二、黄昏に響く怪異
授業は淡々と進み、弥信は黒板の文字を目で追いながら、ノートに書き写す。
ふと、視線をむけた窓の外では陽の光が少しずつ傾き、教室の中に差し込む光の角度も変わっていった。
やがて終業のチャイムが鳴った。
(何だったんだろ……)
胸の奥に、言いようのない違和感を残したまま、弥信はペンをしまった。
ノートを閉じ、カバンを肩にかけようとしたその時。
「弥信。部活行こう……あれ?どうしたの? 手、痛いの?」
忠穂は心配そうに、弥信の掌に視線を落とした。
その視線に釣られるように、弥信も一瞬だけ自分の手を見る。
見た目は何も変わらない。それでも、皮膚の内側に熱がこもっている感覚だけは確かだった。
弥信は授業中に見た、あの奇妙な蜘蛛の話をしようと口を開きかけた。
(……いや、忠穂に心配かけちゃう)
そう思い、弥信は一度口を噤むと、誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
「うーん、さっきちょっとぶつけちゃってさ」
「そうなの?大丈夫?」
「うん。このとおーり」
弥信はグッパーと手を動かして見せた。
指は問題なく動くし、痛みも我慢できないほどではない。
それを確認して、ようやく自分自身にも言い聞かせる。
「そぉ?痛いならちゃんと保健室行きなよ?」
「ありがとう。ほら、部活行こう」
弥信は忠穂の腕を軽く引くと2人は教室をあとにした。
廊下には、軽音部の軽快なドラムと、少し音を外したギターの音が響いている。忠穂の熱心な『オカルトマニアチャンネルズ』の話を聞きながら歩くうちに、手の痛みと軽い痺れは不思議と気にならなくなっていた。
やがて、2人は所属する演劇部が活動するホールの扉を開け、中に入った。
外のざわめきが扉一枚で遮断され、空気ががらりと変わる。
そこは、三クラス分ほどの客席を備えた本格的な空間だった。
場内は薄暗く、客席は影に沈み、舞台だけがスポットライトを浴びている。
光の柱の中では、細かな塵がゆっくりと舞い、まるで時間だけが別の速さで流れているようだった。
「すみません。遅くなりました」
弥信と忠穂は、並ぶ客席の間を足音を響かせながら抜け、舞台へと続く階段を駆け下りた。
「生き延びたければ、その剣を捨てよ。己の正義を曲げることが、そんなに難しいか?」
舞台の上では、空華礼夏が長い髪を靡かせ、台本を片手に凛とした声を響かせていた。
その声は、薄暗い空間を真っ直ぐに貫き、客席の奥まで届いている。
「たとえこの身が滅びようとも――
義を捨てて、生き永らえるつもりはない!」
背後から響いた声に、弥信と忠穂は同時に振り返った。
そこには、同じ2年生の原田義翔が役になりきった鋭い眼光で立っていた。
一瞬、舞台上の空気が張り詰める。
「すみません。遅くなりました」
そう言って、肩までの茶髪を揺らしながら、義翔は弥信と忠穂の後に続いて階段をおりた。
張りつめていた空気が、ふっと現実に引き戻される。
「いや、大丈夫だ! さっきはじめたばかりだからなっ!」
3年生の部長、高松考希が、満面の笑みでニカッと笑う。
「さっ、続けるわよ! 演劇大会まで時間がないんだから……」
礼夏はそう言って台本を閉じると、一拍置いて、ぽつりと付け足した。
「……でも、さっきの登場いいわね。台本、書き換えようかしら」
礼夏の言葉に、全員がぎょっとして動きを止め、視線を彼女へ向けた。
「えっ……でも……本番まで、あと一ヶ月だよ?」
三年生の有馬悌が、くせのあるボブヘアを揺らし、困ったように首をすくめた。
その視線は周囲を行き来し、皆の反応を探るように彷徨っている。
「だとしたら、義翔の移動が大変になりませんか?」
二年生の固城智陽が、冷静な口調で意見した。平均より少し高い背で舞台全体を見渡し、演出の流れを頭の中で組み立てている様子だった。
「俺は面白いと思いますよ」
