婚約破棄と、前世の悲願
「――イレーネ・フォン・アルトハイム! 私は、貴様との婚約を、本日この場をもって破棄する!」
金切り声に近い、甲高い宣言だった。王太子オスカー。私の婚約者だった男が、パーティーで無駄に煌びやかな演台に立ち、顔を真っ赤にして私を指さしている。ホールを包んでいた甘ったるい弦楽の音色が止まり、数百の貴族たちの視線が、毒針のように私に突き刺さった。王宮の大ホール。天井には、梁の強度計算を無視しているとしか思えない、悪趣味なほど巨大なシャンデリアが輝いている。あの直下は、いつ落下してもおかしくないデッドスペースだ。私はいつも、あの真下を避けて歩いている。
「理由を、お伺いしても?」
私は、努めて冷静に、ドレスの裾を軽く引いてカーテシーをとりながら尋ねた。内心では(やっとか)と安堵のため息をついていたが、もちろんそんな素振りは見せない。オスカーは、私がおとなしく理由を尋ねたことに満足したのか、あるいは私を断罪するこの瞬間を待っていたのか、得意満面に口の端を吊り上げた。
「理由はわかっているはずだ! 貴様は、未来の王太子妃、いずれは王妃となる身でありながら、そのための努力を疎かにした!」
ざわ、と会場がどよめく。
「そればかりか! 『趣味』に没頭し、王家への敬意を欠いた! 貴様のその態度は『不敬』である!」
ああ、「趣味」。彼が言っているのは、私がここ数年、夜な夜な王宮の図書室の片隅で続けていた「図面引き」のことだろう。嘲笑が、さざ波のように広がる。
「まあ、図面……?」
「女らしくない」
「公爵令嬢が、まるで職人のようなことを」
「王太子殿下がお可哀想に」
オスカーの隣には、すでに新しい「獲物」――男の庇護欲をかき立てそうな、小動物のように震える伯爵令嬢が控えている。なるほど、次期婚約者は彼女というわけか。
周囲の侮蔑と嘲笑。その中心で、私は必死に別のことを考えていた。
(ああ、よかった!)
私は内心、力強くガッツポーズをキメていた。
(これで、あんな動線の悪い王宮に嫁がずに済む!)
そう。私、イレーネ・フォン・アルトハイムは、前世の記憶を持っている。前世の私は、日本という国で「建築デザイナー」――それも、国家資格持ちの一級建築士だった。激務の末に過労で倒れ、次に目覚めたら、なぜかこの剣と魔法の、中世ヨーロッパ風の公爵令嬢に生まれ変わっていた。
貴族の令嬢としての生活は、正直、苦痛の一言に尽きる。特に、この王宮。無駄。非効率。見栄だけ。例えば、いまオスカーが立っているその演台。凝ったレリーフが彫られているが、足元が妙に狭く、万が一よろめいた時に体重を支える手すりの位置が、デザイン優先で高すぎる。あれでは咄嗟に掴めない。そもそも、この大ホール自体が最悪だ。見た目だけを優先して窓を少なくしたせいで、日中でも薄暗く、大量の蝋燭が必要になる。そのせいで空気は淀み、音はやたらと反響して、会話もままならない。私は、王妃教育と称してこの王宮に通うたび、その「設計の不備」にストレスを溜め続けていたのだ。
(そういえば、オスカーの執務室もひどかった)
彼は「婚約者なのだから、もっと執務室に顔を出せ」と不満げだったが、私はあそこが嫌いだった。北向きの部屋なのに、採光窓が妙に小さい。壁紙はやたらと高価な金糸の織物だが、そのせいで光が反射せず、部屋全体が陰気に見える。おまけに、無駄に大きな暖炉が換気効率を悪化させ、常に埃っぽかった。
(あんな採光の悪い部屋で、効率的な政務ができるわけがない)
彼は、私の才能が「図面引き」にあることも、その図面が国を支える「実務」に直結することも、何もかも見抜けなかった。典型的な「見る目のない男」。そんな男と結婚しなくて済む。こんな非効率な建築物の中で一生を終えなくて済む。これ以上の吉報があるだろうか?
私が歓喜を噛み殺し、いかにしてこの状況を穏便に、王宮と縁を切って終わらせるか考えていると、オスカーが追い打ちをかけるように叫んだ。
「その不敬の罰として、貴様を王都から追放する!」
「まあ!」
今度こそ、会場が大きくどよめいた。公爵令嬢の追放。それは、アルトハイム公爵家そのものへの侮辱に等しい。だが、私の父も母も、私がいわゆる「令嬢らしさ」に欠け、王太子に疎まれていることを知っていた。彼らは、家の存続のためなら私を切り捨てるだろう。私は静かに、次の言葉を待った。どこへ行けと命じられるのか。
「貴様の家――アルトハイム公爵家が所有する、辺境の『忘れられた砦』! あそこへ行って、頭を冷やすがいい!」
辺境。忘れられた、砦。その単語を聞いた瞬間、私は(まさか)と息を飲んだ。アルトハイム家が、北の国境近くに、打ち捨てられた砦を所有していることは知っていた。先々代が「戦略的価値がある」と無理に購入したものの、維持費がかさむばかりの「負の遺産」。雨漏りし、防壁は崩れ、今では数人の老兵が管理しているだけの、ボロ砦……そして、その砦こそ。私が、王宮の図書室で、埃をかぶった古い地図と配置図を見つけてしまった、因縁の場所だった。
(あそこは……地形がいい)
初めて地図を見たとき、私は建築士としての血が騒ぐのを感じた。三方を険しい山に囲まれ、残る一方も急峻な谷に面している。まさに天然の要害。
(水はけが悪い? 防壁が脆い? そんなの、直せばいいじゃない!)
