第四章 危機(3)
「兄さんは前から感情を持っています。あなた達みたいな人が、兄さんのことを感情のない人間だと馬鹿にしているだけです」
橋子は眞銀に対して冷たくそう言い放つ。龍時はそんな橋子の態度に苛立ちを覚え、橋子を叱責しようとした。しかし、突然夏泉が言葉を発して龍時はそれを止める。
「……橋子さんって妹さんなの?」
「ああそうだ。……言ってなかったか?」
龍時は当たり前だと頷いて、逆に夏泉に質問し返す。夏泉はそれに対して頷くしかできなかった。
「こいつは俺の二つ下の妹で橋子だ」
龍時は簡単にそう言って、目で橋子に自己紹介するように指示する。すると、橋子は大きく溜息をついて口を開いた。
「夏泉さんでしたっけ?私はそこの生野さんと合わせてあなたのことが嫌いです。……あなたは兄さんの何なんですか?」
「えっ、……何ってどういうこと?」
「橋子!お前目上の人に対して何言ってるんだ!?」
龍時は橋子の行儀の悪さに怒りを爆発させる。しかし、橋子は涼しい顔をしていた。
「まあまあ、橋子ちゃんを責めるのもどうかと思うよ。橋子ちゃんの質問は意外と解決に必要なことだったりする」
眞銀はそう言って龍時のことを宥める。今や夏泉は惚けた状態で静かであったため、一番興奮していたのは龍時だった。
「私が聞きたいことはそれだけです。夏泉さん、まさか兄さんの彼女、ということではないですよね?」
「かっ、彼女!?」
夏泉は核心を突くような橋子の質問に動揺を隠せなくなる。橋子が龍時の妹であると聞いて、夏泉は無意識の内に安心していたのだ。
「……はぁ。そうですか」
夏泉がはっきりとした答えを出せずにいると、橋子はこめかみを押さえて今度は龍時に向かって鋭い視線を向けた。
「な、なんだよ」
龍時は突然睨まれて眉をひそめる。
「兄さん、あれほど家を出て行くときに言ったじゃないですか。女性関係には厳しくしろと。それなのに二人の女性をはべらせて情けない」
「はぁ!?」
「生野さんだけなのであればまだ何も言いません。生野さんは兄さんのことを恋愛対象として見ていないようでしたから。ですが、夏泉さんはどうですか?……私は兄さんが心配で家に帰れなくなりました」
橋子はそう言って龍時に寄っていく。龍時はそんな橋子を押し返した。
「……夏泉は理解できたかい?あの子は龍時の妹さんで、加えて重度のブラコンだ。龍時の彼女じゃないよ」
眞銀は龍時と橋子が言い合っている隙に夏泉に状況を理解させる。夏泉はそんなことを眞銀から伝えられて、恥ずかしさで顔全体を赤くした。
「どうせ夏泉、橋子ちゃんのことを龍時の彼女だと思ったんじゃない?早とちりにもほどがあるね」
眞銀はそう言うものの、夏泉を責めているわけではない。むしろ安心させるための言葉であった。
「とにかく!兄さんはこの二人と関係を絶つべきです。いずれ身を滅ぼすことは目に見えています」
「俺にとって一番邪魔なのは橋子だけどな」
「なっ!?」
「……そろそろいいかい?こっちは問題を全て解決したんだが」
白熱していく兄妹喧嘩に対して眞銀は声をかける。龍時はすぐに眞銀の方へ振り向いたが、橋子はなかなか龍時を叱責することをやめなかった。
「それで?夏泉に何かあったのか?」
橋子との言い合いで夏泉のことをすっかり忘れていた龍時は、自分に責任があると眞銀に言われたことも忘れて能天気に声をかける。そんな龍時を眞銀は馬鹿を見るような目で捉えていたが、夏泉はその質問に顔を俯かせた。
「夏泉、言っていいのかい?」
「……ダメ」
眞銀が全ての原因を龍時に伝えようとすると、夏泉は首を横に振った。ただ、龍時は理由が知りたくてたまらなかった。
