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一、怪(あや)しきもの

弥信みこと! みーこーとぉ!」


階下から響く母親の元気な声が、少しだけ歌うように伸びて、安堂弥信あんどう みことの眠りを優しく引き剥がす。

当の本人は「わかってるってば……」と小さく呟き、布団から顔を出した。

カーテンの隙間から差し込む淡い朝の光が、まだ眠気の残る部屋をぼんやりと照らしている。

どこにでもある、十一月の朝。

頭の芯がまだ目を覚ましきらない、そんな時間帯だ。

スマホの画面を一度だけ確認し、弥信は重たい身体を起こした。

 

「もー、いつまでも子供だと思って……」


弥信は小さくぼやくと二段ベッドからおり、制服に袖を通した。

ネクタイを適当に整え、勉強机の横にかけてあったカバンを掴むと、軋む階段をゆっくりと下りていった。


リビングに足を踏み入れた瞬間、こんがり焼けたトーストの香りと、テレビから流れる朝のニュースが、いつものように弥信を迎える。

この匂いと音の組み合わせに、ようやく一日が始まる実感が湧いてくる。


「おはよう、弥信」


父親の穏やかな声がかかる。


「おはよう、お父さん。おはよう、お母さん」


短く挨拶を返すと、母親が慌ただしくも手際よく皿を差し出してきた。

 

「早く食べちゃいなさい。遅刻するわよ」

「はぁい」

 

トーストを受け取り、一口かじったところで、テレビの音がふと耳に引っかかった。

 

「また行方不明事件です。行方不明になったのは、都内で活動していた作家の山崎 信也さん、32歳で――」


母親がリモコンを握ったまま画面を見つめ、眉をひそめる。


「また行方不明事件ですって。物騒ねぇ」


弥信も思わず動きを止め、画面に流れる文字を目で追った。

 

(ふーん、また……?)


最近、こういうニュースをやけに多く見る気がする。

けれど深く考えるほどのことでもないと、弥信はトーストを齧りながら、ぼんやりと画面から視線を外した。

 

「弥信も気をつけなさいよ」

「はぁい。行ってきます!」

「「行ってらっしゃい」」


明るい声に背中を押され、弥信は玄関を出る。

冷えた朝の空気が頬に触れ、11月の風がマフラーの隙間から忍び込んできた。

イヤホンを耳に押し込み、お気に入りの曲を流しながら、弥信はいつもの通学路へと歩き出した。


「~♩」


鼻歌混じりにしばらく歩いていると、ふと前方に、人の気配を感じた。

視線を上げると、道の真ん中に人目を引くような、鮮やかな和服の美しい女性が立っていた。落ち着いた藍色と灰色を基調にした、派手すぎない色合いの着物は、朝の光に淡く照らされ、静かな存在感を放っている。


(うわぁ、めちゃくちゃ美人。女優さんかな)


思わずそう考え、足を止めかけた。

次の瞬間、女性と視線がぶつかり、胸の奥で冷たい何かが、ぞくりと走った。


――おかしい。


そう思ったのは、彼女の目を見たときだった。


(あっ)


彼女の瞳には、光がなかった。


一瞬だけ、時間が止まったような感覚。

次の瞬間、女性は弥信に向かって艶っぽく微笑んだ。

その顔立ちは整いすぎていて、その笑みは完璧に形作られた、作り物のようにも見える。

笑顔に潜むわずかな歪みが、無意識のうちに弥信の背筋を寒くさせた。


「っ!」


思わず足を引こうとしたが、視線が離せず、弥信の心臓は早鐘のように打つ。


(……怖い)


呼吸が浅くなり、手のひらにじんわりと汗が滲んでくる。


(無視·····無視·····)


