ボロ砦の課題と、建築家の本領
数日間の、拷問のような馬車の旅だった。王都を出てからずっと、道は整備されておらず、車輪が轍にはまるたびに、私の腰は悲鳴を上げた。もちろん、サスペンションなどという気の利いた機構は、この世界の馬車には存在しない。
「……ここが、アルトハイムの砦、ですか」
ついに目的地に到着した私は、馬車の窓から外を眺め、言葉を失った。いや、正確には「建築デザイナーとして、あまりの酷さに絶句した」。
ボロい。想像していたよりも、十倍はボロい。三方を山に囲まれた天然の要害、という立地は設計図通りだ。だが、肝心の「砦」が、まるで死にかけの老人のようだった。
馬車を降りると、数人の男たちが出迎えてくれた。全員、老人と言っていい年齢だ。使い古された革鎧はところどころひび割れ、その顔には深いシワが刻まれている。
「ようこそおいでくださいました、イレーネ様。わたくしは、ここの管理を任されております、ゲルハルトと申します」
代表らしい、一番年嵩の老兵が、ぎこちない礼を取った。彼らの目。それは、希望も絶望も通り越した、冷え切った「無」だった。
(ああ、なるほど)
王都から追放されてきた、世間知らずの公爵令嬢。どうせ数日もすれば「王都に帰して」と泣き叫ぶか、この環境に耐えきれず病気になるか。彼らは、そう確信しているのだ。
「ご案内します……お荷物は、それだけで?」
ゲルハルトが、私が馬車から下ろさせた、あの巨大な木製トランクを見て怪訝な顔をした。ドレスや宝飾品が詰まっていると思っているのだろう。
「ええ。これが私の全てです」
私は頷き、彼らに続いて、砦の門をくぐった。
――そして、第一歩を踏み入れた瞬間、私は後悔した。
(靴、間違えた……!)
王都から履いてきた上質な革のブーツが、じゅぶ、と鈍い音を立てて沈んだ。床が、湿っている。いや、濡れている。
「……!」
鼻をつく、強烈な カビの臭い。砦の中庭は、まるで沼沢地だった。私は即座に原因を理解した。周囲の山からの雨水が、すべてこの中庭に流れ込む構造になっている。それなのに、排水溝がどこにも見当たらない。いや、あるのかもしれないが、完全に機能不全に陥っている。
(最悪だ! 建物の基礎が、常に湿気にさらされている!)
これでは、どんなに頑丈な石造りでも、内側から腐っていく。
「こ、こちらへ。居住区をご用意しております……ゴホッ、ゴホッ」
ゲルハルトが慌てて私を建物の中に導こうとするが、その背後で、彼は湿った重い咳を繰り返した。
(今の咳……)
私は、彼の顔色が一瞬悪くなったのを見逃さなかった。この砦の環境病だ。彼に案内された居住区も酷いものだった。狭く、暗く、無駄に曲がりくねった廊下。これでは有事の際、鎧を着た兵士がすれ違うこともできず、防壁への出撃が大幅に遅れる。前世の建築基準法なら、一発アウトだ。
「……あの、お嬢様? 顔色が優れませんが」
ゲルハルトが、同情的な目を私に向けてくる。
(違う、同情するところはそこじゃない)
私は、この劣悪な環境に絶望しているのではない。この「ダメ建築」を設計した、数百年(?)前の誰かに対して、猛烈な怒りを感じているのだ。
「ゲルハルトさん。防壁を見ても?」
「は? あ、はい……しかし、危険ですぞ。ゴホッ」
私は彼の制止を振り切り、外壁へと向かった。そして、案の定。防壁は、崩れている、なんてものではない。もはや「崩落寸前」だ。石と石を繋ぐモルタルは風化し、いくつかの石はすでに抜け落ちて、下に転がっている。
「……お嬢様。このような場所は、お身体に障ります。王都とは、あまりにも違いすぎましょう」
ゲルハルトが、本心から私を哀れんでいるのが伝わってきた。
「王都の公爵様へ、お手紙を書くための筆とインクはご用意できます。どうか、お部屋で……」
私は、彼が差し出そうとした手を遮った。そして、トランクを開けるよう、他の老兵に指示する。
「え?」
「いいから、開けてください。そこに平らに」
老兵たちは困惑しながらも、重いトランクの蓋を開けた。中身は、もちろん設計図の束だ。私は、泣き言一ついう気にならなかった。代わりに、そのトランクから一枚の羊皮紙と、羽ペン、インク壺を取り出し、現状のチェック――前世でいうところの「フィールドワーク」を開始した。
「ゲルハルトさん。ここの年間降水量は?」
「は、はい? さあ……冬は雪が多いですが」
「地盤の固さは? 凍結深度はわかりますか?」
「と、とうけつ……?」
(ダメだ、通じない)
私は、崩れた防壁の前にしゃがみこんだ。そして、転がっている石材の一つを手に取った。
「……」
「お嬢様、汚れます!」
