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現代八犬異聞  作者: 暁の空


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第二話 手のひらの火種

教室に入ると、まだ授業前のざわめきと、数人の生徒が黒板に落書きをするチョークが擦る音が耳に入ってくる。


「おはよう、弥信」

「おはよう、忠穂」


弥信は親友の仲西忠穂《なかにし あつほ》に軽く笑みを浮かべ、席に腰を下ろした。

忠穂が弥信の席にくると手をぶんぶん振りながら、途切れることなく喋り続ける。


「ねえねえ、昨日の『オカルトマニアチャンネルズ』見た!?」


忠穂がずいっと弥信に顔を近づける。

その拍子に、ボブの髪がふわりと揺れ、仕草の端々から天然めいた愛らしさがにじんでいた。


「TAKKUがさ、石碑を蹴っ飛ばしたら、なんか糸でグルグル巻になってさ、どっかに連れてかれたんだよね」

「何それ? 忠穂、朝から怖い話はやめてよー」


弥信は苦笑いした。

忠穂のオカルト好きにはすっかり慣れっこだ。けれど、笑いながらも、今朝道端で見かけたあの「和服の女性」の姿が、ふと脳裏をよぎる。

弥信は小さく肩をすくめ、頭を振った。


キーンコーンカーンコーン。

チャイムが鳴り、忠穂と弥信は顔を上げる。

と、タイミングを見計らったように、担任の先生が教室に入ってきて、黒板を見下ろしながらにやりと笑った。


「誰だぁ落書きしたの。……にしても、うまいな、ゴリラ」


呟きながら黒板に描かれたゴリラを消していく先生の背中を、クラスメイトたちはくすくす笑いながら見つめる。

弥信も思わず肩の力を抜き、少しだけ朝の緊張感を忘れた。


「先生きちゃった。TAKKUの話、続きは次の休み時間にしようね」


小さく息をつく忠穂に弥信は笑みを返した。

忠穂が席に戻る背中を見ながら弥信は、教室のざわめきの中でいつも通りの日常が流れていくのを感じた。


授業が始まると、教室には先生が黒板にチョークを走らせる、カツカツという一定のリズムが響き渡った。

窓の外では風に揺れた木の枝が影を落とし、教室の中には、平和で、そして少しだけ退屈な時間が流れ始める。

弥信はノートに視線を落とし、言われるままに板書を書き写していた。

 

 視線を落とすと、白いノートのページの端に、一匹の小さな黒い蜘蛛が止まっていた。

 


(うわ、蜘蛛……。どっから来たんだろ)

 

 

小声でそう呟きながら、弥信はノートを軽くバサバサと振って追い払おうとした。

普段なら、こんな小さな蜘蛛くらい気にも留めないのだが、今日はなぜか妙に気になる。朝のあの出来事のせいだろうか。あの光のない瞳の女性のことが、まだ頭の片隅に引っかかっている。ほんの少しだけ、些細なことが引っかかりやすくなっている気がした。

だが、蜘蛛は逃げるどころか、カサカサと乾いた音を立てるように、弥信の手の上を這い上がってくる。その動きは不自然なほどまっすぐで、まるで意志を持っているかのようだった。

 

「え、ちょ……」

 

思わず息を呑んだ次の瞬間だった。

手のひらに、チクリと、まるで熱した針を突き刺されたような鋭い痛みが走る。

 

「いたっ!」

 

反射的に声が漏れ、弥信は勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦る音が静かな教室に響き渡る。

同時に、刺された箇所からぞわりと、何かが皮膚の下を這い回るような生理的な違和感が広がっていく。血管を伝って毒でも流れ込んできたような、ひやりとした感覚が腕を駆け上がる。心臓がどくんと大きく脈打った。

だがそれはすぐに引き、代わりに、じんわりとした痺れだけが残った。

 

「大丈夫か、安堂」

 

先生の低く穏やかな声に、はっと我に返る。

気づけば教室中の視線が、一斉に弥信へと向けられていた。前の席の生徒が振り返り、隣の席の友人が心配そうな目でこちらを見ている。黒板の前で立ち止まった先生も、チョークを持ったまま弥信を見つめていた。教室全体に、一瞬だけ時間が止まったような静寂が降りる。