一年生の金城結仁が目を輝かせて言うと、弥信も大きく頷いた。
「私も面白いと思います。観客はかなりびっくりするんじゃないですかね」
「それならやってみて決めようじゃないか! よし、そのシーンから始めよう!」
考希がパンと手を叩いた。
その音を合図に、場の空気が一変する。
スポットライトの下で、役者たちの声は次第に熱を帯び、感情がぶつかり合いはじめた。
何度か台詞を重ねたところで、稽古はひと区切りつく。
「今日はここまでだ!皆、お疲れさん!」
考希の声に、部員たちから一斉に息の抜けた返事が返る。
ホールの照明が落とされると、張り詰めていた空気も少しずつ緩んでいく。
8人は校舎を出て、群青と橙が混ざり合う夕暮れの空の下、校門をくぐった。
「さっきの登場、絶対インパクトありますよね」
結仁が興奮冷めやらぬ様子で目を輝かせながら言う。
「だな。まぁ俺の走る距離増えるけどな」
義翔が軽く肩をすくめて笑う。
「怪我しないように気をつけなよ?」
悌が念を押すように言い、智陽は無言で頷いた。
その時。
「ヒョー、ヒョー……」
鳥とも獣ともつかぬ、笛の音を掠れさせたような不気味な声が黄昏時の空に響いた。
「なに……今の」
忠穂は弥信のコートの裾を握り、少し体を弥信に寄せた。
「トラツグミ?」
「こんな季節に?」
智陽の言葉に礼夏が答えると、辺りを見渡した。
しかし、鳥の影ひとつ見当たらず、周囲に動物の気配もなかった。
「ヒョー、ヒョー」
全員の視線が、ある一点に吸い寄せられ……思わず、息を呑んだ。
屋根の上に、それはいた。
猿のような顔。
狸のように、ずんぐりとした胴体。
虎を思わせる筋肉質な手足には、鋭い爪が食い込み、尾は蛇のように長く、ゆらりとうねっている。
あまりにも不調和で、
あまりにも「ちぐはぐ」な生き物が、夕日に照らされていた。
次の瞬間、
その生き物は、ありえないほどの跳躍力で宙を舞い、
屋根の向こう側へと消えた。
しばらくの間、誰も声を出せなかった。
冷たい風が吹き抜け、ようやく全員、自分たちが立ち尽くしていたことに気づく。
いつの間にか太陽は沈み、暗くなった道に街灯がひとつ、静かに灯っていた。
「……なんだよ……今の」
義翔 は目を見開き掠れた声を漏らした。
「鳥……じゃないよね……」
忠穂が言葉をこぼす。
「鵺……」
礼夏の言葉に、全員の視線が彼女に集まった。
「んなわけあるか!だって鵺は…」
「鵺ってなんだ?」
智陽が言いかけると、考希が問い返す。
その呑気な問いに、張りつめていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「妖怪ですよ」
結仁が苦笑いを浮かべ、続きを説明する。
「平家物語に出てくる、不吉の象徴です。さっきのヤツ、特徴がそのまんまでした」
「なるほどな。伝説がそのまま出てきたってわけだ」
そう呑気に考希は笑う。
「ホント、あんたは呑気ね。鵺は⋯大きな異変の前触れに現れるのよ」
「前触れ……」
礼夏の言葉に、弥信は蜘蛛に噛まれた手をもう片方の手でぎゅっと握りしめた。
「……今日はこのまま帰った方がいいよ」
悌の低い声は、普段の穏やかさを失っていた。
冗談でも脅しでもない。
そう判断せずにはいられなかった。
一瞬の沈黙のあと、誰からともなく小さく頷きが返る。
「……そうだな。今日は解散だ。全員、気をつけて帰れ」
そう言ってから、考希はちらりと屋根の方へ視線をやり、すぐに逸らした。
誰も振り返らなかった。
屋根の向こうの暗がりに、何かがまだ潜んでいる気がしても、確かめようとする勇気を、誰も持てなかった。
足音だけが、夕闇に溶けていく。
街灯の下で影が長く伸び、八人分の影が不規則に揺れた。
角を曲がり、それぞれの帰り道へと分かれていく。
ただ、黄昏の空に響いたあの不気味な声だけが、現実だったのか。
その答えを胸の奥に押し込んだまま、八人は急ぎ足で家路についた。




