㉒ 別の囁き
「……アレって?」
「かつて、ベツレヘムで、2歳以下の男児を皆殺しにした、ヘロデ王ですよ。」
「……ああ、あの新約聖書の……?」
「"もうすぐユダヤの王が生まれる"と言う預言を聞いたヘロデ王が、自分の王座が奪われる事を恐れるあまり、やってしまった、世にも愚かな行為。」
「そう……だったわね。でも結局、イエス・キリストは生まれた……。」
「同じような事を、ナチス総統となったアドルフ・ヒトラーの耳元に、囁いた者が必ず居るはずなのです…でなければ、あんなに繊細な心を持った青年が、あんな残虐な行為をする筈が無いのですよ。」
サン・ジェルマンは、いつになく熱弁を振るった。
「史実は変えられない。でも、原因は突き止めたい。私だっていつでも、そんな思いを抱えて生きて来たのです。」
「それじゃあ……。」
「……ええ、今こそ行きましょう。ソレが誰なのかは、知りたい…雪子さん、私と一緒に来てくれますか?」
「もちろんよ。断わる理由が有ると思うの?」
そんな訳で、今度は二人で、黄色いビートルに乗り込み、時空を超える事になった。サン・ジェルマンが推定した、行き先の座標は以下の通りである。
西暦 1940年 1月 31日 水曜日
午前 9時 30分
北緯 50度 7分
東経 19度 35分
時空転位の道中、サン・ジェルマンが語り出した。
「現時点で分かっている事は、虐殺収容所アウシュビッツを発案、建設、実行をした者は、ハインリヒ・ヒムラー。その計画を決定、承認したのが、アドルフ・ヒトラーだということなんです。そして彼、ヒトラーは、一度もアウシュビッツを視察した事が無いらしい……。」
「えっ、それじゃあ……。」
「……そうなんです。そのヒ厶ラーが、囁きの張本人なのではないかと、私は考えているのです……しかし、そのヒムラーの向こう側にも、更に誰かの影があるのかも…。」
「まだ、誰か……?」
「……実は収容所に連れ去られたとされる100万人余りの人数と、後に助け出された、又は、回収された遺体の数の合計が、大幅に合わないらしいのです。」
二人でそんな事を話し込んでいるうちに、黄色いビートルは、目的の時空に到着した。
そこは、ポーランド南部。オシフィエンチム町郊外の、荒れ地だった。
雪子は、ビートルに光学迷彩をかけたまま、地上に降ろした。彼女は、サン・ジェルマンとともにクルマから出ると、物陰に隠れて辺りの様子を窺う。
すぐ近くに黒塗りのメルセデス770が停まっており、傍らでは、軍服にコートを羽織った二人の人物が、荒れ地を眺めながら立ち話をしていた。