 

「えーっと……」

 

焦りに駆られ、弥信は助けを求めるように視線を泳がせる。

けれど、逃げ場はどこにもなかった。教室中の好奇と心配の入り混じった空気が、重くのしかかってくる。何か説明しなければいけない。でも、何をどう説明すればいいのかわからない。

 

「あー、……なんでもないです。すみません」

 

そう言って、弥信は慌てて席に腰を下ろした。頬が少し熱い。恥ずかしさで耳まで赤くなっている気がする。周りの視線が痛い。早く授業を再開してほしい。

 

「そうか。気をつけろよ」

 

先生がそう言って授業を再開させると、教室には再びチョークの音が戻り、何事もなかったかのように授業が流れ始めた。ざわついていた空気も、徐々に落ち着いていく。何人かはまだちらちらとこちらを見ているが、やがてそれも黒板へと戻っていった。

弥信はそっと手のひらを見下ろした。

赤くも腫れていないし、出血もない。

少しヒリつく程度で、見た目には何の変化もなかった。蜘蛛に刺された痕跡すら見当たらない。あの蜘蛛も、いつの間にか姿を消していた。どこへ行ったのだろう。

(気のせいかな……。蜘蛛って刺すんだっけ?)

 

そういえば、蜘蛛は噛むことはあっても刺すという印象はない。でも、確かに痛かった。あの鋭い痛みは、間違いなく本物だった。

そう結論づけて、弥信はペンを握り直した。

さっきまであった違和感も、意識しなければそれほど気にならない。授業に集中しよう、そう自分に言い聞かせる。今は数学の時間で、先生が二次関数の応用問題を黒板に書いている。

黒板に書かれた板書をノートに書き写していくうちに、思考はすぐ授業内容へと戻っていった。教科書のページをめくり、先生の説明に耳を傾ける。いつもの日常のリズムが戻ってくる。ペン先が紙の上を滑る音、誰かがページをめくる音、先生のチョークが黒板を叩く音。それらが重なり合って、いつもの教室の空気を作り出している。

けれど、刺された場所が、じりじりと熱を帯びているのがわかった。

その感覚は、時間が経っても消える気配がなく、むしろ静かに、しつこく存在を主張し続けていた。まるで皮膚の下に小さな火種が埋め込まれたように、ちりちりと微かな熱が燻っている。ペンを持つ手の感覚が、わずかに鈍い。

弥信は何度も手のひらを確認したが、やはり何の異常も見当たらない。

ただ、熱だけが残っている。それは徐々に範囲を広げているような気さえした。手のひらから手首へ、そして腕へと、じわじわと這い上がってくるような感覚。

 

(……変なの)

 

小さく首を傾げ、弥信は再びノートに視線を戻した。

周りの生徒たちは真面目に授業を受けている。誰も異変に気づいていない。それが当たり前だ。何も起きていないのだから。弥信だけが、この違和感を抱えている。

けれど、弥信の中では、何かが確実に動き始めていた。

朝、土手道で出会った光のない瞳の女性。

そして今、手のひらに残る消えない熱。

それらが点として存在していたものが、次第に線で繋がっていくような、そんな予感が胸の奥でざわりと蠢いた。

 

(なんか今日は変なこと多いな……)

 

弥信は小さく息を吐き、ペンを走らせる手に少しだけ力を込めた。

大丈夫、何も起きていない。いつもの日常が、ここにある。

そう自分に言い聞かせながら、弥信は授業の終わりを待った。

 

チャイムが鳴れば、また忠穂と好きなYouTuberの話をして忘れてしまうだろう。お昼ご飯を一緒に食べながら、くだらない冗談で笑い合えば、きっとこの違和感も消えてしまう。朝の出来事も、蜘蛛のことも、ただの偶然だったと思えるようになる。

そう思いながら、弥信は黒板へと視線を戻し、淡々とノートを取り続けた。

けれど、手のひらの熱だけは、授業が終わるまで、ずっと弥信に寄り添い続けていた。

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