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翔はひと口、ブラックコーヒーをすすった。
「実は俺の彼女、シロップたっぷりの甘いアイスコーヒー飲んでたんだ」
「彼女さん、いてるん? でも彼女さんが甘いの飲んでたらなんで?」
明花が首をかしげた。
「別れたばかり。まだ一週間もたってない」
「ええ? まじか?」
金澤や米田も、驚きとともに神妙な顔になった。
「だから甘さはほろ苦い思い出のスポンサーに過ぎない」
「そこまでこだわらんでも」
金澤が言いかけたのを、明花が制した。
「待って。分かる。でも、はっきり結果が出たんやったら、何かしらの方向性があるだけええんちゃう? 私なんて今、中途半端な感じやし」
「そうなのか」
「同じ京都の大学生やけど、一応恋人として付き合うてたつもりやったんや。でも、最近ぷっつり音信不通になって、結局あの人は彼氏なんか違うんかよう分からんなってきたし」
「確かに俺の場合は結果が出ただけ楽かもしれないな。今回はあいつを忘れるための失恋旅行」
「それにしたら、今日いちばん楽しそうにしてたんはかっちゃんやったような気もするけどな」
金澤の言葉で皆の神妙な雰囲気もとけて、みんなで笑った。翔も笑った。
「たしかに。こんな楽しい失恋旅行なんてないな。信州の大自然、一部山梨や群馬も混ざってたけど、それでもうほとんどあいつを忘れられた気がする。来てよかった。横浜にいたら無理だったかも」
「俺たちもなんかお手伝いできたみたいやな」
米田の言葉に翔はうなずいた。
「明日は帰るよ。これからはあいつを忘れていく歴史が始まるんだけど」
「がんばりや」
金澤が言ってまたみんなで明るく笑った。
それから半月ばかりの時間が流れた。
翔は江ノ電の駅を降りた。隣には明花がいた。この駅から少し歩くと、すぐに七里ガ浜の海岸にぶつかる。
「今日は案内してくれて、ありがとう」
川に沿って海までの道を歩きながら、明花が言った。
「でも、君が鎌倉に来るって言ってくれたおかげで、まさかこんなに早く再会できるとは思わなかったよ」
あの四人で軽井沢に行った日の夜、四人は宿で連絡先を交換した。その明花から、半月くらいたった最近になってLINEメッセージが来た。そして、鎌倉へ来るというので、翔が案内することになった。その明花の最後のリクエストが海だった。
大仏や長谷寺を案内したときに、足を延ばして由比ヶ浜に行くこともできた。だが、翔はあえて七里ガ浜に明花を連れてきた。
「どうしても君をここに連れてきたかったんだ。いや、本当は俺が来たかったというのが正確だな」
そんなことを話しているうちに、国道134号に出た。国道越しに、七里ガ浜の海が広がった。
「めっちゃ最高やん。お寺とか神社は京都にもあるけど、海があるいうことだけは鎌倉にかなわんわ」
明花は嬉しそうに今にも路を横断して海に行きたそうだったけれど、翔は立ち止まった。
「ごめん。その前に寄りたい店があるんだ。付き合ってくれる?」
「何の店?」
「あれ」
翔は国道沿いの白い壁の店を指さした。それは三カ月ぶりくらいに訪れる、あの懐かしい「ソルティ・キャット」だった。
「いらっしゃいま……あれ? 寺島君?」
懐かしいひげのマスターが、驚いた顔を見せた。
「お久しぶりです」
「どうしたの、今日は?」
「今日はお客として来ました」
「あ、そう。それはいらっしゃいませ。どうぞ」
翔は明花を促して中に入った。マスターは驚きの顔から、いつものニコニコ顔になった。
「客としては初めてですね」
「そうだね、ところで」
マスターは明花を見た。
「彼女さん?」
「あ、いえ」
翔は少し焦った。
「信州で知り合った京都の子で、今旅行で鎌倉に来たので案内してたんです」
「あ、そう。まあ、ごゆっくり」
翔は店内を見渡した。
「懐かしいなあ。あれから三か月か」
そしてそれほど混んでない店のあるテーブル席へ、ほかが目に入っていないように突進して窓際の席に座った。明花もその向かいの同じ窓際に座った。
「わあ、海がよう見えるんやね。いい店知ってるな」
「いや、実は」
翔がそこまで言いかけた時、若いウエイターが注文を取りに来た。
「ヨシキ君。その方が君が休んでた時に代わりにバイトに入ってくれていた寺島君だよ」
