第六十八話『泥人形に心は非ずか?』
第六十八話『泥人形に心は非ずか?』
奴隷を買った―
詳しく言えば、ある晴れた日の昼下がり…と書くことになるが、そこまで大層なことを書き連ねても、意味のないことだ。
だが、買った経緯なら意味もある。
妻を寝取られ、子供も自分の子ではないと突きつけられ、自暴自棄の末に妻を手にかけ…ようとしたところで、間男からの強烈な一撃を顎に叩きつけられ、俺は小便を漏らし涙を流して転げまわるしか出来なかった。
妻からの罵倒の声が遠くなり、間男からの高笑いが遠くなるにつれて、自分の惨めさだけが浮彫になるばかりだった。
ただの商人の俺に…アルトヘイムという国という名前がついた、ただただ大きいだけの田舎で、片隅から三寸先離れただけの場所で店を開いている…それだけの俺に何かを変えることは出来なかった。
だから、奴隷を買った。
俺は変わりたかった。
力で勝てないから、金で見返したいと思い。
妻に逃げられた慰めから、性奴隷でもいいと思って…
自分を変える為に、買えるものを選んだ。
だが、俺の資産で買えそうな奴隷で、そういったコキ捨てれるようなもの、となるとかなり限られた。
…そういう条件も勘案した結果だ。
小生意気そうな男の子か、やせ細って少し触れたら折れそうな小さな女の子しか該当するのがいなかった。
どうかしていた俺は小生意気そうな男の子を見て、あの間男を思いながら屈服させて見たい…そういう嗜虐心に心を奪われそうになったが、踏みとどまれた。
この年にして男色に目覚めるのは…少しばかりだけはばかられた。
ただ、言い訳だけしておくが、俺は男色家ではない。変な気になったのは上述したことと、奴隷市へ行く前に通りで見かけた赤い髪の少年を見かけたからだ。
特段可愛いという訳ではなかったが、珍しい赤髪に、何処か引き込まれるような強い瞳。それでいて表情は柔和で、溌剌そうな男の子だった。
それがあった所為で迷ったが、俺は結局、女の奴隷を買った。
安かった。大銀貨数枚だった。
色々な用途に使われた、使いつぶされたゴミらしい。
愛想もない。可愛げもない。濁った目。労働力として使えれば御の字…その程度の価値しかない奴隷だ。
買った初日に、抱こうと思って無理矢理脱がせてみた。
抵抗はしなかった。むしろ俺が服を引っ張ると、自分から脱ぎだした。慣れているのだろう。
奴隷の体には生々しい傷痕がついているのを見て、俺はため息がすら出た。
それに如何せん、細いうえに何処からどう見ても、子供な彼女を見て、俺は勃起すらしなかった。間男に育てさせられていた子供よりも幼いか同じくらいの彼女の肢体を見ても、視線は自然と彼女に刻まれた傷痕ばかりにいく。
顔のいいのを選んだつもりだったが、よく見ると長い髪の裏に青を通り越した黒い痣は何処か泥の跡のようにも見え、さらには俺が萎えた傷は変色し血のにじんだ泥の色をしていた。それに、ところどころについた火傷跡、鞭からそれとも剣か…といったようなもので付けられた傷。
安いだけはある。
そういう用途で使われていた。逆に言えば、そういう用途でしか使えないのだろう。
これが俺の人生の転換点…とはなりえなかった。
それからも、ただの凡庸な日が続く。
ガキは感情の起伏が少ない。
黙って品出しを頼めば、黙ってする。
飯を食えと渡せば食べる。
寝ていろ、と言えば…俺が嫌いなのか時々泣きべそをかくが、声を殺して寝る。
俺の命令を素直に聞いて、素直に従う。
感情なんてないんだろうな。
そんな彼女を俺は、『泥人形』と呼ぶことにした。
スワッピングもされていた…ことはないだろうが、そういうモノ好きに渡して、嗜虐心の慰めの足しになっていた可能性もあるだろう。
本人の前で言っても気づかないだろうから、俺が一人でいる時にそう呼ぶことにした。だから、俺はそう呼ぶことにした。
ここからは、彼女のことは泥人形と呼ばせてもらう。
泥人形の朝は早い。大体、朝日が昇る前には起きている。
学がないのは当然として、泥人形の中では太陽こそが朝らしい。
そんな泥人形だが、去年1年間で泥人形が寝坊を1回している。
買ってから2週間くらいだった。
使えないが、品出しや雑用には使える泥人形が珍しく寝坊をしたのには少し驚いた。
起きてきた泥人形は顔を真っ赤にしたかと思うと、青くした。服もぐちゃぐちゃで、起きたてホヤホヤの泥人形らしい尊厳のない恰好をしていた。
どうでもいい―
肉人形ですらない泥人形を無視し、自分の仕事をしていると、泥人形はいつもより汚らしいボサボサで整えられていない髪で仕事を始めた。
あまりのボサボサさに俺はさすがに顔を顰めた。
