第5章 恋人を落ち着かせる方法
瞼を開けると、眩い乳白色の日光が目に入った。いつも通りの光景で安心する。普通に目覚めたことにどうして安心しているのか、寝起きでクリアになった頭では疑問にしか思わなかったが、じっと思考しているうちに徐々に思い出してきた。
嗚呼、普通ってなんて素晴らしいことなんだろう。
一瞬だけ昨夜のことは夢だったのではと浅はかな現実逃避を試みたものの、どうやら無意味のようだ。頬と全身に伝わる床の冷たさが、就寝前の記憶と現在をつなぎ合わせる。この部屋に引っ越してから四年、寝ている間にベッドから落ちた経験など一度もない。
「ん、なんだこれ」
記憶では特に何も羽織らずに寝転んだのだが、何故か上に布が掛けてあった。俺の身体を補うには随分と小さく、赤い。こんな真っ赤な色のバスタオルや衣服は持っていないぞ、と不思議に思いながらも上半身を起こすと……真っ白な脚と下着が視界に飛び込んできた。
「――――ッ!?」
ベッドの上には、昨夜成り行きで預かることになってしまった地球の自爆スイッチ、流河メノが眠っていた。いや、それはもちろん知っていた。自分が床で眠っていたんだから、誰か他の人物がベッドで寝ているのだろう。寝ぼけ頭でも、瞬時に思い出すことはできていた。
しかし意外だったのは……というか眠たすぎて思考が至らなかったのは、メノが十三歳の少女だっていう現実だ。自爆スイッチ云々の話があろうがなかろうが、この状況は人様が見たらどう判断するか。
「やべえよ、やべえよ」
とは言いつつも、ついついベッドで寝ている少女をチラチラと見てしまう。
赤い布はメノのジャージだった。暑かったのだろうか、寝ぼけて脱いだのだ。掛布団を羽織ることもなく、抱き枕のようにして未だスヤスヤと熟睡中。寝相が悪いのか、はたまた最初に寝た体勢が悪かったのか。どちらにせよ、寝起きの最初の光景が女子中学生のパンツとか心臓に悪すぎる。ってか、いくらなんでも無防備すぎるだろ。
「えっと……」
ジャージをつまんだまま、どうしようか迷った。ぐっすり眠っているところを起こすのも悪い気がするし、俺が穿かせてやるのもまた問題だ。今のところ社会的なクズという自覚はあっても、人間的に堕ちたつもりはない。
ほんの数十秒悩んだ結果、結局放置するという結論に至った。これが一番。
「十一時半かよ」
いやはや怠け過ぎである。寝るのが遅かったのと、予定外の来客で疲れていたとはいえ、さすがに遅すぎだ。平日の正午まで眠っていられるのは、大学生と定職に就いていない輩の特権だと考えると……ハハ、マジで笑えねえ。
「どうすっかな。今日のバイトは……六時か。せっかく時間があるんだし、久しぶりにハローワークでも行くかな」
独りごち、寝起き頭で真っ先にPCを立ち上げてから、ふと気づく。
俺って、外出してもいいんだっけ? という素朴な疑問。去り際に言っていた佐伯に言葉では、外出自体は禁止しないようなニュアンスだった。確か外出するたびに連絡入れるんだったっけ? っていうか、いちいちメノを連れて行かなけりゃいけないのか? 食糧調達くらいならまだしも、ハローワークやバイトの時はどうするんだ?
