第四章 危機(2)
この話は、次話と強引に切り離したものです。もとは一話でしたが、長くなるために分割いたしました。そのため、続けて読むことをオススメします。
次話の投稿はこの投稿と同日に行います。
その日の夜、夏泉はほとんど一睡もすることが出来ないまま朝を迎えることになった。どうしても目にしてしまったことの真実が知りたい。夏泉はそんな思いに駆られ、眠ることができなかったのだ。
ただ、真実を知ることは龍時との別れを意味しているのかもしれないと思うと、夏泉は大胆になれなかった。夏泉は自分に嘘をつけるほど強くはない。龍時が誰か他の女性と楽しくしている姿を見ることを、夏泉は許容出来そうになかった。
夏泉が龍時に対して決定的なアプローチを怠っていたことが原因であるとさえ夏泉は思って、今までの自分の行動を後悔した。
夏泉が龍時のことを好きになるのに時間はかからなかった。しかし、たったこれだけで悩み苦しむ自分が、どこか滑稽に見えて仕方がなかった。
ただそれでも、龍時への想いが揺らぐ事は夏泉にとってあり得ないことである。
夏泉が結局そう判断して、龍時の家に事情を知りに行こうと思ったのは、目撃から一日が経った昼前だった。夏泉は眠たいことも忘れて、決心が鈍る前に龍時の家に向かうことにした。
夏泉は母親に適当な理由をつけて家を出る。母親に龍時の存在は知られているが、自分が好意を抱いていることはまだ説明していない。そのため、今日外出する理由など言えるはずがなかった。
龍時が昨日の女性と交際していたとき、自分はどうするのか。夏泉は電車に揺られながらそんなことを考え、気付いた時には龍時のアパートの最寄り駅に到着していた。
今まで何気なく歩いていた道でさえ、今日は地獄への一本道のように夏泉は感じる。龍時がどんなに鈍感だとしても、昨日の女性と交際しながら自分に会うことはないはずである。夏泉はそう信じて疑っていなかったが、アパートの目の前まで来た時には、龍時ならばあり得るかもしれないと弱気になった。
修羅場を作る気はない。仮に龍時が昨日の女性との関係を認めた場合は、潔く手を引くつもりでいた。しかし万が一そんな状況が訪れた時、自分が本当にそんなことが出来るものなのか、それは夏泉自身にも分からないことであった。
しかし、賽はすでに投げられていた。
夏泉は足音を立てないようにして龍時の部屋の前まで移動すると、深呼吸をして心の準備をする。そしてゆっくりと、インターホンへと手を伸ばした。
そして、夏泉がインターホンを押そうとしたときだった。不意に、龍時の部屋の中から会話の声が聞こえてきた。
「……どうしてそんなことを言うのー?」
「五月蝿いなぁ……は嫌だって言ってるだろ」
「えー!……絶対楽しいって!」
一部途切れ途切れになって聞こえてくる楽しそうな会話。夏泉はただそれだけで泣きそうになった。
一人の声が龍時であることはすぐに分かった。しかし、もう一人の女性の声は夏泉の聞いたことのない声である。ただ、会話の一部を聞いただけで、自分以上にその女性が龍時と親密であると夏泉は悟った。
夏泉は非情な現実にただ後退りする。今回の出来事は今までのどんなことよりも衝撃的で、何よりも残酷だったのだ。
裏切られたという言葉は間違っている。それでも、辛く苦しい中で、夏泉はそんなことさえ考えてしまっていた。
夏泉は龍時のことが好きである。だからこそ、今が潔く手を引くべき時なのかもしれないと夏泉は思った。
ただそれでも、別れの挨拶だけはしておきたかった。
夏泉は覚悟を決めて扉に手をかけ、音がしないように開けて中に侵入する。いつもは気に止めることもなく行っていたことが、今は罪悪感で包まれていた。
玄関には女性の靴が龍時の靴の横に並べられている。たったそれだけのことで、夏泉は敗北を認めざるを得なくなる。
扉の遮蔽がなくなったことにより、よりはっきりと二人の会話が聞こえてくる。しかし、高鳴る心臓と緊張のせいで、夏泉は内容を全く理解出来なかった。
玄関からは遮るものなく部屋まで続いている。しかし、龍時と誰かは壁の陰に隠れていてその姿は見えない。
隠れることに意味はない。夏泉はそう判断すると、足音を消すことをやめて二人の前に姿を現した。
「えっ、何!?」
女性の方は龍時の横にべったりくっつくように座っており、夏泉が姿を現した瞬間に龍時の腕に抱きついた。夏泉が昨日見た女性と同一人物である。女性は侵入者が女だと分かると、鋭い視線を向け始める。
肝心の龍時はというと何も動じていないようで、落ち着いたまま隣の女性を元の位置に押しやる。夏泉の訪問に対して何も感じていないようだった。
