第十五話 薬と涙と、庭に響く声
考希の背中を見送り、弥信も立ち上がった。
「すみません。おトイレ貸していただけませんか?」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
アマビエに案内され、静かな廊下を進む。足音だけが廊下に響く中、弥信は周囲の様子を見渡した。白い壁には薄明かりが灯り、どこか非現実的な雰囲気が漂っている。曲がり角をいくつか曲がり、ようやく小さな扉の前で足を止めた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
弥信は丁寧に頭を下げる。
「それと、終わりましたら少しお話よろしいですか?」
「あっ、はい」
そう答えて、弥信はトイレの中へ入った。
(話ってなんだろ……)
治療のこと? それとも別の何か? 考えれば考えるほど、不安は膨らんでいく。もしかして、自分の症状が予想以上に深刻なのだろうか。それとも、何か重大なことを知っておくべきなのか。心臓がどきどきと早鐘を打つ。
(……考えても仕方ない)
弥信は小さく息を吐き、軽く頬を叩いて気を切り替えた。
用を済ませ、手を洗い、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。少し疲れているが、大きな変化はない。目の下に薄くクマができている程度だ。
深呼吸をひとつして、弥信は覚悟を決めて扉を開けた。
廊下には、アマビエが穏やかな表情で静かに待っていた。
廊下を進む足音だけが、静かに響いていた。窓の外からは柔らかな陽の光が差し込み、白い壁を淡く照らしている。弥信は無言でアマビエの後ろを歩きながら、これから何を言われるのかと考え続けていた。
曲がり角を曲がるたびに、廊下の景色は少しずつ変わっていく。飾られた絵画、木製の棚、古めかしい花瓶。どれも丁寧に手入れされているようで、この場所の歴史を感じさせた。
やがて、見覚えのある扉の前に辿り着く。
そこは、先ほど寝かされていた部屋へと案内する。
アマビエが静かに扉を開けると、弥信が横たわっていたあの部屋が現れた。
「座ってくださいね」
そう言いながら、アマビエは部屋の机の上に置かれた数本の注射器を示した。中には、美しいエメラルドグリーンをした液体が入っている。透明なガラス越しに見えるその色は、まるで深い海の底を思わせるような、神秘的な輝きを放っていた。
「あの、それは?」
弥信は恐る恐る尋ねた。
「これは、あなたの体を蝕んでいる玉梓の毒を抑える薬です。これを打てば、あなたの苦しみは一時的ですがなくなります」
「一時的……。全てなくすには、やっぱり玉梓を倒さないと……」
弥信の言葉に、アマビエは静かに頷いた。
「ええ。根本的な解決には、玉梓を封印する必要があります」
「……そうですよね」
弥信は小さく呟き、視線を落とした。
「しかも、この薬はあまりに強い。打てるのはせいぜい1日、3本までです」
「連続で打ったら……どうなります?」
弥信の問いに、アマビエは少しだけ表情を曇らせた。
「わかりません。かなりの負荷が体にかかるのは確かです。最悪の場合、命に関わる可能性もあります」
その言葉に、弥信は息を呑んだ。
喉の奥が乾き、心臓が早鐘を打つ。自分の体が、そこまで危険な状態にあるということ。それを改めて突きつけられた気がした。
弥信は押し黙り、俯いた。
言葉が出てこない。怖い。不安だ。でも、弱音を吐いてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
「大丈夫。伏姫さまが必ず封印してくださいます。それまでの辛抱です」
アマビエはポンと弥信の背中に優しく手を添えた。その温かさに、少しだけ気持ちが落ち着く。
「はい……」
弥信は小さく頷いた。声が震えないように、必死で堪える。
「では、次はお昼を食べたら打ちましょうね」
「わかりました」
そう言い、弥信は深く頭を下げると、部屋をあとにした。
