五、逢魔が時に紅(あか)に染まる校舎
空は、不吉なほど赤かった。
茜色などではない。まるで鮮血をぶちまけたような、粘りつく真紅。太陽は死んだ魚の目のように濁り、肺を焼く空気には鉄の匂いが混ざっている。
世界は、正気とは思えない色に染まりきっていた。
「何……この空」
礼夏は、震える両手で自分の口を塞ぐのが精一杯だった。信じられないものを前にして、まばたきをすることさえ忘れたように、その赤い世界に目を釘付けにされる。
「どう……なってんだよ、これ」
義翔が呆然と声を漏らす。
誰も次の一言が出てこない。
その、あまりに不自然な静寂を切り裂くように、背後から、ひたり……ひたり……と、裸足で廊下を踏みしめるような足音が響いた。
「っ!」
振り返ると、あの和服の女が、関節という関節を無視するように身体を揺らし、獲物を見定めるように廊下の奥から一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「やばい!職員室に逃げるぞ!」
考希の叫びに、金縛りにあっていた八人は、弾かれたように地を蹴り、一斉に走り出す。
「……はら……だ」
義翔の肩を借り、必死に足を動かしていた弥信が、か細い声で、いつもとは違う呼び方をした。
「呼び捨てかよ。……どうかしたか?」
義翔は前を見据えたまま、荒い呼吸を無理やり整えて、絞り出すような声で応えた。
「私を……置いていって……お願い。私、この間……登校する時……に、あの人と……会ったの……。狙いは……私……」
「それ以上言ったら、ぶん殴るぞ」
弥信はそんな義翔を見て、一瞬だけ視線を伏せた。すぐに前を向いて踏み出そうとしたが、足が不格好にもつれる。
(息が……苦しい……)
胸の奥が鉛のように重い。肺が空気を拒んでいるかのように、呼吸はどこまでも浅く、速くなった。
「大丈夫か?ほら、辛いなら背負ってやる。おぶされ」
義翔は低く、押し殺した声で弥信にそう言うと、無言のまま背中を向けた。
「……ごめん。ありがとう、原田くん」
「⋯しっかり捕まってろよ」
義翔は弥信の細い身体を落とさないようグッと抱え直し、再び廊下を蹴る。
八人は階段を駆け下り、一階の職員室へと向かった。
だが、その入り口を視界に捉えた瞬間、全員の足が凍りついた。
職員室の扉から天井にかけて、異様な数の蜘蛛の群れがびっしりと張り付いていた。
その一つひとつがバスケットボールほどの大きさで、毛むくじゃらの脚を波打たせて蠢いている。
「どう……します?開けます?」
結仁は引きつった表情のまま、助けを求めるように先輩たちの顔を何度も見比べた。
「いや、無理だよぉ……。噛まれたら大変だし……何より気持ち悪いよ」
悌は激しく首を振り、悲鳴に近い裏返った声を漏らした。
「な⋯情けないわね」
礼夏が強がりの罵声を投げ、震える手でドアノブへ手を伸ばそうとした、その時。
一匹の巨大な蜘蛛が、威嚇するようにその顎を大きく裂いた。
「――ベチャッ!」
糸ではない。どす黒い紫色の粘液が、勢いよく床に叩きつけられた。
次の瞬間、鼻を突くような強烈な刺激臭とともに、シュウシュウと白い煙が立ち上がる。学校の頑丈なリノリウムの床が、まるで熱せられた飴細工のように、ドロドロと醜く溶け落ちていったのだ。
「嘘……床が溶けてる……」
「空華!」
呆然と立ち尽くす礼夏の腕を、考希が強引に掴み寄せた。
その瞬間、礼夏の足元に黒い液がべちゃりと跳ねた。
「あ……ありがと……」
「カサ、カサカサ……」
礼夏の言葉を遮るように、無数の節足が床を叩く不快な音が響き渡る。それは八人を包囲するように、四方八方から這い寄ってきた。
「ここはダメだ! 体育館裏へ抜けよう! そっちの裏口から学校の外に出るぞ!」
義翔は礼夏の腕を強引に引き、弾かれたようにその場を翻した。
八人は、背後から迫り来る蜘蛛の群れと、床を溶かす毒液から逃れるように、一階の廊下を駆け抜ける。