そして、手入れされていない泥人形の髪が、古い商品棚に絡まりややもせずブチブチと音をたて千切れていった。
どうやら泥人形らしく、仕事優先のようだ。自分で自分の髪を無理矢理引きちぎり、自由を手に入れていた。
俺はそれを横目でみて、泥人形の髪が床に放置されたので「片づけておけ」と冷たく言い放ち、泥人形には無駄で、邪魔なだけの髪を適当な紐で結んでやった。
主人である責務は果たした、と俺はまたいつものように仕事を続ける。
その時は泥人形には店を汚さないように、部屋で待機しているように命令した。
昼になれば、泥人形に餌を渡す。
一緒に食うと飯が不味くなる。
基本はパンと水。週に数回だけは干し肉入りのスープと潰した果物を追加した、惨めな食事だ。
泥人形はパンを水に浸して舌を使わずに食べる。蛇やトカゲのような捕食はもはや人間とは思えず、下等であると俺は思い無視している。
味もしないだろうと、呆れを通り越して侮蔑と哀れみだけを抱き、そういった感情で俺は自分を慰め、今日もパンと水を頬張る。
人間でいたい。人間でいられる。それを思えるということはきっと上等なのだろう。
泥人形は仕事が終ればすぐに部屋に戻る。
元とも言いたくはないが、偽物の部屋だ。
あいつに丁度いい。ゴミの部屋にはなんとなく入れたくなかった。あいつもゴミになるんではないかという恐怖と共に、どうせなるなら偽物になって欲しいという願いからだ。
泥人形の部屋からは音は聞こえない。きっと寝ているのだろう。
そして、声もせず、静かに朝を迎える。
新しい朝が来れば、泥人形はまた静かに仕事を始める。
それが、1年続いている。
何か…起こらないか…と思い、毎日を過ごしている。
ある日、思い付きで適当に泥人形の服を脱がしてみて体を確認してみた。
しかし、傷痕をなぞるだけでため息が出る。傷痕だけを確認して部屋に戻るように伝えた。
邪魔に思えてきた時に、売りに出そうか、と考え奴隷市に連れても行ってみた。
だが、値段に納得がいかなかったので、結局捨てられなかった。
別に、あいつが…泥人形が俯いていたからじゃない。泥人形が大銀貨2枚しかしないという金額が気に入らなかった。
正式契約しても同じ値段なら、得した方だろう。
ずるずると、なんの意味もない日々が続いていく。
そういえば、間男は貿易商だと聞いていたのを思い出す。
俺が涙と小便を漏らしている時に、間男だったかそれともゴミのカス女か…どちらかが言っていたと思う。
きっと三人…と人として数えたくはないが、今頃裕福に暮らしているのだろう。
こっちは泥人形と腐りかけのクラッカーをどう処分するかを悩んでいるっていうのに。
食ってみたが、味は普通だ。パッサパサで不毛な大地の先にある雑草を煮詰めて乾燥させて靴で踏み固めたような味…つまり旅人の味だ。
泥人形が口に入れれるように、割ってから渡すと、その不味さに珍しく目を見開き眉を曲げた。
それでも捨てるのも勿体なく、スープに浸してみたり、パンに載せて地獄の料理を作ってみたり、果物をすりつぶした物の中に混ぜ込んで何とか消費した。
こんな惨めな俺と泥人形と違い、きっと今頃あっちは旨い肉でも食べているのだろう。
下に残った不毛な味を払拭するために、俺は昨日仕入れてみた『ヒイト』のドロップ(※甘味を固めたものの総称)の封を開き、口に入れる。
ほのかな甘みを感じるが、あまり好みではない。旅人なら好むだろう。
泥人形にも一つ渡すと、泥人形は舌に当たらないように口に入れ今度は目を大きくしばたたかせた。
この商品は泥人形には気に入られたようだ。泥人形ですら気に入るのだから、人間にも少しは需要もあるだろう。
俺は封を開けたドロップはもう売り物にならないので、泥人形に押し付け寝ることにした。
真面目に仕事はするものだ。
俺みたいなカス…泥人形を蔑むことしか出来ない屑…どうしようもないゴミ…人間ですらないきっと偽物の俺に…チャンスは回ってきた。
悪徳と有名なクソカス同業者…青い長い髪を持つ、クソゴミ腹黒なウェンディからの依頼だ。
変わった極東の女が、精霊石鹸を作っており、その販路拡大の人足という仕事だ。
さらに、極東と東方間の貿易ルートを利用し、順延をこちらで受けての大陸への販路開拓だ。
馬鹿の考えた計画…と思ったが、意外にも何とかなりそうだったから、ウェンディに脅されながらも俺も一枚噛んで、何とか物には出来た。
ウェンディの『チョコレートスワンプ計画』。
第二案として、”チョコレートの海に沈めぇ!私こそがギルドだ!私が!私達がギルドだ!計画”は名前が酷過ぎたので、協力者一同で差し止めた。多分、あのイカレたウェンディですら冗談だったと思う。
冗談だよな?