よくよく考えてみれば、俺の日常生活において、常に十三歳の少女と行動を共にするなんていうのは不可能だ。金ももらった手前、就職やバイトは諦めなきゃいけないのか。それともメノは家で待機させておけばいいのか。
「よし、訊いてみよう」
下手なことして命を取られるのも嫌だしな。
テーブルの上に放置してあった封筒から白い紙を取り出す。どうやら普通の携帯番号のようだが、誰に繋がるのだろう。いやむしろ、こっちのプラスチック製の自爆スイッチを押して誰かを呼んだ方が早いんじゃなかろうか。
「……いや、やめとこう。俺はもう、スイッチという物を不用意に押したりはしない」
特に胡散臭いスイッチはな。
俺に不幸を招いた自爆スイッチの処遇は後ほど決めるとして、今は黒服たちと連絡を取りたい。今後なるべく関わりたくはないが、奴らがどういうレベルで俺を監視しているのか、知る必要がある。
携帯を拾い、紙に書かれた十一桁の番号を入力しようとした。
「ん? げ……」
開いた携帯を覗くと、着信履歴が五件もあった。しかも同じ番号。すべて八時から九時の間だから、ちょうど深い眠りに入っていた辺りかもしれない。マナーモードにもしてたし。
「急ぎの用件でもあったのか? 一時間の間に五件とか珍しいな」
ならば留守電を入れろという話ではあるが。
電話の相手の名前は、紅葉早苗。一つ年下の俺の彼女だ。最近は大学の卒業研究が忙しいのに加え、就職していない俺に愛想を尽かしているのか、少しだけ疎遠になってしまっている。険悪なムードなのはともかく、別れたいという話は特に聞かないから楽観視していたが……うわぁ、もしかしたらこの電話は別れ話か何かだったのかな。嫌だな。
「というか、そうだよ。たとえ別れ話じゃなかったとしても、この状況を一番案じなきゃいけないのは、サナのことだ」
棒立ちになったまま、未だベッドで熟睡中のメノを一瞥した。
十三歳の少女と同居することになってしまった理由を、どう説明するべきか。あれだけ他言するなと念を押されたので、まさか本当のことを話すわけにもいかない。もし話したとして彼女が信じてくれるわけもないだろうし、逆にサナの身に危険が及ぶかもしれない。口封じくらいは簡単にやりそうな連中だった。
だからといって、もっともな嘘なんて思いつきもしない。
どうすりゃいい? どうすりゃいい?
「……どうすりゃいいんだ?」
「相変わらず独り言が多いね。別に着信無視されたからって、怒りはしないよ」
「~~~~ッ!?」
思わず声にならない声が漏れた。ガチで絶句した経験なんて初めてだ。
玄関先に佇んでいたのは、今話題にしていた人物、紅葉早苗その人だった。不法侵入者を一瞬で特定できたのは奇跡だが、しかしそれ以上に頭が回らなかった。
なんでコイツが今、ここにいる?
「ってかお前、鍵は!?」
「え、開いてたけど?」
思い出した。黒服たちが去って行った後、施錠するのを忘れたまま眠りに就いたんだった。
「危機意識が足りないんじゃない? 最近、ここら辺も物騒になってきたんだから」
この程度の扉、鍵を掛けたところで簡単に破られるんだけどな。四年も住んでて今さらだけど、昨日初めてこのアパートのセキュリティの甘さを知ったよ。
「で、さっきから何を固まってるのさ。電話に出なかったことは怒ってないって。どうせ昼間まで寝てるんだろうなって、こっちも予想して……」
自然な動きで、サナの視線が横へとスライドした。行き先はベッドの方向。我が身で視線を遮ることも叶わず、ベッドの上の少女を晒してしまう。
サナもまた、そこにあるものを理解し、そしてその可能性に至ったのだろう。驚きのあまり見開いた眼で再度俺に焦点を合わせた後、静かに言った。
「どういうこと?」
ギリギリ届くかくらいの小さな声が、さらに凄みを増す。元々攻撃的だった瞳が、真正面から俺を射る。睨みつけるというよりは、これはもうただの威嚇だった。
「人が就活の心配してあげてるのに、その間に……浮気?」
「いや……違う」
「違う? これには訳があるんだとか言うつもり? いいよだったら説明してみてよ」
マジで噛みつく五秒前。返答次第ではそのまま喰いちぎられるかも。
以前、お互いが浮気した際に、どういう反応をするか冗談で話題にしたことがあった。その時のサナは、話もできないほど泣きじゃくると自信満々に答えたが、全然違うじゃないか! むしろ泣きたいのは俺の方だよ。