その瞬間、夏泉は我慢していた全ての感情が掻き乱れ、そして理性は崩壊していった。他の女性といる所を夏泉に見られても、龍時は驚いたり慌てたりしていない。
夏泉は龍時の中での自分の立ち位置を一瞬で把握することになった。
夏泉は堪えきれずに泣き崩れる。龍時は、その場に崩れ落ちた夏泉を見てからやっと夏泉に声をかけたが、もはや夏泉には何も聞こえていなかった。
「……何なの?誰、この人?」
龍時と一緒にいた女性にとってみれば夏泉はただの不審者である。突然現れて泣き崩れたのだから、その認識は間違ってはいなかった。
龍時はこの時になってから慌て始める。ただ、龍時が懸命に夏泉に声をかけても、夏泉はそれを受け付けず泣き続けた。
「夏泉、一体どうしたんだ!?誰かに何かされたのか?」
「……誰?知ってる人なの?」
「橋子は黙ってろ」
龍時はそう言って宥めることに必死になる。橋子はそんな龍時の姿を冷たい視線で見つめていた。決して龍時を手伝おうとはしない。
「……何事だい?騒ぎが私の部屋にまで響いてきているんだけど?」
龍時が夏泉の対処に困っていた時、玄関から騒ぎを聞きつけた眞銀がやってくる。そして、夏泉が泣き崩れている様子を確認した。
「……何をしたんだい?夏泉をここまで泣かせるなんて」
「俺は何もしていない!ただ、橋子と話していた時に突然入って来て……!」
夏泉だけでなく龍時も焦った様子で眞銀に説明する。今回ばかりは龍時自身、自分に非があるようには感じられなかったのだ。
しかし、眞銀は泣いている夏泉と橋子、それに龍時の姿を見て何度か頷いた。そして、夏泉が泣いているその横で眞銀は笑い始めた。
「笑っている暇があれば夏泉をどうにかしてくれ!人の家で泣かれると、まるで俺か悪いみたいだ」
「はは、何言っている?龍時が悪いんじゃないか。……まあいい、夏泉に事情を聞こうじゃないか」
眞銀はそう言って夏泉に声をかける。龍時は夏泉のことを眞銀に任せて壁にもたれかかった。橋子がその間もずっと龍時を睨んでいたが、龍時はそれをずっと無視し続けた。
夏泉が落ち着きを取り戻し、話ができるようになったのはそれから数分後のことだった。
「……落ち着いたか?泣いて汗までかいて本当に感情の豊かなやつだ」
龍時は自分と対比して夏泉に笑いかける。しかし、そんな龍時の雰囲気を良くしようとする試みも、今の夏泉には無駄なものだった。
「……ごめんなさい。ずっと迷惑かけていたんだね、私。もうしないから……」
夏泉は悲しさに加えて恥ずかしさにまで襲われ、気が狂いそうになっていた。自分の勝手な感情の波に龍時を巻き込んでしまい、そしてそれが自分の片想いであったのだ。龍時にそんなことを言えるはずがなかった。
「何があったのか知らないが、何か困っていることがあるなら相談に乗るぞ?夏泉には色々と世話になっている」
「え、世話になってるの!?この女に?」
龍時の言葉に対して、龍時の隣を陣取っていた橋子が驚きの声を上げる。ただ、龍時はこれもまた無視をした。
「……ありがとう。でもその必要はないよ。もう龍時君には迷惑をかけたくないから」
「龍時君って……」
龍時は聞きなれない呼ばれ方に苦笑いをこぼす。夏泉は龍時に対して他人行儀になっていたのだ。
「橋子さん……ですか?ごめんなさい、私あなたにもずっと迷惑かけてたみたいで」
「は?夏泉、何言ってんだ?」
夏泉が突然訳の分からないことを言い始め、龍時は困惑する。何故ならば、夏泉と橋子は初対面のはずだったのだ。
「私全然気がつかなくて。龍時君の優しいところにずっと頼ってばっかりで」
「眞銀!もう俺には意味不明だ!早く解決してくれ」
夏泉はほとんど無表情で、腫れた目を隠すように俯いている。龍時は何が夏泉をここまで不安定にさせたのか、眞銀に教えてもらおうとした。
「いやいや、面白すぎて笑いをこらえるのが大変だ」
ただ、眞銀は頰が釣り上がるのを我慢しながらそう口にする。それを聞いた夏泉は肩身を狭くした。眞銀の言葉が夏泉を更に恥ずかしくさせたのだ。
「おい眞銀!ふざけてないで真剣に取り組んでくれ」
龍時は眞銀に対して少しばかり怒りを見せる。夏泉がどんな理由で泣いていたのか龍時は理解していない。しかし、眞銀の態度は夏泉を馬鹿にしているように見えたのだ。
「感情的になるなんて龍時らしくもない。そう思うだろう、橋子ちゃん?」
龍時が眞銀を睨みつけると、眞銀は突然橋子に話を振った。橋子は突然質問されたが、それでも落ち着いた様子で夏泉を睨みながら言葉を返した。