8
まさしく今、江の島のずっと右の丘陵地帯の上に日が沈もうとしている。二人はしばらく黙って、沈みゆく夕陽を見ていた。
広場にはかなりの人がいたが、そのほとんどが翔たちと同じようなカップルだった。
やがて日は落ちた。
江の島の上あたりの空が赤い残光となっていたが、だんだんとその光量を落としていっていた。
「うわっ」
陽子が思わず声を挙げた光景は、昼間は見えなかった江の島の向こうの伊豆半島の付け根あたりの山系が黒いシルエットなって浮かび上がるそんな様子だった。
そして江の島のちょっと右あたりに、はっきりと黒いシルエットで富士山が見えた。
「めちゃきれい」
陽子は瞳を輝かせて、そんな景色に見とれていた。そしていつしか、翔の腕にしがみついてきた。
「めっちゃ映えてる! エモい!」
陽子はスマホを出して、そんな景色の写真を撮っていた。翔もその景色に感動しながらも、ちらちらと陽子の横顔を見ていた。
宵闇があたりを包み込むのに、そう時間はかからなかった。
もう赤い残光はほとんど消え、富士山のシルエットも見えなくなっていた。
「ご飯、食べてく?」
翔が聞くと、陽子はうなずいた。
「じゃあ、連絡しないと」
陽子はスマホで、食事はいらない旨の電話を家にかけた。その間、翔も同じように自分の家に同じ内容の電話をした。
「いい店知ってるから、連れて行くよ」
「うん」
それから、二人はまたバイクで、タンデムで走り出した。
すっかり暗くなった134号を戻る形で、暗い海を左に見て進んだ。
こちらの車線の方が、反対車線よりもむしろ混んでいた。
そして、「ソルティ・キャット」を過ぎてすぐのところ、赤い煉瓦の「ミニ―トッポ」の前の駐車場で翔はバイクを停めた。
例のかつて愛美と待ち合わせてすっぽかされたイタリア料理の店だ。あの時は愛美が来なかったので食事をしそびれた。
「前にも一度来たことがあるんだけど、その時はドリンクを頼んだだけでちょっとしたアクシデントがあって料理を食べそこなったから、今日はリベンジ」
「アクシデント?」
その質問には笑って答えず、翔はドアを押した。
あの時もそこそこ混んでいたけれど、今日はもっと混んでいた。だが、かろうじて座席はとれた。残念ながら、見晴らしのいい二階席は満席とのことだった。
陽子はアラビアータのパスタ、翔はイタリア風のローストポークのポルケッタとライスを頼んだ。
いろいろと話をしながら、時間をかけて二人は料理を楽しんだ。だが、翔はバイク、陽子は二十歳前なのでアルコールはなしだ。
食事も終わったころ、陽子がふと何かを思いだしたように目を挙げて翔を見た。
「今日って何日だっけ?」
翔は日付を言った。
「え? 待って。もしかして今日って」
陽子は慌ててスマホを出した。そしてサイトで何かを調べているようだった。
「やっぱ今日だ。だから混んでる」
「今日、何が?」
「花火」
「花火大会? どのへんで?」
「江の島の向こうの片瀬海岸。えっと時間は……」
陽子がスマホの画面をスワイプし、それをのぞきこみながら言った。
「あと10分しかない」
「じゃあ、行こう」
「花火大会っていうほど大げさなものじゃないけど」
二人はとりあえず、出ることにした。
「ここからでも見えるよね」
外へ出た翔は、陽子に聞いた。
「見えると思う」
「じゃあ、ここの海岸で見よう。片瀬まで十分で行けるかどうか。この道の混み方だし。行ってもバイク停めるとこあるかどうかわからなし、きっとすごい人でだろうし」
「うん、それがいいと思う」
バイクは店の駐車場に置いたまま、二人は砂浜に降りる階段を探した。結局は少し「ソルティ・キャット」の方へ歩いたところの信号まで行き、そこで道を横断した。階段はそこにある。
以前も陽子と一緒に降りたことのあるあの階段だ。
夜の海岸は真っ暗だった。だが、国道の街灯の光が漏れてくるので、歩けないほどではない。
遠くの江の島はもう真っ暗で見えないが、その上にある灯台のシーキャンドルが緑色にライトアップされてくっきりと見えるし、ふもとの町の街明かりが輪郭線となってそこが江の島だと分かる。江の島大橋の街灯も規則正しく並んで闇に浮かび上がっていた。
翔は陽子の手を取って砂浜を歩きながら、座るのにちょうどいい流木の切れ端を見つけた。
二人はそこに腰を下ろした。
同じようにその浜で花火を見ようと思っている人たちもいるようだが、暗いのでお互いはよく見えない。
やがて江の島へ渡り江の島大橋のたもとあたりから、最初の一発が上がった。
遠いけれど花火自体が思ったよりも大きいので、夜空に咲く大輪の花はしっかりと迫力を持って迫ってきた。
花火は次から次へと打ち上げられる。しかもいろいろなバリュエーションに富んでいた。
距離はあるので、実際に見える花火と聞こえてくる音にはタイムラグがあった。
陽子は翔るとほとんど体を密着させ、腕にしがみつく形で花火を見ていた。
「三分だけだからね」
そう陽子は言った。
「え?」
「三分だけ、ここの花火は。ひと夏に五回に分けて三分ずつ」
「そんなに短いの?」
「そう、だからこそ一発一発に重みがある」
道理で間隔を開けずにどんどん打ち上げられるはずだ。
心なしか、隣の陽子の顔が段々と翔に近づいてきている。海風がそんな二人を包む。
そして一段と大きな大輪が夜空を飾ったとき、翔は陽子を見た。陽子も一瞬花火から目をそらして翔を見ていた。その瞳に、花火が映った気がした。
二人の顔はゆっくりっ近づいていった。陽子は目を閉じた。
二人のくちびるが重なった。
だが、実際はほんの瞬間の出来事だった。
最高のパフォーマンスを見せた最後の一発の花火は夜の闇に散り、江の島の上空は元の闇に包まれた。
それから翔は陽子を、片瀬江ノ島の駅まで送っていった。だが駅前は花火見物から帰る人たちでごった返していて、電車もすぐには乗れそうもない様子だった。
これだけ多くの人が三分間の花火を見るために集まっていたのだ。
「家まで送るよ」
「めっちゃうれしい」
翔のバイクの後ろのシートで、陽子は喜んだ。
「でも家まで来るとバイクの音に驚いてパパが二階から見てるかもしれないから、藤沢の駅で降ろして」
「了解」
翔は一度134号を引き返し、片瀬東海岸の信号から国道467号線へと左折した。