計画内容は各国にチョコレートを広めることで、出来た交流を使っての販路を作り、疑似的な商人だけの『形無きギルド』を作る…と口に出しても、書き出しても頭がおかしくなりそうだが、上手くいきやがった。
大陸に血管のような細くも全身に行きわたる経済網が出来つつある。
チョコレートを発端とした、沼のように点在した需要。そこから伸びいる小さな河川が広がり、川の流れを増し、やがて沼のように沈める…
さすが、『勇者』の末裔。
やること成すこと規格外だ。
もはやこいつが『魔王』だと思える。
結果だが、場末の商店に客足が増え大繁盛…ということはないが、東方国家、極東からの商品を並べれるようになり、固定客や物見遊山な客が増えることにはなった。
さらには冒険者ギルド『青き風』の副長、リリアから一部の商品の定期的な納品依頼も受けることが出来、まずまずだ。場末からは変わらなくても、少しはマシになった。
ただ、好転たる転機は来ない。
相変わらず俺の隣には泥人形がいるだけだ。
それでも、俺は忘れていることがあった。転機は…好転だけではないんだ。
ウェンディからのクソのようなお使いを終え、俺の泥人形を治験で貸して欲しいと言われ承諾し、治験が終った帰りだ。
通りを歩きながら、少しはマシになった黒ずみのような痣を泥人形は何度かこすっていた。
見える位置にはないだろうが、額の痣を撫でている。痛みが違うのだろうか。それでも、体のあの部分にあるものはさすがにここでは確認はしていない。
羞恥くらいはあるのだろう。泥人形にしては、人間に上手く化けていると、俺は…俺にため息を吐いた。
好転しない転機が訪れる―
俺と泥人形が並んで歩いていると、悲鳴のような金切声が上がった。
俺はその声に自然と体が竦み上がり、顔をあげると同時に全身の血の気が引いていくを感じた。
目の前に、あれがいた。
ゴミだ。
ゴミが…俺を睨み、白刃を手にもち、血走った眼で俺を睨んでいた。
何か叫んでいる。だけど、遠い。意識が遠く、耳に入らない。
お前の所為で、あの人の仕事が…とかそういうことを言っている気がする。
あの人に捨てられたと、俺に場違いなことを言っている気がする。
どれも気がする…それだけで、俺は何も言えず、恐怖だけが体を支配していく。
それすら人間の特権だ。
だから、人間じゃない奴は違う。
ゴミ…元妻が白刃を構え俺に突進してきた…その間に割って入るように、華奢な体が俺と元妻の間に割って入った。
白刃が細く、華奢な彼女を貫く。
舌をズタズタにされていたから、マトモに味わう権利すらもたない泥人形が、それでも必死に明日を生きるために、辛くても食べていたから少しは肉がついてきた…そんな彼女が…いや、泥人形が…彼女の背から翼でも生えるように白刃が突き出し、赤い血しぶきを散らした。
赤い血しぶきが俺にかかる。それと共に、俺は思わず拳を突き出し、元妻の顔面を殴りつけていた。
元妻はきっと訳が分からなかったのだと思う。
泥人形が俺をかばうなんて思わなかったのだろう。
俺が泥人形…彼女の為に拳を振るうなんて思わなかったのだろう。
自分が正しいと信じていたのだろう。
俺の拳からも血しぶきが上がる程の一撃。肉の先にめり込むほど当たった一撃で元妻は何かを呻くようにつぶやき、地面をのたうち回っていた。
―あぁ、やっと殺せる
俺はそう思うと同時に、膝を折っていた。
俺は元妻のこめかみに、止めのこぶしを…振り上げられなかった。
―何をしてるんだ?
