだ。
「明石さんのことは、だいぶ前からよく話を聞いていたわ。……いつ頃だったかな?夏泉が珍しく楽しそうにしていたから聞いてみたのよ。その時に夏泉が教えてくれたの。まだその時は付き合ってるなんて思ってもなかったけど。……いつ頃から夏泉と交際していたの?」
「私が夏泉に願い出たのは去年の夏頃です」
龍時は事実を簡潔に伝える。
「あれ?夏泉の様子見ていたら、もう少し前からだと思っていたんだけど……」
摩耶は不思議そうな顔をしてみせる。そんな摩耶の様子から、龍時は摩耶が自分のことをあまり知らないのだと感じた。
「夏泉はだいぶ前からアプローチをかけてくれていたみたいです。……でも、私はそういうことに疎くて、気付いてやれなかったんです」
龍時はそう言って顔を下げる。もし龍時が普通の人間と同様の察しの良さがあれば、もう少し状況が変わっていたかもしれない。そう思うと、龍時は後悔の念に押しつぶされそうになった。
「やっぱり明石さんってそういう人だったのね。夏泉の言動を見てたらそんな気がしていたのよ。夏泉、苦戦してたみたいよ」
摩耶は龍時についてある程度の予想はしていたようで、龍時の話を聞いて納得したようだった。
「少しだけの間だったとは思うけど、夏泉があれだけ生き生きとしていたことはあまりなかったから。私は明石さんに感謝してるの」
「そんな……」
龍時は自分が感謝されるような存在だとは全く思っていない。むしろ、恨まれても仕方ないとさえ思っていた。しかし、摩耶は龍時のことをそうは思っていなかった。
「夏泉はね、父親がいない環境で育ってきたの。生まれてすぐに他界したから記憶もないはず。……だからなのかは分からないけど、色々と声をかけてくれる男性は多かったらしいけど、夏泉が交際したことはなかったわ。
でも、ある時夏泉がやけに楽しそうにしていたから、その訳を聞いてみたの。そうしたら明石さんの名前が出てきた。正直にあの時は驚いたわ。まさか夏泉の口から男の人の名前が出てくるなんて、思ってもいなかったから」
摩耶は昔を懐かしむように龍時に話す。龍時にとって、今は普段見られない夏泉の様子を知ることができる機会であった。ただ、知ったところでもう意味がないことは言うまでもない。
「さすがに気になったわ、明石さんのこと。一体どんな人なのか、是非親として知りたかったの。それで今日会ってもらったわけ」
摩耶は龍時の目を見る。龍時は摩耶の意図がはっきりして納得した。
「いい人みたいで良かったわ。夏泉も明石さんと出会えて幸せだったはずよ」
「……私にとって夏泉は大切な人でした。しかし、私の注意不足のため……」
「明石さん」
龍時が機会を見つけて謝罪の言葉を口にしようとする。しかし、摩耶はそんな龍時の言葉を途中で止めた。
「そのことなんだけど、……夏泉はいなくなってしまってこの世界にはいない。けれども、明石さんがそれに苦しめられる必要はないわ。夏泉もそんなこと望んでいないはず」
「……しかし、私は目の前にいて、夏泉を助けられたはずだったんです」
「それはそうかもしれない。夏泉が生きていたならどんなに幸せだったか、今の私には分からないわ。でもね……」
摩耶は言葉を続けるも、一度口を閉ざす。龍時はその時になって、摩耶が涙を流していることに気付いた。
「でもね、夏泉が幸せに生きていたことを知れて、私は満足しているわ。だから明石さんには感謝してもしきれない」
「……違いますよ」
龍時は苦しみの中、必死に摩耶の言葉を否定する。夏泉が満足して死んだと、龍時は全く思っていない。摩耶は龍時のことを許すという意味で、この日龍時と会ったのかもしれなかったが、龍時にはそれを納得することは出来なかった。
しかし、摩耶は涙を拭き取った後、龍時を見据えて言葉を返した。
「端的に言うわね。今の明石さんを見て確信できたんだけど、明石さんは夏泉の死にこれ以上苦しめられる必要はないわ。まだ長く生きていかないといけないのだから、こんなところで人生を棒に振っちゃダメ」