ヨシキと呼ばれたウエイターは、はっとした顔で翔を見た。
「あ、お名前は聞いてました。その節は大変お世話になりました」
やけに丁寧に、明るくヨシキは翔に挨拶した。
「いや、かえって恐縮してしまうよ」
たしかに明らかにサーファーという感じの風体だ。
「で、ご注文は?」
「ソルティ・レモネード」
「私、ホット」
「ブレンドね」
翔がヨシキに向かって補足した。そして明花に言った。
「関東じゃ、ホットって言っただけじゃ通じないよ」
「へえ、そうなんや。それよりかっちゃん、レモネとか飲むん?」
「いや、わけがあってね。この席にもね」
「そっか。で、この店でバイトしてはったん?」
「三か月前くらいかな」
「それでこの店に来たかったん?」
「うん。なんとなくまた来てみたいなと、客として、そう思ってたんだけど、でもこんな機会でもないとなかなか来れないからね」
「じゃあ、今日は来られてよかったな」
「うん、はるかちゃんのおかげだ」
それから二人は注文した飲み物も来たので、海を見ながら今日行ってきたところの話などしていた。
「あれ、サーフィンしてはるんやろか」
明花の視線の先は、こんな季節でも数は多くないけれどサーフィンに興じている人たちの姿があった。
「サーフィンは一年中できるんだよ」
「寒くないん?」
「スウェットスーツっていうのを着てるからね」
そんなやり取りに、マスターが笑った。
「寺島君が始めて来た時は、こっちがいろいろサーフィンのこと一から教えてあげたっけね」
「そうでした」
翔も少しバツが悪そうに笑った。明花も楽しそうに笑っていた。
店を出てから、明花がもっと近くで海が見たいというので、国道を信号で横断した。すぐに砂浜に降りる階段がある。
翔にとっては馴染みの、でも久しぶりの階段だ。
雲一つない空から燦々《さんさん》と太陽の光が注ぎ、この時期としては異例の暖かさだった。風はあるけれど、それは海の方から時々吹いてくる潮風だ。
「サーファーはこういう風をオンショアっていうんだ。波が立ちにくい風だからね。だから今日はサーファーも少ない」
たしかに波はほとんどないベタ波に近く、サーファーたちも苦労しているようだ。
二人は砂浜に横たわる適当な流木の上に座った。
明るく輝く空を反映して、どこまでも青い海が果てしなく広がっている。
「きれいやわあ」
明花がつぶやく。
「だろ。湘南の海は灰色、汚いなんてイメージを持っている人にも、ときにはこんなきれいな風景を見せることもあるって、ぜひとも連れてきて見せたいものだ」
「海なし県、ちゃうて府《﹅》やけど、そんなとこで生まれ育った私には、どんな海もきれいやわ」
しばらく翔は遠い目で、海の向こうを見つめていた。そしてそのままの視線で口を開いた。
「実はあの店にもう一度行きたかったのも、あの席とソルティ・レモネードにこだわったのも理由があってね」
「え? なに?」
「あの店でバイトしていた時、この間話した最近別れた彼女と知り合った。初めて彼女と会ったときに、彼女が座っていた席があそこで、あいつが飲んでいたのがソルティ・レモネード」
「そやったん?」
「はっきりけじめをつけるためにも、あの店に行く必要があった」
「あの店では全然言うてくれへんかったやん」
「そりゃ、マスターにまる聞こえだからね」
「でも、うれしい」
「え?」
「あの席にかっちゃんは自分で座った。あそこに私を座らせようとはしいひんかったやん。さすがやな」
「なんで?」
明花はふふふと笑っただけだった。
「あいつとの話、聞いてくれる?」
「ええよ。全部話しぃ。聞いてあげるし」
翔は出会いから数々の楽しかったこと、そして別れに至るまでのいきさつを海を見ながらかいつまんで話した。
「とにかく俺、舞いあがってたんだな。どちらかから告ったとかなかったし、気が付いたらあいつ、俺の彼女になってた。でも今にして思えば、一度も愛しているって言ってくれたことなかった」
「分かる気がする」
翔は明花を見た。明花は言った。
「言えへんかったんやろな。愛してないちゃうて愛しすぎて臆病になってしまった。それとも、臆病でもなく冷めてるのとも違う、心から愛し合っているから言葉はいらないとかでもなく、何やろ、たとえ誤解を招くようなことになってもよう言わん。そんなやったんちゃうかな。なんか支離滅裂になったけど」