遠くで俺は俺を見ていた。
俺は…
どうして…?
俺はただ、ひざを折って、彼女を抱きしめていた。
どうして、俺は泥人形を抱きしめて、泣いているんだ?
どうして…?
どうして?
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして?
―どうして…こいつが、死ななきゃならないんだ?
俺の中で俺の声がこだまし続ける。
俺が…何をしたっていうんだ?
俺が…泥人形…彼女に何をしてあげられたっていうんだ?
「なんでだよ?」
俺は彼女に尋ねるが、何も応えてくれない。荒い息と、強い瞳…人間の特権である強い瞳が俺を写している。
そんな瞳からは涙がこぼれている。
泥人形の彼女の瞳に映った、本物の泥人形からも涙がこぼれていた。
泥人形が涙を流すものか…
流せば、泥が剥がれ、元の土くれになってしまうじゃないか…
ああ…俺とお前は人間だったな…。
俺はそう思うと同時に、彼女の失いつつある体温を噛みしめる。
それにしか出来なかった。
回復薬は手元にない。ウェンディのところへ走って向かえば…なんて考えが生まれても、そうしている間に彼女を手放すことが怖くて出来なかった。
俺の背中から死の足音が響く。
あいつが…元妻が立ち上がったのだろう。
きっと恐ろしい顔をしている。
俺のような屑で、弱い人間ではきっと勝てない。立ち向かうこともできない。
分かっているから俺は歯を食いしばる。弱気な撤退。祈るしかできない。俺は屑だ。
もう一人は嫌なんだ。
全部失ったから、もう失いたくないんだ。
屑の俺に、黙って付き従ってくれた。
寂しさを紛らわせる為の道具として扱っていたのにもかかわらず…。
きっと、体調はずっと悪かっただろうに…。
それでも働いてくれていた。限界が来て寝坊しても必死に頑張っていた。
簡素な物しか出せないどころか、舌がズタズタなのにそんな彼女に配慮すら出来ない…経済力のない俺にずっと付き従ってくれた。
仕事で失敗して、落ち込んでいる時に夜にすすり泣いていたのも知っている。
奴隷市に本契約する為に連れて行った時に、すがるように俺の服を摘まもうとしていたのも…知っているんだ。
そんな…愛しい彼女を守ってやれなかった。
俺は屑だ。
俺はやっぱり人間ですらない。あの時、俺は死んで、泥になった。泥が集まっただけで形作られたのが今の俺なんだ。
俺は…俺が泥人形なんだ。
「お前と死ねるなら…」絞り出す声と共に、彼女に…
―それでも、君には生きていて欲しい。
そう伝え俺は目を閉じた。
悲鳴のような叫びが響く。
怨嗟の悲鳴。怨嗟の怒号。怨嗟の塊。
そこまで俺を恨んでいたんだな。こんな情けない取るに足らない…人間でありながら、本物でありながら、人間にですらない、偽物にすらもなれなかった泥人間を。
きっとそれも愛だったんだろうな。
後悔が頬を撫でる。
その後悔が…吹き飛ばされる。
それは…一陣の風だった。
「だぁあああああああ!」
咆哮の如き声。獣の如き唸り。それでいて、何処か高音で、優しさと柔らかさのある女の子の声のようだった。
それと同時に、風を切り裂き、纏うような優しき風が舞う。
―赤い髪が揺れた
鈴の音…高い金属音が打ち据えられたのではなく、やさしく撫でるように鳴り響く。
どこまでも優しい音が響く。
少しして、石畳に何かが落ちる。
それは鈍い金属音を鳴らした。
元妻は両手を万歳…したように無防備な体勢となっていた。
そして、元妻の前には小柄な赤い短い髪の冒険者がいた。
短い剣。簡素な鎧を纏っただけのきっと、見習いかその程度の冒険者…。
それでも、その剣は光を浴び、風を纏い…美しかった。
あの時…俺を導いた風。
男色家へ導きそうになった少年が…そこにいた。
元妻の体が後ろへ倒れそうになる。だが、無理矢理腕が軋む様に動き、片目だけぐるりと反転させ、俺ではなく赤い髪の冒険者を睨みつける。
間男へ俺がいただいた感情のような、怨嗟の瞳。
「また貴様か!」