今の夏泉は、部屋に入ってきたときほど感情を乱していない。それどころか、大人しい雰囲気を龍時に見せていた。龍時はそんな夏泉の変わり具合を、非常に興味深く感じる。
「……早く言いなさいよ。そんなままじゃ話が進まないのだけど?」
橋子はイライラした様子で夏泉らに催促する。ただ、橋子も原因をなんとなく把握してはいた。つまり、何も理解していないのは龍時だけであった。
「橋子のことは気にしないでいい。それに俺のこともだ。迷惑をかけたことなんて今までにいっぱいあるだろ?今更何を気にしてるんだ?」
「えっ!そんなに関係深いの?」
橋子は話を聞く姿勢に移行していたものの、龍時から発せられた言葉に再び反応した。ただ、龍時は夏泉にだけ集中して、橋子には見向きもしない。
「……いや、あの……ごめんなさい私の勘違いで」
「勘違い?」
「いやっ!その……勘違いというか……でも気にしなくても大丈夫だから……」
夏泉は何かを説明しようとしていたが、それは言葉になっていなかった。龍時はそれに対して首を傾げるしかできない。
「夏泉?」
夏泉が口籠っていると眞銀が言葉を続けるように催促する。ただ、夏泉は恥じらって口をなかなか開こうとしなかった。
「……好きなら好きって言えばいいのに。私は認めないけど」
夏泉の言葉を全員が待っていると、待ちきれなくなった橋子がいきなり夏泉を攻め立てた。夏泉はそれを聞いて目を大きく見開く。
「お前、今日にもこの部屋から出て行ってもらうから荷物まとめておけ」
龍時は態度の悪い橋子に対して冷たくそう言い放つ。橋子の態度は目に余るものがあったのだ。
「そんな!明日がオープンキャンパスなのに?」
「そこらのホテルに泊まればいいだろ?金がないなら野宿だ」
「……龍時、それは言い過ぎでは?」
夏泉の言葉を聞く前に再び兄妹喧嘩に発展した様子を見て、眞銀が龍時に注意する。ただ、龍時は橋子への対応を間違ったつもりなどなかった。
「いや、こいつはちょっと頭のネジが飛んでるんだ。それに、俺がこいつの面倒を見ないといけない理由はない」
「兄さん!?それ酷いよ?」
「俺はもう決めた。……さあ、話を続けてくれ」
龍時は強引に話をまとめると、再び夏泉の事案について身を乗り出す。ただ、今の状況で夏泉が本当のことを言えるはずがなかった。
「私のことはもう大丈夫。迷惑かけてごめんね」
夏泉はそう言ってこの場から逃げようとする。しかし、それを眞銀は認めなかった。
「夏泉は橋子ちゃんを龍時の彼女だと勘違いしたんだ」
「眞銀!?」
「………?」
眞銀の言葉に対して、夏泉は慌てて批難の声を出す。龍時はというと理解出来ずに黙っていた。
「きっと龍時と橋子ちゃんが一緒にいるところをどこかで見ていたんだろう。それで確認するために龍時の部屋を訪れたら、橋子ちゃんが龍時と一緒にいて早とちりした。……そうだね?」
「いやっ……違う…ことはないけど」
「そうだとしてもだ。それがどうして夏泉を泣かせる理由になる?」
眞銀は言ってやったとしたり顔を見せる。しかし、龍時はそんな眞銀の言葉に、素朴な疑問を投げかける。すると、その場の全員が龍時に鋭い視線を注いだ。
「……兄さん分からないの?嫉妬よ、嫉妬」
「嫉妬?」
「そう、嫉妬」
「……ああ、そういうことか」
橋子の言葉を聞いて、龍時はついに納得の表情を見せる。夏泉はその瞬間、息を止めて龍時の顔を凝視した。
龍時に自分の気持ちが知られた。それは今まで夏泉が望んできたことで、高揚感が湧き上がるものだったが、同時に緊張も押し寄せた。ここで龍時がそんな夏泉の想いを拒否すれば、何にせよ夏泉にとって終わりだったのだ。