しかしこれはチャンスでもある。説明しろということは、場合によっては許すことも視野に入れているというスタンスだ。……たぶんそうだ。そうに違いない。そう信じ、たった数秒の間に、俺はサナを納得させる弁明を絞り出さねばならない。
「分かった、説明する。こっちきて話そ……」
「ん、う~~~~ん……」
タイミングが良いのか悪いのか、メノが息を吹き返したようだ。サナを牽制しながら視野ギリギリで確認すると、どうやら寝ぼけ眼のままベッドの上で伸びをしているご様子。下半身は無残な姿だが、上はちゃんとジャージを羽織っている。もしこちらも脱ぎ捨てているようだったら、さらにサナの印象を悪くしていただろう。
ただメノが起きたところで事態が好転するとは思えない。何か策はないか。
そんな感じで、言い訳を考えることだけ集中していたから失念していた。悪いことには違いないが、浮気は犯罪ではない。そう、浮気だけだったら。
「え……? そんな、うそ……」
突然、サナが悲痛な声を上げた。慌ててそちらに振り返る。呆然としたまま、サナはベッドを凝視していた。
「あんな小さい子を……」
「いや、違うって。メノは見た目に反して十三歳だから!」
「十三!?」
あ、しまった。十三歳でも十分犯罪だわ。
右手で口元を覆ったサナは、驚愕に満ちた瞳で俺を睨む。目尻には涙。サナが涙もろい印象は全然なかったが、だからこそその泣き顔に一瞬戸惑う。俺が困惑しているうちにも、止めどなく溢れた涙は頬を伝った。
胸に刺す罪悪感が半端なくヤバい。
「ご、誤解……です」
何故か敬語になった釈明も、それ以上は続かなかった。
俺から眼を切ったサナが、身体を反転させたからだ。
「ちょっと待って! お願いだから話を聞いて!」
「嫌だ、知らない! もう知らない! この性犯罪者!」
立ち退くサナの手首を掴んで引き止められたのは、奇跡だったかもしれない。
奴らが今も俺の家を監視しているのならば、今外に出られるのは本気で困る。用があって訪れた女の子が、わずか一分も満たさずして泣きながら飛び出したら、奴らはなんて思うだろうか。いや、何かなど関係ない。ただのオモチャのスイッチを押した人間を、念のため殺しに来るような奴らだ。何か異常事態があったと判断し、サナに危害を加えるに違いない。
せめて平常心を保ってもらわなければ。
「頼む、一生のお願いだ! 話だけでも聞いてくれ!」
「変態! 放してよ!」
言っても無駄か。普段の振る舞いから察するに、もっと淡白な奴だと思っていたけど、意外な一面だ。それだけ俺の浮気……もとい犯罪性のありそうな状況に堪えたか。
「放して!」
掴まれている反対の手で、俺の腕を引っ掻く。痛かったが放さなかった。
引っ張り合いになっている間にも、この状況をどうしたもんかと、意外と冷静でいられた。喧嘩自体は初めてじゃないし、こちらは絶対に冤罪だと俺自身が知っているからだろう。それを鑑みれば、俺が最低の人間だと思っているサナがこうも取り乱すのも理解ができた。
しかしこれが喧嘩の延長線上ならば、サナには悪いが、勝手知ったる強引な方法で解決させてもらおう。いつもはほとぼりを冷ますため数日ほど間を置いていたが、今はそんな時間はない。だからこの場で、だ。
「サナ!」
掴んでいるサナの腕を、思いきり引っ張った。男と女。力の差は歴然である。足元のバランスを崩して倒れるサナを、俺は力強く抱き寄せ――キスをした。
「――――――ッ!?」
さすがに舌を入れる勇気はない。噛み千切られたら、たまったもんじゃないからな。
お互いが鼻からの呼吸を必要とするほど長く唇を重ね合わせていると、サナの身体から抵抗する力が徐々に失われていくのを感じた。堕ちたな、と確信する。経験人数一人の俺には、紅葉早苗という女の子を堕とすためだけの、この方法しか知らなかった。
唇を離して、彼女の瞳を真正面から見つめる。
涙の溜まったサナの目尻が、トロンという感じに下がっていた。
「サナが何をするにしても、俺は全部許す。けどお願いだ。先に俺の話を聴いてくれ」
「う……うん……」
照れているのか、それとも叫んだ勢いで血の気が増しているのか、真っ赤になった顔を隠すように背けたサナが、小さく頷いた。
とりあえず、何とか時間は稼げたようだ。あとは納得させられる説明をするだけ。
「はわわわ……。初めて見ちゃった……大人のキッス」
背後で枕を抱えながらこちらを凝視しているメノの姿が、視界の端に映った。
誰のせいでこんなことになってると思ってんだよ!