「これは、ゴミではありません」
私は、石の断面を注意深く観察しながら呟いた。
「これは、貴重な『資材』です。見てください、この硬度。この辺りで採れる石ですね? 加工もしやすいし、強度も十分。これを再利用しない手はありません」
「……はあ」
ゲルハルトは、私がついに王都からの追放のショックで「狂った」とでも言いたげな顔をしている。私は構わず、中庭に戻り、水がよどんでいる地点を指さした。
「ここ。この中庭に水が流れ込むのは、構造的欠陥です。排水路が機能していない。いえ、そもそも、まともな排水計画が存在しない」
私が、専門的な視点で、淡々と「ダメ出し」を続けるものだから、老兵たちは完全に困惑していた。
その日の夕方。私は、砦にいる全員――といっても、老兵が五人と、使用人の老夫婦が二人の、計七人だが――を、一番マシな部屋(食堂と呼ばれていた)に集めた。
「皆様。私は本日より、アルトハイム公爵家の領主代行として、この砦の管理をいたします。イレーネ・フォン・アルトハイムです」
彼らが「どうせ泣き言だろう」と、うつむいて床を見ているのが分かった。私は、持参した最大の図面――『アルトハイム砦・全体改修計画図』――を、埃っぽいテーブルの上に、バサリと広げた。
その瞬間、老兵たちの空気が変わった。特にゲルハルトは、その図面を見た途端、息をのんだのが分かった。
「……お嬢様、これは……?」
そこには、現在のボロ砦の姿はなかった。緻密な線で描かれた、効率的で、強固で、そして……美しい「要塞」の姿があった。私が、この数年間、夜な夜な王宮で描き続けた「趣味」の集大成。王宮で「女らしからぬ趣味」と嘲笑された、私の専門知識の結晶だ。
「この砦を、生まれ変わらせます」
私は、全員の顔を見渡して、はっきりと宣言した。
「まず、水の問題。このカビ臭い環境は、衛生上も、建物の耐久性の上でも最悪です。ゲルハルトさん、あなたのその咳も、元をたどればこの湿気が原因でしょう」
「え……ゴホッ、わ、私の咳、ですか?」
「ええ。中庭に流れ込む水を制御し、地下に『暗渠排水』を敷設します。清潔な水は、あちらの谷から引き込み、簡易浄水システムを導入します」
「あ、暗渠……?」
「次に、防壁。この崩れた石材を『資材』として再利用し、前世の……いえ、最新の『擁壁技術』で組み直します。強度は、現在の数倍になります」
老兵たちは、呆然と私と図面を見比べている。私が使っている単語の半分も理解できていないだろう。だが、目の前にある「図面」の圧倒的な緻密さと、私の説明の具体性が、彼らの常識を揺さぶっていた。
「……お嬢様」
ゲルハルトが、震える声で尋ねた。
「そのような大層な工事、金は……どこに?」
「人手は? 我らのような年寄りだけでは……」
彼らの疑問はもっともだ。追放されてきた令嬢が、金など持っているはずがない。私は、彼らの不安を打ち消すように、きっぱりと答えた。
「予算は最低限。この砦にあるものと、私たちの『工夫』で賄います。人手は、もちろん、皆さんです」
絶望が、彼らの顔に再びよぎる。私は、構わず、防壁の改修図の詳細版を広げた。
「例えば、この崩れた石材。ただ積み上げるだけでは、またすぐに崩れます。ですが、このように、裏側に『栗石』を詰めて水抜きを確保し、石の『面』を合わせて積むことで……」
私が、前世の城郭建築、そのなかでも石垣の図解を指さして説明していた、その時だった。
「……この工法」
それまで黙っていたゲルハルトが、図面を食い入るように見つめ、ぽつりと呟いた。
「ワシが若い頃、故郷で石工の真似事をしていたことがある。その時の親方がやっていた積み方に……似ている」
彼は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……もし、この図面通りなら……もし、この工法なら。ワシが、石積みの指揮を……取れるかもしれん」
その言葉に、他の老兵たちが「おお」「本当か、ゲルハルト」とざわめいた。私は、内心で小さく頷いた。
希望。つい先ほどまで、この砦を支配していたのは、冷え切った諦観と絶望だけだった。だが今、この「緻密な設計図」と「実行可能な工法」を目の当たりにして、彼らの目に、ほんのわずかな熱が灯り始めていた。
「これなら……」
「俺たちでも、できるかもしれない」
そうだ。私の実務は、ただの空想じゃない。
「さあ、皆さん」
私は、設計図の束を手に、笑ってみせた。心からの笑顔だった。
「このボロ砦を、『無敵の要塞』に大改修する、最初の仕事です。まずは、水の問題から片付けましょう!」




