第四話 喋る白犬と鏡の中の神社
弥信は、果ての見えない闇の中に放り出されていた。
音もなく、どこまでが自分でどこからが闇なのかも分からない。
(ここ……)
確かめるように体に力を入れた。
だが、身動きをとろうとしても、体はぴくりとも動かなかった。
視線を落とす。
手足は、まるで出番を待つマリオネットのように、力なく垂れ下がっていた。
わずかに揺れるたび、関節の奥が軋む。
動かそうとした力が白い糸に吸い取られ、ぴんと張り詰めるのが分かった。
(あ…れ…わたし…)
視線で糸をたどるが、どこから伸びているのか分からない。ただ、暗闇の奥へと消えていた。
(なんで……私……)
考えようとしても、頭に薄い霞がかかったようで、浮かんだ思考は指の隙間からこぼれるように消えていく。
「ふふふふ…」
背後で、かすかな笑い声が弾んだ。
振り返りたくても首は動かず、代わりに視界の端で何かが蠢いた気配だけを捉えてしまう。
空気を切る音すらしないその手が、弥信の頬に触れようとするのが分かる。
(……怖い)
心臓が早鐘を打つ。
感じたことのない恐怖が、じわじわと胸を締め付けてきた。
弥信は必死に「来るな」と祈り、目をぎゅっと閉じる。
その瞬間、糸が一斉に引かれ、体が強く引き上げられる感覚に包まれ――。
「……っ!」
ハッと弥信が目を覚ますと、視界に映るものすべてが、上下逆さまになっていた。
「あれ?」
混乱していると、ドアを叩く音とともに、ガチャリと扉が開いた。
「⋯あんた何してんの」
部屋に入ってきた母親が、呆れ顔で弥信を見ていた。
グルンと体をねじって体勢を直すと、はじめて自分が二段ベッド縁から頭をはみ出し、天井を仰ぐ格好で寝ていたことに気づく。
「早くしないと遅刻するわよ」
「⋯はぁ⋯い」
生返事を聞き流し、母親はバタリと扉を閉めた。
(何だったんだろ⋯さっきの夢⋯)
呟いた弥信は、昨日の授業で蜘蛛がのった手を見た。
その視界は、まるで度の合わない眼鏡をかけた時のようにぼやけている。
「あれ?……おかしいな」
弥信が何度目を擦っても、世界の輪郭は滲んだままだ。
「なんだろ……」
なんとも言えない不安が雨雲のように心に溜まっていった時。
「みぃことー!」
一階から急かす声が響く。弥信は慌てて着替え、リビングへと駆け下りた。
「おはよう」
弥信が席に着くと、父親が読んでいた新聞から顔を上げる。
「弥信、ベッドから落ちそうになってたんだって?」
「……うるさいなぁ」
弥信は口を窄めて席に座り、食パンを口に運びながらテレビの音に耳を傾けた。
「警察によりますと、また新たに行方不明者が確認されました。
行方が分からなくなっているのは、オカルト系動画チャンネル『オカルトマニアチャンネルズ』のリーダー、“TAKKU”こと高橋拓海さんで……」
「ぶっ」
弥信は飲んでいた麦茶を吹き出し、激しく噎せた。
「ちょっと大丈夫?!」
「大丈夫⋯大丈夫。なんでもない」
驚いた表情の両親に掠れた声で言うと弥信は、再びテレビに視線をうつした。
ニュースでは、行方不明事件についてゲストコメンテーターたちがそれぞれ意見を述べている。
「なんだか最近多いわよね。怖いわ。一緒に高校まで行こうか?」
「いーよ。子供じゃないんだから」
嫌がるのを見越したようにからかう母親に頬を膨らませ、「いってきます」とだけ言って、弥信はカバンを手に家を飛び出した。
「みぃーこーとぉー」
学校に着くと、今にも泣き出しそうな顔の忠穂が走り寄ってきた。
「おはよう忠穂」
「うん……聞いてよぉ。TAKKUがぁ⋯本当に消えちゃったんだよぉ……」
「見た。まだ何かあったって決まってないから。ね? 大丈夫だよ」
そう言い弥信は忠穂の頭を優しく撫でた。その時、はじまりのチャイムが鳴り2人は席に戻った。
チャイムが鳴れば、気だるい体育、眠気を誘う授業。
当たり前の退屈な風景が、繰り返されていく。
そして、再び終業のチャイムが鳴った。
教室中にざわめきが広がり、生徒たちが一斉に立ち上がる。
椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音、どこか気の抜けた笑い声。
