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完全記憶能力は普段の生活にはあまりと言うか、まったく影響は無かった。
寧ろその有難みを実感するまでは、上手く使えてもいなかった様だ。
記憶を呼び起こすって、映像を延々と逆再生させていくものだと思っていたのだけれど、まったくそんな風ではなく、アルバムを捲る作業に近かった。
視覚から得た記憶は映像として脳内に保存されてはいるが、結局のところ一時停止させて閲覧する様なものなので、自分が必要とするその画像を探すのがちょっと大変だった。
裕は目を瞑りスイッチがあるかの様にイメージして、こめかみの少し上辺りを掻き毟る様にして映像を巻き戻したり早送りをする。
あの辞書の何ページの様な記憶の紐づけができていれば、その作業も比較的早く簡単に済むのだが、最近見た気がするなと言う曖昧な記憶を呼び出すのは大変だった。
しかし完全記憶能力の本当の凄さは、一度見てさえいれば意識していなかったものでも覚えていると言う点だった。
例えば今見えているものの中で認識できている事などあまり多く無いが、記憶として呼び起こすと視界の隅に写っていた物まで拡大可能ではっきりと確認出来た。
なので参考書や辞書は捲るだけで丸暗記できて、必要な時に呼び起こしてじっくり確認するとか、時間がある時に勉強すると言う事もできた。
そして多分黒猫が一緒にくれただろう能力がまた凄かった。
今までだったなら辞書や参考書を読んだくらいでは理解出来なかっただろう事が、すんなりと理解できる様になっていた。
と言うか、理解するために必要な事を一緒に紐づけで呼び起こし、しっかりと理解させてくれるので、例えるなら家庭教師が絶えず一緒に居てくれる感じだった。
自分の頭が良くなった様な錯覚を覚えてしまうが、それはあくまでも記憶に頼った場合にのみ有効なので、そもそも自分の記憶にない物は理解できなかったし、試験や勉強の様な事にはその威力を発揮できるのだけれど、普段の裕にはあまり変わった所は無いように思えた。
と言うより、普段の生活に上手く取り入れる事がまだできずにいるというのが正解だろうか。
しかしこれから先完全記憶能力を上手く利用したら、例えば六法全書を丸暗記して司法試験に合格し、司法に携わる職業にもなれるだろう(ならないけど)し、同じ様な理由で医師にもなれるかも知れないだろう(ならないけど)
なので知識を記憶として蓄えておくだけでしかないとは言え、裕の可能性はかなり広がった様にも思えるが、それでも学歴重視の日本では、今現在中卒の裕には宝の持ち腐れ以外の何物でもなかった。
せいぜいがクイズ王をめざし有名になれるかも知れない(ならないけど)といった所だろうか。
まぁ何にしても、これから裕が何を選びどう生きて行くかが重要になっていくのだろうという事は自分でも分かっていた。
という訳で、意気込んで臨んだ夜間定時制高校の入試は呆気なく終わった。
簡単過ぎて拍子抜けした位だった。
これならば、高卒認定試験に挑んでも大丈夫だろうと思えるほどだった。
なので取り敢えずは折角受けた高校なので一応は入学するが、高卒認定試験に合格できたら間に合えば来年は大学入試を目指そうかとも考え始めていた。
高校で4年を過ごすなら、大学で4年を過ごし学歴を大卒にした方が、家族に対してステータス自慢をしたい裕にとってタイパ的に良いだろうと考えた。
しかし葵さんがあれ程喜んでくれた高校生からのやり直しではあったし、高校での学校行事の様なものをもう一度初めから体験するのも良いかも知れないと思っているが、そういう行事を楽しく感じるのはきっと友達が居てこその事だろうとも思う。
裕が通い始める夜間定時制高校がどんな所かはまだ何も分からないが、高校と言う閉鎖された狭い世界で裕と同じ価値観の友達ができるかどうか、高校生をやり直して迄得られるものがあるかは全くの未知数だった。
しかし裕には人生を焦る必要も無い程に既にお金に不自由はしていないので、その時になって考えれば良いかと言う心に余裕を持てているのは確かで、まずは人生二度目の高校生になったら何をしたいか、しっかりとした目標を持たなくてはと考え始めていた。
高校でしか出来ない事、高校生の時でないとできない事、学校行事としては修学旅行や学園祭位しか思い浮かばなかったが、一度目の高校生時代には楽しみにもできなかった行事だった。
しかし今は何事も体験すべきだろうと思える分、裕も少しは成長していると思っているし、今度は間違っても虐められる事は無いと確信していた。
今ならやられたら面倒がらずにやり返す位の事はできるし、何なら教育的指導をしてやろうかとほくそ笑みながら回避する心の余裕も持っていると思う。
そんな考えもあってか、二度目の高校生体験は寧ろ甘酸っぱい初恋を体験できるかもしれないと、少しだけ期待で胸を膨らませてもいた。
正直な話裕にも少し遅れた青春が訪れる事を、ちょっとだけ期待している所であった。
冬来たりなば春遠からじ、一度目の高校生時代はまったく良い思い出など無かったが、今は春になるのを楽しみにできる位には裕の心には日が差しているのだった。
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