それからだ。私の「趣味」が本格化したのは。王妃教育の退屈な講義をBGMに、私は頭の中で、あのボロ砦の改修プランを練り続けた。城塞の改造。それは前世の私の叶わぬ夢だった。まず、文化財に指定された歴史的建造物を、勝手にいじくりまわすわけにはいかない。仮にできたとしても、もはや実用性は失われている。しかし、この世界では違う!
(まずは水の問題。谷からの水を引き込み、上水と下水を分離する。暗渠排水を整備すれば、湿気の問題は解決できる)
(崩れた防壁の石材は、再利用できる。石積みの技術……そう、前世の城郭建築の知識で『擁壁』を組めば、コストを抑えて強度を数倍に高められる)
(兵士たちの居住区? 動線が悪いなら、全面的に改築だ。有事の際に最短で防壁に到達できる、効率的なドミトリーを設計しよう)
私の「趣味の図面」は、いつしか「アルトハイム砦・大改修計画」の完璧な設計図へと昇華されていた。オスカーは、私に罰を与えたつもりなのだろう。だが、彼は、最大の過ちを犯した。建築オタクである私に、最高の「実験場」を与えてしまったのだから。
それから数日後。追放の日。私は、父と母からの冷たい視線を受け流し、荷造りをしていた。侍女たちが、哀れみの目を浮かべながら、高価なドレスや宝石をトランクに詰めようとする。
「イレーネお嬢様……辺境は寒いと聞きます。せめて、この毛皮のコートを」
「いらないわ」
私は、それらを無造作に手で払いのけた。
「ドレスも、宝石も、すべて置いていきます。持っていくのは、これだけ」
私が指さしたのは、部屋の隅に置かれた、巨大な木製のトランクだった。侍女たちが数人がかりで運ばなければならない、重い荷物。
「これ……は?」
侍女が不思議そうに蓋を開けると、中身を見て絶句した。シルクのドレスでも、輝く宝石でもない。ぎっしりと、隙間なく詰め込まれているのは、羊皮紙の束。すべて、私がこの数年間で描き溜めた、「図面」だった。
『アルトハイム砦・給排水路計画図』
『南側防壁・擁壁補強案』
『兵士居住区・動線改修案』
『簡易浄水システム導入設計図』
『虎口設置による防衛機能強化プラン』
侍女には、それが何を意味するのか、どれほどの価値があるのか、到底理解できないだろう。これが、私の「趣味」の集大成。私の「実務」の全てだ。
質素な馬車に乗り込む。窓から見える王都の景色は、もうどうでもよかった。貴族たちが、王宮の窓から、哀れな追放令嬢の姿を遠巻きに眺めているのかもしれない。(オスカー殿下、私を追放してくださって、本当にありがとう)私は、馬車の揺れを感じながら、トランクに詰め込んだ設計図の束を愛おしげに撫でた。絶望? 悲哀? そんなものは、微塵も感じない。
(最高のフィールドワークが始まる!)
辺境スローライフ? とんでもない。私にとっては、前世の夢だった「理想の建築」を、制約なしで実現できる、夢のプロジェクトの始まりだ。私は、建築デザイナーとしての喜びに打ち震えながら、意気揚々と王都を後にした。私の「勝手に幸せになる」辺境生活が、今、始まる。
◇ ◇ ◇
その頃。イレーネの追放先である砦と国境を接する、軍事国家。若き王、バシュトラ・ヴァーリは、定例の国境視察に訪れていた。
「……相変わらず、酷い砦だな。我が国をナメているのか?」
彼は、自慢の黒馬の上から、谷の向こう側にある「アルトハイム家の忘れられた砦」を冷ややかに見据えた。実力主義で合理的な彼は、あの砦が、軍事的にも建築的にも、何の価値もない「ゴミ」であることを知っている。
「斥候の報告通りで間違いない。あれは、次の冬を越せずに自然に崩落するだろう」
側近の将軍が頷く。
「あの砦を管理するアルトハイム家も、それを放置する王国も、見栄と伝統だけで中身が腐っている証拠ですな」
「ああ……まったくだ」
バシュトラは、ふと、数日前に届いた「オスカー王太子が、公爵令嬢を婚約破棄した」という、どうでもいいゴシップを思い出していた。
「中身が腐っている……か。あの王太子も、あの砦も、よく似ている」
彼は、もはや何の興味もないというように、ボロ砦から視線を外し、自国の強固な防衛線へと馬を向けた。