摩耶は真剣な面持ちで龍時と目を合わせる。摩耶は純粋に龍時のことを心配していた。
ただ、そんな摩耶の心配に意味などない。龍時はもともと一人で生きてきていて、夏泉の存在だけが特殊だったのだ。
夏泉は色々なことを龍時に伝えたが、夏泉がいなくなったことで意味はなくなった。中途半端な感情があるからこそ、龍時は苦しんでいるのだ。
「図々しいと思われるかもしれませんが、私にはそれは出来そうにありません。大げさに感じるかもしれませんが、夏泉は私に対して、親と等しいほど影響を与えました。
ただ、私はそれを嫌だとは思っていませんし、一生背負って生きていかないといけないことだと思っています。それくらい、夏泉は私にとって大切だったんです」
龍時は全てを言い終えた後になって、摩耶の顔に視線を戻す。龍時には、摩耶の顔を見ながら話をすることが出来なかったのだ。
「そう……」
摩耶は龍時の言葉を聞いて静かになる。何か思いつめた様子の摩耶の表情に、龍時は緊張した。
「分かったわ。勝手なことを言ってごめんなさいね。だけど、明石さんが苦しむ姿は誰も見たくないはず。間違っても夏泉の後は追わないで」
摩耶は最後、冗談交じりに笑って龍時に忠告する。ただ、そんな考えが一案としてあったため、龍時は複雑な感情となった。
「本当にごめんなさいね。この話はもう終わりましょう。後は私が聞きたいことを幾つか質問していいかな?もちろん明石さんが質問してくれてもいいわ」
「分かりました」
夏泉が考えていることを理解できていなかった龍時は、今回も同様に摩耶の考えることが分からなかった。ただ、龍時はそれを深く追求するつもりなど全くなかった。
その後の龍時と摩耶は、夏泉の過去や龍時の過去を語り合って、お互いが知るはずだったことを伝えあった。ただ、夏泉本人からの言葉ではないため、実際のことは夏泉本人に聞くしかない。
「……あのこれ、私の部屋に置いてあった夏泉の私物です。これらも夏泉が生きた証ですから」
龍時はそう伝えて紙袋の中身を摩耶に渡す。夏泉が使って置いていった櫛や髪留め、タオルやペンなど多くの小物が入っていた。
「わざわざありがとう。……実はね、私からも渡しておきたいものがあるの。いいかな?」
摩耶は小物を受け取った後、そう龍時に尋ねる。
「ええ、構いませんが……」
龍時は摩耶の言葉を承諾するも、心の中で不思議に思った。龍時が夏泉に貸したものは思い当たらず、摩耶から渡されるようなものはないはずだったのだ。
「これなんだけど……」
摩耶は一つの縦長い箱を取り出すと龍時に手渡す。龍時は受け取ったはいいものの、これが何なのか疑問に思った。
箱といってもプレセント用に包装されており、箱の角は所々へこんでいる。龍時は視線を摩耶に戻した。
「あ、忘れてた。実はこれが貼ってあったの。剥がれてなくなると困るから別々に保管してたの」
摩耶はそういうと、一枚の手のひらに乗る程度の紙を箱の上に貼り付けた。裏にはテープが付いているのか、紙は弱々しく箱に張り付く。
その紙はピンク色をしており、そこに黒のボールペンで文字が書かれていた。龍時は目で追ってその文字を読む。
「……龍時へ、クリスマスプレゼントです…夏泉より」
「そう。あの日あの子が持っていた鞄の中に入っていたものよ。明石さんに渡すつもりだったみたい」
摩耶は箱を見つめながら静かに説明する。ただ、龍時にその言葉は届いていなかった。
あの日、夏泉はひったくりに鞄を奪われそうになった時、龍時の指示を受け入れることなく鞄を守ることに必死になっていた。勿論、その理由がこのプレゼントだと決めつけることはできない。しかし、可能性は充分にあった。
「私も明石さんと同じだと思ってる。夏泉が必死になって守っていたものは、これだったんだと思うわ」