「そっか。でもなんだかあいつの方から一方的に冷めたのかな? 急に恋人から友達になんて言い出して。そして結局はさっき話した通り」
「う~ん」
明花は少し何かを考えていた。そしてやはり海を見ながら言った。
「気ぃ悪くせんで聞いてな。かっちゃんはほんまは硬い人間やのに無理して軽い人を装って、彼女もかっちゃんの好みに合わせているうちに両方とも本来の自分を見失って、演技に疲れたんちゃう? 彼女さんも、かっちゃんと付き合っている時の自分が自分の本来の性格ちゃうって気づいて、付き合い方に疑問を感じたのかも」
「どうだろう、自分ではよくわからないけど」
「でも、彼女と付き合っていた夏の日々は、なんだかんだ言うても楽しかったんやろ?」
「たしかに」
翔がうなずくと、明花は翔の横顔を見た。
「ほな、それでええんちゃう? 人は悩んだことなんかケロっと忘れて、そのうち新しい恋を見つけたりするしな」
それから明花は首を横に振った。
「あかん。こんなシビアな話は苦手やわ。まして、面と向かってなんて」
「ごめんな、なんか愚痴聞いてもらったような感じになって」
「いや、愚痴ちゃうやん。これですっきりしたんちゃう?」
「でも、こんな話をできるようになったというのも、俺も心が落ち着いてきた証拠かな。でも、もうちょっとすっきりさせて、最後に」
再び翔は、海の遠くを見つめた。そして絞り出すような声で言った。
「想い出の中のよっぴー」
「ん?」
明花が聞き返した。それには答えず、翔はひとりでしゃべり続けた。
「いつまでもいつまでも想い出の中にいるよっぴー
よっぴー、死ぬまで俺のそばにいてくれると思ってた
よっぴー、友達思いだったね
よっぴー、しつこいのは嫌いよと言ってたね
よっぴー、アニメが好きだったね
よっぴー、外ハネの髪がすてきだったね
よっぴー、LINEの返信が早かったね
よっぴー、手をつないだね
よっぴー、白い灯台に行ったね
よっぴー、相鉄ジョイナスへ行ったね
よっぴー、人形を作ってくれたね
よっぴー、湘南で出会ったね
よっぴー、やきもち焼き屋だったね
よっぴー、遊園地のお化け屋敷でしがみついてきたね
よっぴー、とてもかわいかったね
よっぴー、あひる君の傘を持っていたね
よっぴー、映画を見たね
よっぴー、海へ行っても泳がなかったね
よっぴー、でもSUPは上手だったね
よっぴー、美術館に行ったね
よっぴー、ドラちゃんをかわいがってたね
よっぴー、青いアイシャドウをひいてたね
よっぴー、僕を愛してくれたね
よっぴー、たった二カ月間だけど僕の彼女でいてくれたね
よっぴー、でももう会えないね
よっぴー、さよなら」
翔の声は震えていた。隣に明花がいてもいなくても、関係なく翔は話し続けた。明花は黙って目を伏せていた。翔はじっと海のかなたを見つめていた。時間だけが過ぎていった。
やがて、翔は立ち上がった。
「行こうか」
「うん」
二人は砂浜を歩きだした。
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赤いメットでそろえて
海まで飛ばすと言えば
仔猫のような瞳光らせて
微笑んでいたあいつが愛しい
|国道134号《R o u t e 1 3 4》風を切り
走っていけばこのまま
どこか知らない国へ行ってしまいそうな
そんな夏の午後だった
ソルティ・レモネードと猫が
好きだったあいつの
思い出がどこにでも転がってる地方
今日もまた来てしまった
あの日の波の音も
太陽の下ではしゃぐ声も
もう二度と聞こえない
潮風が連れ去ったあの季節
アルバムのページをめくって
読み飛ばしていったような
そんな恋しかできなかった
僕らだったけれども
夏になるといつも
思い出さずにはいられない
海沿いの道の白い壁の店で
あいつがいつか飲んでいた
ソルティ・レモネードの色が
白い夏の光に溶ける
甘い香りが漂ってくる
思い出の中にいつも
あの日の波の音も
太陽の下ではしゃぐ声も
もう二度と返らない
たったひと夏の僕らの季節
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(ソルティ・レモネードと白い夏 おわり)




