第7話: 祈りの外側
朝の空気は澄んでいた。
魔族領に近いとは思えないほど、穏やかな村だった。小さな畑と、低い石壁。人々の視線は怯えと期待が混じっている。
勇者様が来てくださった。
その言葉が、何度も繰り返される。
わたくしは微笑む。
微笑みは、自然に作れる。
それが聖女の務め。
信じること。
祈ること。
導くこと。
それがわたくしの役割。
村の少年が運ばれてくる。
腕に深い裂傷。
魔族の爪だろう。
出血は多い。
わたくしは膝をつく。
手を重ねる。
祈りの言葉を紡ぐ。
光よ。
癒やしを。
いつもなら、胸の奥から熱が立ち上がる。
指先へと流れる。
確かな感触。
今日は——
薄い。
灯りが遠い。
言葉を重ねる。
集中を深める。
光は、出ない。
「……」
額に汗が滲む。
おかしい。
もう一度。
祈る。
それでも。
何も起きない。
少年の呼吸が荒い。
勇者様が心配そうに見る。
いけない。
動揺してはいけない。
わたくしは聖女。
祈りは届く。
届くはず。
その瞬間。
少年の傷が、ふさがり始める。
光は、ない。
わたくしの手からではない。
それでも、肉が閉じていく。
血が止まる。
呼吸が安定する。
村人が歓声を上げる。
「奇跡だ……!」
奇跡。
わたくしは、手を見つめる。
何もしていない。
祈りは、届いていない。
なのに、治った。
「ありがとうございます、聖女様!」
頭を下げられる。
わたくしは微笑む。
「神の御加護です」
声は震えていない。
だが、胸は冷たい。
次の治療。
老女の足の裂傷。
今度は最初から、祈りの感触がない。
空洞。
空白。
言葉だけが響く。
だが結果は同じ。
傷は塞がる。
わたくしを介さず。
わたくしの“内側”を通らず。
ただ、塞がる。
まるで——
最初から治ることが決まっていたかのように。
治療が終わる。
村は安堵に包まれる。
勇者様は優しく笑う。
「助かったな」
「ええ」
わたくしは頷く。
だが視線を合わせられない。
わたくしは、何もしていない。
夜。
宿屋の一室。
祈りの時間。
いつもなら、光が満ちる。
胸の奥に確かな温もり。
今日は、ない。
静寂。
どれだけ言葉を重ねても、
どれだけ信仰を深めても、
何も返ってこない。
「……どうして」
問いかける。
返事はない。
当然だ。
神は声で答えない。
だが、感触はあった。
ずっと。
選ばれた日から。
あの光。
あの確信。
それが、今はない。
わたくしは立ち上がる。
勇者様の部屋の前。
扉越しに、気配を感じる。
穏やか。
安定。
傷はない。
今日の戦闘も軽微だった。
祈りを使わずとも。
わたくしは、気づいている。
ここ数日。
わたくしの祈りが弱まるほど、
勇者様は無傷に近づいている。
比例していない。
逆だ。
まるで——
わたくしの役割が、
差し引かれているかのように。
暗殺者が廊下の影にいる。
「眠れないのか」
「ええ」
「祈りは?」
直接的。
逃げ道のない問い。
「……届きません」
初めて、口にした。
暗殺者は、驚かない。
「でも、治る」
「ええ」
「それでいいんじゃないか」
冷たい言葉ではない。
ただ、事実。
「よくありません」
即答する。
「わたくしが祈らずとも奇跡が起きるのなら、わたくしは何のためにここにいるのです」
声が震える。
初めて。
「勇者のためだろう」
「それは……」
違う。
それだけではない。
わたくしは神に選ばれた。
意味がある。
役目がある。
でなければ。
「……わたくしは、不要なのではありませんか」
言葉にした瞬間、足元が崩れるような感覚。
暗殺者は沈黙する。
否定しない。
肯定もしない。
その沈黙が、何より残酷。
部屋に戻る。
鏡を見る。
聖女の姿。
白い衣。
穏やかな瞳。
その奥が、空洞に見える。
翌日。
小規模な魔族襲撃。
勇者様が前に出る。
鋭い一撃。
魔族が吹き飛ぶ。
反撃。
本来なら致命傷。
だが、刃は逸れる。
勇者様は無傷。
わたくしは祈らない。
あえて。
祈らない。
試す。
最低の行為。
だが、確かめたい。
勇者様は勝つ。
完全に。
わたくしの祈りなしで。
戦闘後。
「助かった」
勇者様が笑う。
わたくしは微笑み返す。
胸の奥で、何かが静かに死んだ。
夜。
祈らない。
言葉を紡がない。
それでも、世界は変わらない。
星は瞬く。
勇者様は眠る。
傷はない。
わたくしは、膝を抱える。
信じてきたものが、
わたくしを必要としていない。
それでも。
明日も微笑む。
聖女だから。
だが心の奥で、確信している。
祈りは、届いていない。
奇跡は、わたくしを通っていない。
わたくしは、
祈りの外側に立っている。
静かに。
完全に。
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などをいただけると執筆の励みになります! よろしくお願いいたします