摩耶は龍時の様子を見て、龍時が同じことを考えていると気付いて同調する。
「……あの馬鹿野郎」
「……ねぇ、明石さん。どうかこれを受け取ってもらえないかな?夏泉はこれを渡すことができなかったから、代わりに私から渡しておきたいの。その方が夏泉も嬉しいはずだから」
龍時が強く歯軋りをしている中、摩耶は声をやや震わせつつ龍時に頼んだ。
「……ここで開けてもいいですか?」
「ええ、もちろんよ」
龍時は摩耶の同意を得てから、そのプレゼントをゆっくりと開けていく。中に入っていたのは、紺色のネクタイだった。
「確かに明石さんに似合いそう。あの子、本当に明石さんのこと好きだったのね」
摩耶は龍時が手に取ったネクタイの感想を述べる。ただ、龍時にはそんな余裕もなかった。何かを喋ると泣いてしまいそうだったのだ。
摩耶はそれに気付くと、龍時に優しく声をかけた。
「今日で最後にするって約束してくれるなら、我慢しなくていいわよ?」
摩耶の言葉を聞くも、龍時は意地でも泣くつもりはなかった。しかし、このプレゼントが夏泉の最期の理由となり、龍時に対する最期の言葉なのだと思うと、龍時には我慢することが出来なかった。
龍時は摩耶の前であることも忘れて嗚咽を漏らす。龍時が他人の前でこんなにも感情的になり、泣き崩れてしまったことは初めてだった。
しばらくした後、龍時は感情を落ち着かせる。そして今度は、自分の用事を思い出した。
「もし迷惑でなければでいいのですが、……これを夏泉に渡してもいいでしょうか?」
龍時はやや鼻声になりながら摩耶に尋ねる。龍時が手にしていたのは、ネクタイのお返しに当たる夏泉へのプレゼントだった。
「これは……明石さんから夏泉への?」
「そうです」
龍時は簡単に頷く。
「良いわよ。まだ夏泉はこの家にいるから」
「………」
「ついてきて」
摩耶は席を立ち上がると、そのまま客間から出ていく。龍時は急いでその後についていった。
龍時が連れていかれたのは一つの和室であり、そこには夏泉が写真の隣に鎮座していた。
「納骨は一週間後なの。……夏泉、明石さんが来てくれたわよ」
摩耶は夏泉に声をかける。龍時はいつもと様子の違う夏泉に緊張するも、静かに夏泉の前に座った。その後、摩耶から説明を受けて手を合わせると、静かにプレゼントを夏泉の前に置いた。
「……これはネクタイのお返しだ。遅くなったけど受け取ってほしい。あのネクタイは……また今度つけたところを見せる」
龍時は簡単に夏泉と会話をする。そして、その場から動けなくなる前に龍時は立ち上がった。
「ありがとうございました。夏泉と話が出来て良かったです」
龍時はそばに立っていた摩耶に感謝の気持ちを伝える。摩耶から連絡がなければ、龍時はこのような機会を逃していたかもしれなかったのだ。
「こちらこそ今日はありがとう。夏泉が最後に良い人を見つけていて良かったわ。明石さんにも感謝してる。良かったら夕飯をご馳走しようかと思っていたんだけど……」
「ありがとうございます。ですが、今日は遠慮させてもらいます。……色々やるべきことがありますので」
龍時は摩耶の誘いを丁寧に断る。摩耶はそれを聞いて小さく笑みを浮かべるだけだった。
「……それでは私はこれで」
玄関まで見送ってもらうと、龍時は摩耶に別れの挨拶をする。
「ええ。……それよりここから駅に戻れる?タクシー呼ぼうか?」
「いえ、大丈夫です」
「そう……」
「では、さようなら」
「ええ、また法要のときに」
龍時は摩耶と最後の会話を交わすと、一人タクシーで来た道を戻っていく。ある程度の記憶は残っており、龍時はそれを頼りに歩いた。
寒さに身を震わせながら帰る途中、龍時は突然の雪に見舞われた。折りたたみ傘を取り出して再び歩き出した龍時だったが、雪は風に乗って龍時に当たった。
夏泉が泣いているのかもしれない。降る雪にそんな理由があるのではと推測しながら、龍時は時間をかけて家に帰った。