イヤホン越しの音だけを頼りに、弥信は何も考えないようにして足早にその場を去る。

歩いている間、何度も振り返りそうになるのを堪えながら·····。

気づけば、校舎の前に立っていた。


教室に入ると、まだ授業前のざわめきと、数人の生徒が黒板に落書きをするチョークが擦る音が耳に入ってくる。


「おはよう、弥信」

「おはよう、忠穂」


弥信は親友の仲西忠穂なかにし あつほに軽く笑みを浮かべ、席に腰を下ろした。

忠穂が弥信の席にくると手をぶんぶん振りながら、途切れることなく喋り続ける。


「ねえねえ、昨日の『オカルトマニアチャンネルズ』見た!?」


忠穂がずいっと弥信に顔を近づける。

その拍子に、ボブの髪がふわりと揺れ、仕草の端々から天然めいた愛らしさがにじんでいた。


「TAKKUがさ、石碑を蹴っ飛ばしたらさ」

「うん」

「なんか、糸でぐるぐる巻きにされて」

「……朝からそれ?」

「で、そのままどっか連れてかれたんだよ!」

 「何それ? 忠穂、朝から怖い話はやめてよー」


弥信は苦笑いした。

忠穂のオカルト好きにはすっかり慣れっこだ。けれど、笑いながらも、今朝道端で見かけたあの「和服の女性」の姿が、ふと脳裏をよぎる。

弥信は小さく肩をすくめ、頭を振った。


キーンコーンカーンコーン。

チャイムが鳴り、忠穂と弥信は顔を上げる。

と、タイミングを見計らったように、担任の先生が教室に入ってきて、黒板を見下ろしながらにやりと笑った。


「誰だぁ落書きしたの。……にしても、うまいな、ゴリラ」


呟きながら黒板に描かれたゴリラを消していく先生の背中を、クラスメイトたちはくすくす笑いながら見つめる。

弥信も思わず肩の力を抜き、少しだけ朝の緊張感を忘れた。


「先生きちゃった。TAKKUの話、続きは次の休み時間にしようね」


小さく息をつく忠穂に弥信は笑みを返した。

忠穂が席に戻る背中を見ながら弥信は、教室のざわめきの中でいつも通りの日常が流れていくのを感じた。


授業が始まると、教室には先生が黒板にチョークを走らせる、カツカツという一定のリズムが響き渡った。

窓の外では風に揺れた木の枝が影を落とし、教室の中には、平和で、そして少しだけ退屈な時間が流れ始める。

弥信はノートに視線を落とし、言われるままに板書を書き写していた。


その時、ふと、ノートの上に違和感を覚える。

視線を落とすと、白いページの端に、一匹の小さな黒い蜘蛛が止まっていた。


「ありゃ、蜘蛛さぁん、どいてくださーい。ノート取れないよー」

 

小声でそう呟きながら、弥信はノートを軽くバサバサと振って追い払おうとした。

だが、蜘蛛は逃げるどころか、カサカサと音を立てるように、弥信の手の上を這い上がってくる。


「え、ちょ……」


次の瞬間だった。

手のひらに、チクリと、まるで熱した針を突き刺されたような鋭い痛みが走る。

 

「いたっ!」


反射的に声が漏れ、弥信は勢いよく立ち上がった。

同時に、刺された箇所からぞわりと、何かが皮膚の下を這い回るような生理的な違和感が広がる。

だがそれはすぐに引き、代わりに、じんわりとした痺れだけが残った。


「大丈夫か安堂」

 

先生の声に、はっと我に返る。

気づけば教室中の視線が、一斉に弥信へと向けられていた。

 

「えーっと……」

 

焦りに駆られ、弥信は助けを求めるように視線を泳がせる。

けれど、逃げ場はどこにもなかった。


「あー、……なんでもないです。すみません」

 

そう言って、弥信は慌てて席に腰を下ろした。

 


教室には再びチョークの音が戻り、何事もなかったかのように授業が再開される。


弥信はそっと手のひらを見下ろした。

赤くも腫れていないし、出血もない。

少しヒリつく程度だ。


(気のせいかな)


そう結論づけて、弥信はペンを握り直した。

さっきまであった違和感も、意識しなければ気にならない。


ノートの余白を埋めていくうちに、思考はすぐ授業内容へと戻っていった。

しかし、刺された場所が、じりじりと熱を帯びている。

その感覚は、時間が経っても消える気配がなく、むしろ静かに存在を主張し続けていた。


だが、それでも弥信は首を傾げただけだった。

チャイムが鳴れば、また忠穂と好きなYouTuberの話をして忘れてしまうだろう。

そう思いながら、弥信は黒板へと視線を戻し、淡々とノートを取り続けた。

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