弥信も忠穂と顔を見合わせ、帰り支度をしながら席を立った。
「明日の部活さ――」
忠穂がそう言いながら教室の扉に手をかける。
それにつられるように弥信が一歩踏み出すと、視界の端で白い影が揺れ、思わず足を止めた。
廊下の中央には、首輪のない真っ白な柴犬がじっとこちらを見つめて立っていた。
きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回しているのに、不思議と足音は聞こえなかった。
「えっ?」
弥信が声を漏らした時、柴犬と目が合った。
その視線は、犬のものとは思えないほど、まっすぐだった。
「お前……このままでは……」
低く、太い声が確かに聞こえた。
「えっ?」
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
耳を疑い、弥信は思わず目を丸くした。
「⋯喋っ⋯」
弥信が言い終わる前に、背後から鋭い先生の声がした。
「いたぞ!」
犬ははっとしたように耳を立て、くるりと踵を返すと、迷いなく廊下の先へ駆け出した。
「待って!」
考えるより先に、弥信は無意識に足を踏み出していた。
「弥信!」
忠穂の叫び声が背中に届いたが、足は止まらない。
犬は人混みの中をすり抜けるように走り、生徒たちの悲鳴やざわめきを背に、階段を一気に駆け下りていく。
弥信も息を切らしながら追いかけた。
そして――踊り場に差し掛かった瞬間。
犬はためらわず、3階と2階の踊り場にある鏡の中へと飛び込んだ。
「えっ?」
弥信が恐る恐る鏡を見ると、鏡の中に映っていたのは、見慣れた校舎ではなかった。
そこには、古びた鳥居がひっそりと立ち、苔むした石段が静かに続き、深い森に囲まれた神社の佇まいが、鏡の奥で不思議な存在感を放っていた。
「……?!」
息を呑み、弥信は慌てて振り返る。
目に映ったのは、見慣れた学校の廊下。
しかし、さっきまでの喧騒は消え、辺りはしんと静まり返っていた。
「えっ?なんで誰もいないの?……まさか鏡のせい?」
弥信は再び鏡に向き直る。
「……」
恐怖よりも先に、強烈な引力のようなものが胸を引いた。
弥信は、そっと手を伸ばす。
指先が冷たい鏡面に触れた――はずだった。
次の瞬間、ずぶり、と。
ガラスの感触はなく、腕が水に沈むように鏡の中へと入り込んでいく。
(ウソっ?!入れる)
まるで引き寄せられるように、弥信は、一歩、足を踏み出そうとした、その時。
「弥信!」
鋭い呼び声に、体がびくりと跳ねた。
振り返ると、そこには忠穂、義翔、智陽が肩で息をしながら立っている
「みんな……どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ!」
忠穂が弥信に詰め寄る。
「先生たちも騒いでたし……もー!心臓止まるかと思ったんだから!」
「はは……ごめん、ごめん」
弥信は両手を前に出し、誤魔化すように苦笑した。
「原田くんと固城くんはどうしたの?」
弥信が尋ねると智陽が眉をひそめて口を開く。
「仲西さんがすごい形相で『弥信が!』って言うから、僕たちも追ってきたんだ」
「そっか⋯ごめんね」
智陽の言葉に、弥信はもう一度だけ笑い、鏡へと視線を戻した。
だが、そこにはもう神社など映っていない。ただ、少し不安そうな顔をした自分の姿があるだけだった。
(……消えてる)
「で? 犬はどこへ行ったんだ?」
義翔の問いに、弥信は力なく首を振った。
「ごめん、見失っちゃった」
そう答えると、三人は顔を見合わせ、首を傾げた。
「まあ、もういないならいいか」
「うん。さっ、帰ろう」
弥信はそう言うと三人の背中を押す。
最後にもう一度だけ、踊り場を振り返った。
巨大な姿見には、ただ蛍光灯に照らされた廊下と、少し青ざめた自分の顔が映っているだけだった。
「弥信? ぼーっとしてないで行くよ」
忠穂の声に、はっと我に返る。
「うん……今行く」
弥信は踵を返すと足早に階段を駆け下りた。
「にしても、校舎に犬って……管理どうなってんだろ」
そんな会話を交わしながら、四人は階段を下りていく。
その背後で、夕闇に染まり始めた姿見だけが、去りゆく四人の背中を静かに見守っていた。