「……それで?兄さんは一体どうするの?」
「………」
橋子は待ちきれない様子で龍時に尋ねる。橋子にとってもこの事案は大きな意味を持っていたのだ。
龍時は判断を迫られていた。
「……んー、俺はなんと言ってやればいいんだ?とにかく心配は無用だ。こいつはただの妹で今日にも出ていく」
「……龍時はどんな心配を夏泉にかけたと思っているんだい?一応聞いておきたいね」
眞銀が意地悪く龍時を攻める。龍時はそんな眞銀の言葉に頰を引きつらせた。
さすがの龍時でも、今回のことで夏泉が抱いていた感情を把握した。それゆえにはっきりと明言することは、龍時に出来ることではなかった。
「いいや、いま聞くことはしたくない。なんか疲れた」
龍時が答えを迫られていた中、夏泉が一言そう呟く。龍時はそれを聞いて申し訳なく思った。
「……わかった。じゃあ、今度デートでもしよう」
「デート!?」
龍時は咄嗟に思いついたことを口にする。すると、龍時の提案に対して、瞬時に夏泉が驚きの声を上げた。珍しく眞銀も驚いた様子を見せる。
「龍時がそんなことを言うなんて、どんな風の吹き回しだい?」
「いや、きっと夏泉にも時間がいると思う。俺も勿論色々と準備がある。……それに今日はもう疲れただろう?俺から連絡するから」
龍時は自分で言っておきながら、最後は恥ずかしさで声をしぼませた。ただ、嫌な気分ではなかった。
「うん……うん!待ってる!」
夏泉は嬉しそうに龍時に答える。夏泉の笑顔を見た龍時は、それだけで安心した。ただ、橋子はすぐに抗議する。
「兄さん!私は許さないよ!きっと兄さんの優しさに漬け込もうとしてるに決まってる!」
「お前いい加減にしろよ!年上の人に対して敬意の一つも……」
「龍時」
未だ懲りずに夏泉のことを悪く言い続けている橋子に、龍時は激しく叱責しようとする。しかし、そんな龍時を夏泉は一言で制止させた。そして、夏泉は注意するような顔つきで龍時を見つめた。
「優しくしてあげて?」
「………」
龍時は夏泉に注意されて大人しく口を閉じる。すると今度は橋子が口を開いた。
「何を考えているか知りませんが、そんな言葉で兄さんを困らせないで下さい」
「お前っ……」
「龍時。橋子ちゃんのオープンキャンパスが無事に終わった後にデートに誘ってね。でないと私受け付けないから」
「なっ!……分かった」
夏泉が遠回しに龍時に譲歩を求めると、龍時は少し考えた後にそれに了承した。橋子はそれを見るなり眉間にしわを寄せて不快感を示したが、龍時がそれに対して何かを言うことはしなかった。
「……じゃ、私は失礼しようかな。面白いものも見れたし、早く涼しい部屋に戻りたい」
「私も帰ろうかな。……なんだか安心できたし」
龍時と夏泉の関係だけでなく、龍時と橋子についてもある程度解決がなされた様子を見て、眞銀は自分の部屋に戻ろうと立ち上がる。すると、夏泉もそれに続くように立ち上がった。
「……今日は本当にごめんね。それと……待ってるから」
夏泉はそう龍時に言い残すと、そのまま玄関に向かって歩いて行く。
「……近いうちに電話かメールするよ」
龍時は元気そうな夏泉の背中に声をかける。夏泉はそれに対して笑顔を見せて返事をするだけで、その後すぐに龍時の部屋から出ていった。
「兄さんの馬鹿っ!」
眞銀と夏泉が出て行った瞬間、橋子がそう言って龍時に抱きついてくる。龍時はそれを面倒に思ったが、それでも強引に引き剥がすことはせず、ただため息をつくだけにとどめておいた。