廊下に出ると、先ほどと同じ静けさが戻ってきた。弥信は一人、ゆっくりと歩き始める。窓の外を見れば、青い空が広がっている。いつもと同じ空。でも、自分の世界は確実に変わってしまった。
(私、どうなっちゃうんだろ)
廊下を歩いている途中、言いようもない恐怖が胸に込み上げてきた。
足が止まる。呼吸が浅くなる。
胸の奥が締め付けられるように苦しくて、弥信はその場に蹲った。
涙が、とめどなく流れる。
(怖い……怖いよ……)
朝、土手道で出会ったあの女性。
授業中に刺された蜘蛛。
そして、自分の体を蝕んでいる「玉梓の毒」。
全てが繋がっていて、全てが自分を追い詰めている。
昨日までの日常は、もう戻ってこない。
普通に学校に行って、忠穂と笑い合って、家族とご飯を食べて——そんな当たり前の日々が、遠く霞んで見える。
(もう、元には戻れないのかな)
震える手で顔を覆う。涙が指の隙間から溢れ落ちて、床にぽたりと落ちた。
考希も、忠穂も、みんな自分のために動いてくれている。
伏姫という人が玉梓を封印してくれるまで、耐えればいい。
アマビエもそう言っていた。
でも、その「耐える」ことが、どれほど辛いことなのか。
薬を打てば一時的に楽になる。けれど、それは根本的な解決ではない。
しかも、1日3本まで。それ以上打てば、命に関わるかもしれない。
(死んじゃうのかな、私)
その言葉が頭をよぎった瞬間、涙が一気に溢れ出した。
死にたくない。
まだ何もしていない。まだやりたいことがたくさんある。
家族にも、友達にも、会いたい。
(お母さん……お父さん……)
両親の顔が浮かんだ。
今朝、いつも通り「行ってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた二人。
もう、あの笑顔を見られなくなるかもしれない。
弥信は膝を抱え、声を押し殺して泣いた。
誰にも聞かれたくない。弱いところを見せたくない。
でも、涙は止まらなかった。
静かな廊下に、弥信の小さな嗚咽だけが響いていた。
と、どこからか明るい声が聞こえ弥信は顔を上げた。
その声を頼りに歩いて行くと、庭に他のメンバーが集まっていた。
「おっ!安堂!遅かったな。迷子か?」
「何をしてるんですか?」
考希の言葉に弥信は苦笑いを浮かべながら他のメンバーを見た。
「いや、ここで何もしないのもなと思ってな。皆で演劇の練習をしてる」
「なるほど」
短く答えると、弥信はすーっと息を吸う。
「私もやらせてください」
「何を言ってる。安堂だけでなく、部員の誰かが欠けても、この舞台は成り立たない」
考希はニコリと笑う。
「はい。……で、どのシーンからですか?」
考希を見る弥信の表情は、すっかり演劇部のものだった。
しばらく、稽古が続いた時。
「おっ。なんだか賑やかだな」
そう声をかけながら、家の中からがたいのいい男が姿を現した。
それは、あの日教室で会った男だった。
「あっ!あなたはあの時のわんちゃん」
「んまぁ……俺にも、八房って名前はあるんだがな」
八房は頭に手を置いて複雑そうな表情をした。
「あの、あの時はありがとうございました」
弥信が頭を下げると、他のメンバーもそれに続いた。
「いやいや。みんな無事で何よりだ。んで?演劇の練習か?」
「はい、僕たち今度演劇大会に出るんです」
「ほお」と八房は言うと小さく蓄えられた髭を触る。
「ならば本当の剣術を教えてやろう。そのほうが迫力が出るだろ」
「いいんですか?」
「おぉ!もちろんだ」
八房は結仁に、ニッと笑ってみせた。
「あら……なら、そのお話、少しだけ変えませんか?」
そう言い伏姫は8人に近づいた。
「皆さん楽しそうですね」
その様子を眺めながら、茨木童子はそっとアマビエに近づいた。
そして礼夏と話す伏姫に視線を向ける。
「そうですね。最近はずっと気を張っておられましたからね」
そう言い、アマビエは目を細めて見つめる。
八房が剣の型を見せるたび、考希や弥信たちは笑顔で応じる。
伏姫が指摘するシーンの細かい動きにも、礼夏は真剣な眼差しで取り組み、忠穂も小さく頷きながら覚えようとしている。
庭には笑い声と掛け声が交じり合い、練習は和やかな空気に包まれていた。