元妻が吠える。
知り合いか?と思っている間もなく、元妻は口から泡を吹き、目を白くして、後ろへと倒れていく。
元妻が倒れ…俺はただそれを見ることもなく、俺の大事な奴隷に目を向けることしかできなかった。
そんな俺の頬に痛みが走った。
「あなたが諦めるんですか!?」
物腰が柔らかい口調なのに、強い言い方だ。
その声の主を知っている。
青い髪。長い髪。クソ。腹黒女…。
「ウェンディ…!」
俺がそうこぼすと、ウェンディは俺を平手打ちした手を引っ込めて、自分のスカートの裾を千切る。
そのまま彼女はナイフに布をあてがいながら、「ツケですよ!」と怒声とも焦りとも決意ともとれる声と共に、ポシェットから恐らく売り物ではないであろう回復薬を取り出す。
色は水色…低級の物だ。それでも、それしかない。それに懸けるしかない。
ウェンディもそれが分かっている様子で、歯を食いしばりポーションの蓋を開ける。
祈るしか俺にも、ウェンディにも出来ない。
俺はミスばかりだ。間違いばかりだ。
奇跡にすがるしかもう、ないんだ。
人間ですらない泥人形の俺には傲慢だとしても。
「あの!そっちは飲み薬として使ってください!」
声が響いた。
ウェンディが目を剥きながら、声のした方を見る。
声がした先には、若い女性がいた。少し野暮ったい雰囲気はあるものの、細いが丸い顎や目じりの下がった目が何処か優しさを感じさせる。
何処かでと思った時には雑貨屋の娘だと思い出す。
彼女はその手に持つ、緑色の回復薬を差し出し、「お礼はいりません!」と強く、言い放った。
内気な子…そうとばかり思っていた。ウェンディのチョコレートスワンプ計画にも参加しないような堅実な家の子だった。
なのに…。どうして大胆なことをしてくれるんだろう、と…
俺は彼女が差し出してくれた回復薬を受け取った。
あの日から…1週間が経った。
激動の日だった。
それでも終ってみればそれだけで、変わったことと言えばウェンディが態々小言を言いに来る回数が増えたくらいだ。
「あの日の回復薬のこと忘れてませんよねぇ?」
と恨み節に俺に何度も言ってくる。
たった一週間だが、もう聞き飽きた。
なんでも、あの雑貨屋の子が、無料で中級かそれ以上の回復薬を渡してくれたのだから、それを差しおいて低級の回復薬でお金を取るのは気が引ける…だそうだ。
そんな殊勝な性格だったか?とウェンディの正気を疑いたくなるが、きっと、こっちが本物のウェンディなのだろうと、俺は納得する。
俺が本物を知らなかっただけなのだろう。
知るのが怖かったから、怖い者だと勝手に決めつけていたのだろう。
俺がウェンディの愚痴を聞いていると、倉庫へ続く扉が開く。
そこから、やせた少女…いや。銀の髪に、細い手足。少し釣り目気味だが、優しい印象を覚える大きな瞳。消え切らなかった痣と傷痕が痛々しく目立つものの、まっすぐ希望に溢れた…綺麗な瞳をした人間の少女が笑顔を見せてくれた。
「おはようございます。店長」
彼女の言葉に「おはよう」と日課になった挨拶を返し、「もう整理してたのか?」と続ける。
そんな俺と、奴隷の間に入るようにウェンディが口を尖らせ「もう働かされてるの?嫌ならいつでもおいで~ですよ」と冗談っぽく彼女が言う。
ウェンディの言葉に奴隷の少女は困ったように眉を伏せる。
俺はそんな人間の彼女に。
「うちの大事な店員だ」
娘の部屋を使わせている奴隷に「いつかここを継いでもらわないといけないからな」と続けた。
彼女はいつものように口数は少なくも、俺の傍へと立った。
俺は『ヒイト』のドロップの封を開け、「ほら」と差し出すと、彼女は困ったようにそれでもおずおずと受け取った。
「…あなたが元奥さんに逃げられた理由分かったかも」とウェンディはため息を吐く。
もう過ぎたことだ、そう冷静に思いながら俺は『ヒイト』のドロップの封の開けていないものを、奴隷の少女へと渡す。
奴隷の少女は困った顔で受け取りながら、
「あの…店長。私、私の意思でここにいたいです」