ようやく渡り廊下へ飛び出した彼らの前には、校舎を飲み込むほどの「巨大な影」が立ちふさがっていた。
「なにあれ……っ?!」
「あれは餓者髑髏ですね」
忠穂が震える声で指さす先には、白磁のように白い、異様な骸骨。
その頂点は渡り廊下の屋根を軽々と突き破り、遥か高みにまで達している。校舎を掴み潰さんばかりに広がる肋骨からは、巨大な骨同士が擦れ合う「がしゃり、がしゃり」という音が、物理的な圧力となって押し寄せていた。
「冷静に解説してる時じゃないでしょ!」
さも当然のように答える結仁に、礼夏が金切り声を上げた。
「大きな声出しちゃダメだよ!」
二人に悌はシーと青ざめた顔で中指を唇に当てて見せる。
逃げようとした瞬間、餓者髑髏の虚ろな眼窩に、どろりとした視線が灯った。
「だから言ったのにぃぃぃ」
「走るぞ! 止まるな!」
義翔が叫ぶと同時に、結仁は悌の腕を掴んだ。
「行きますよ!有馬先輩!」
結仁はそう叫ぶなり、動けない悌を無理やり引っ張って裏口へと駆け出した。
背後で轟く「ガシャガシャ」という凄まじい質量音。吹き荒れる突風に思わず振り返れば、そこには校舎を丸ごと飲み込むほどの巨大な掌が、すぐ頭上まで迫っていた。
「嘘でしょ……」
「走れ!止まるな!」
呆然とする忠穂の背を、義翔が弾かれたように突き飛ばした。
背後で校舎が砕ける地響きが止み、不気味なほどの静寂が訪れた。
その静寂を切り裂くように、場違いな音が響き始める。
「ヒタリ……ヒタリ……」
近づいては止まり、また近づく。
獲物を追い詰めるようなその「歩み」は、じわりじわりと、確実に彼らの背後へ迫っていた。
「……っ、開かない!」
横に引けば開くはずの扉は、目に見えない錆にでも固められたかのように、微動だにしない。
「何してる、どけ!」
智陽が駆け寄り、フェンスを掴む。だがフェンスは鈍く、拒むような感触だけが掌に返ってきた。
「なんでだ。いつもなら……!」
歯を食いしばり、智陽が全体重をかけて扉を押し込むが、金属が軋む鈍い音が鳴るだけで、一ミリの隙間も生まれない。
その時だった。
――ずるり。
背後から、布が土の上を擦る音と、神経を逆なでするような女のケタケタという笑い声が、すぐそこまで迫っていた。
「登れ! 乗り越えろ!」
弾かれたように、全員がフェンスに飛びついた。靴底で金属を蹴る音が激しく響く。
必死によじ登る彼らの眼下——。
あの「ヒタリ……」という音が、フェンスの真下で止まった。
不意に、冷たく細い「何か」が弥信の足首を掴んだ。
「……っ!?」
直後、ぐいっ、と強烈な力で下へと引き戻される。
「きゃっ……!」
悲鳴と共に、弥信が恐怖に顔を歪めて見下ろす。
フェンスの真下、暗がりの底からこちらを見上げ、ニヤリと笑う女の顔があった。
「安堂!」
義翔が叫んだ瞬間、考希がフェンスを飛び降りた。
「こっの!」
考希はしゃがみ込み、両手で砂を掴むと、女の顔めがけて叩きつけた。
「……ッ!」
一瞬、女の時間が止まった。
食い込んでいた細い指の力が緩み、弥信の足首がふっと軽くなる。
「今だ、のぼれ!」
考希は叫び、弥信を押し上げると、自分も再びフェンスに取りつく。
「部長早く!」
「高松くん!」
部員たちが叫び、必死に手を伸ばした。
視界の端で、白いものが動いた。
地面を這うように伸びる、異様に細い指。
それが女の手だと理解し、考希は慌てて身体を引き上げようとする。
次の瞬間。
「ウゥー!」
足元から、獣の低い唸り声と、鋭い吠え声が立て続けに聞こえた。
「今だ、行け!」
背後からの声に、考希は無我夢中でフェンスを越え、地面に転がるように着地する。
「――ぎゃあああああっ!!」
女が悲鳴を上げた。その声を食い破るように、犬の吠え声と甲高い絶叫が辺りを満たした。
だが、誰も振り返らない。
八人はそのまま、薄暗くなり始めた夕暮れの中を走り去った。