その言葉に俺は『ヒイト』のドロップをさらに手に取ろうとしたが、今度は奴隷の少女に止められた。
何故だろう?と俺が考えあぐねていると、奴隷の少女は頬を赤くし。
「言わなきゃ…ダメ…ですか?」と照れたように尋ねてきた。
『エクストラ』
いつものように店を開き、店を閉め。奴隷の少女と食事を終えたある日。
元、娘の部屋、現在は奴隷の少女の部屋へと向かう。
彼女は普段から神経質なのか、綺麗好きだ。部屋にはチリ一つなく、家具も最低限を好む。
これは彼女を買ってから3週間くらいした頃にはすでに分かっていたことだ。
娘の置いていった品には手を付けず、きちんと整頓し片づけていた。
奴隷の少女は自分に与えられたベッドとその周りにだけ自分の物を置いて、服はきっちりと折りたたんで床に置いていた。
その後、どうせならと娘の残していった物を処分すると、部屋は瞬く間に囚人の部屋のようにすっきりとした。
置いてあるのはベッドとクローゼット。床にはチリ一つない。
新築の我が家の姿がそこにだけ広がっていた。
違うのは奴隷の少女がいるだけ…という点だ。
俺が今日そんな彼女の部屋に来てすることは、一つしかない。
久しぶりに奴隷の少女の服を脱がしてみた。
嫌がりはしないが、最近は恥ずかしいらしい。
傷跡は少しは目立たなくなってきているが、それでも痛々しい。軟膏を塗っているが、あまり良くはならない。
最近は事情をウェンディに話したところ、彼女が1週間に一度くらいのペースで軟膏を塗るのをやってくれている。
話した時、ウェンディにはいつも通りゴミを見るような目で見られたが、いつものことだ。
なので、回復しているかどうかも俺は全く知らなかった。脱がしてもいないから特にだ。
今日はどれくらい目立たなくなったのか気になったからだ。
もしかして…軟膏ではダメなのだろうか?
そういった疑問も浮かんではくるが、俺の経済能力では無理だ。
どうするかと考え、ふと路地裏で見かけた猫の親子を思い出した。
ケガをした子猫の傷を親猫が舐めて治していた。あの後見かけたが子猫に傷痕は見えなかった。
…という内容を奴隷の少女に伝えてみると。
「店長…舐めるんですか?」と困惑した瞳で見つめられた。
「猫の舌にはそういう能力があるかもしれない」と俺が返すと、彼女は珍しくため息を吐き、
「猫、飼いたいんですか?」と続けて聞かれたので、俺は「おぁ前がほほほほ、欲しぃならぁ!?」といたって冷静、常に冷静、極めて冷静、至極当然冷静に、冷静に冷静にれれれれれれれ冷静に返すと奴隷の少女は小さく微笑み。
「私も…好きです」
「よし、行こう」
答えと共に駆け出す。すると、奴隷の少女から悲鳴があがり、「ちょ…!」という声と、玄関を開けたところで平手打ちを受けた。
解せない…。
こんなことがあってはならない。
俺は…怒りで震えた。
猫が…猫が待っているのに!!!!!
あ、違う。猫が治療してくれるのに。
その後、アルトヘイムの小さな場末から3寸先にあるような小さな道具店に新たな看板が掲げられた。
極東や東方国家の商品だけでなく、南方、北方の黄金酒を取り扱う奇異な店は一部の冒険者達に親しまれ、ついには店先にて酒とつまみを楽しめる場所となった。
看板娘である大人しい黒猫が欠伸をし、冒険者達相手に接客を振りまく。
店員である、大人しくも芯の強い少女が常に店内と店先を整理整頓し清潔にし。
店主である男は静かに泥人形のように商品を売る。
そんな変わった店に、掲げられた新たな看板には親猫と子猫の並ぶ絵と共に『銀の子猫』と書かれていた。
そんな看板の上に黒猫が飛び乗り、幸せそうに欠伸をした。
すみません。また短いサイドストーリーです。
PCが壊れました。
私の心も壊れました。
…書いていたデータが吹っ飛ぶのは何度経験しても…痛みのショックで死んでしまう!ですね。
今、復旧中です。復旧している際にふと思ったことがあったので、軽く書いてみたものです。




