第46話 What Ifs
人生の中で幾百の過ちを犯した私だが、後悔しているものはほとんどない。
ただ一つ、いつまでも私を苛む過ちを除いて。
それは人を見下し、除外し、自分は特別だという驕りが招いた過ち。
そして私の呼吸も、生きる希望も、全て奪い去った。
私が判断を誤らなければ、 今もマーサは私の隣で新緑の瞳を煌めかせていただろう。
再びその目が私を見ないと分かっていても、私は亡霊のように生き続け、彼女の姿を探し求め続けている。
「――どういうつもりだ?」
足元で儚い光を放つ魔法陣。
私が作ったものはただの白い光であるはずが、目の前に広がるのは赤く禍々しい色を纏っている。
何か、良からぬ意図をもって魔法陣を改変したに違いない。
視線を上げた先、目深にフードをかぶった男の口が歪んだ。
「大魔法使い様にも分からないことがあるとは驚きです」
「……この魔法陣が倫理に反しているのは理解している。なぜ、この出来損ないの魔法陣を発動させたのかと聞いている」
完璧な円の中に並ぶ、珍妙な文言。
文字バランスも、魔力の流れも全く美しくない。
醜い。
魔法陣の理想形とは遠く離れている。
物事の本質を理解していなければ、ただの猿真似だ。子供の落書きよりも酷い。
「そうやって偉そうにしていられるのも今のうちです。魔法陣はあなたの硬い頭では思いつかないことができるのですよ」
そう告げた男が手で合図をすると、数名の男たちが一人の男を引っ張ってきて私が留め置かれている魔法陣の端に寝かせた。
まさか。
フードから覗く口元に愉悦が浮かぶ。
「魔法陣で集めた魔力を、道具ではなく人に与えるということを考えたことはなかったのでは?」
「魔力は個人で違う。合わない場合、」
「それは受け取る側に魔力がある場合です。魔力を持たなければそれは関係ない」
それは、つまり――視線を床の上に転がる男に向ける。
この男は魔抜けなのだ。
魔力を作る器官をもたずに生まれてきた者。
そんな人間に、無理矢理魔力を渡すなど。
非人道的としか言えない。
「実験する対象としては丁度いいでしょう。魔力もなしに生きていられる下等生物が、魔法陣の発展に寄与できるのだから」
「……その発想自体、下劣な下等生物以下だろうが」
「何とでも言うがいい。大魔法使いとあれど、体から魔力を抜き取られては手も足も出まい。そこで我々の実験が成功するのを見ておれ」
自分の勝利を確信し、男は丁寧な口調をやめて私へと命令を下す。
赤い光はその間も私から魔力を無理矢理引き出していく。
全部とはいはない。だが恐らく七割ほどの魔力を失ってしまった。
万全の備えをして王都に来たはずが、しくじった。
まさか私の屋敷に入り込んでこんな罠まで作っていたとは。
マーサ、マーサはどこに?
徐々に失っていく魔力を感じながら、必死に意識を繋ぎとめる。
ここで私が倒れてしまっては、魔抜けを人間として扱わないこいつらにマーサが傷つけられてしまう。
魔法陣は、彼女のためのもの。
魔力を持たぬマーサが傷ついたり病に侵されたりすることがないように、彼女を守るためのもの。
それを悪用するとは!
「私から魔力さえ奪えば、全てがお前の思い通りになるとでも?」
赤い魔力が床の上に伏せた男の体を覆う。
その魔力が一層輝きを増した時、大きな音を立てて窓が割れた。
「主! 持ってきた!」
「マーサ!」
声と共に投げ込まれる物体。
魔法陣の光を蹴散らし、床を転がる。
「よくやった」
誉め言葉と共に、怠い体を無理矢理前に押し出す。
床から拾い上げたのは一つの箱。
これは、万一の事態が起こった時のためにいくつか用意していた対策の一つだ。
「それは……何を」
「何と言われてもな。魔法陣が魔力を吸い出すだけではないのは、お前も良く分かっているだろう」
今も失われつつある私の中の魔力。
これは本来ならば、魔法具の動力として貯蓄される。
それは場所が変わっただけで、元は同じ魔力――同じ、私の魔力だ。
「攻撃しろ! 止めろ! あいつを止めろ!」
焦りを含んだ怒声が響く。
だがのろまな魔法使いよりも早く、私は魔法具を叩き壊した。
直後、解放された魔力が私の体を覆う。
普段、私の魔力を怖れて近づくことすらできない魔法使いたちは、瞬く間に恐怖に襲われその場にへたり込んだ。
立っているのは、この馬鹿気た茶番を指揮していた男のみ。ただ男の顔も血の気が引き、意識を保つのに必死だ。
「美しくない魔法陣には破綻がある。破綻は綻びを生む。脆弱な堰では濁流を押さえることができないように……膨大な魔力の威力には勝てないのだ」
魔法具から解放された魔力が、私の体に流れ込んでくる。
失われた魔力が戻り、意識もはっきりしてくる。
これで状況はふりだしに戻った。
「主、大丈夫?」
「ああ、問題ない。危険だから下がっていろ」
「うん。あ、こっちの人、持ってく」
「持って……ああ、頼む」
マーサは意識を失った状態の魔抜けの腕を両手でつかみ、ずりずりと魔法陣の外へと引っ張っていく。
顔が床にこすれて痛そうだ。
とにかく、魔法陣の発動は中途半端に終わり、赤い光は消えた。
それを確かめて魔法を床に向かって放てば、ただのインクで描かれた文字は脆く消え去っていく。
本当に残したい魔法陣があるならば、消えない処理を施すべきだった。
「ひっ……」
これから起こることを想像したのか、声にならない悲鳴が男の喉を震わせた。
必ず成功する実験などない。
私という存在を支配し、押さえつけ、踏み台にしたかったのであれば、失敗を想定して二重、三重の対処法を用意しておくべきだったのだ。
今更言っても遅いが。
「は……人間じゃない。お前は……あ、悪魔だ」
「人である者を人として扱わないお前こそ、悪魔だろうに」
口から涎を流し、私の魔力に怯えながらも抗おうとする男。
こいつはこのままにしてはおけない。
賛同した者たちも含め、厳罰に処さねば第二、第三の敵が現れるだろう。
手を振り、ギリギリのところで意識を保っている男へ魔力をぶつける。それだけで男は床に倒れ伏せた。
あとは他の魔法使いたちを――そう思って体を巡らせた時、低い呟きが耳に届いた。
その言葉の響きが脳を揺さぶった瞬間、鋭い光がまっすぐに放たれる。
小さなナイフが、風魔法によって魔法使いの手から飛び出した。
「死ね!」
その時、私は判断を誤った。
決して犯してはならないならない過ちを、犯してしまった。
それは全て私の傲慢さが引き起こした罪。
私を殺すことができる魔法などない。
多少の傷ならば膨大な魔力が自分を守ってくれる。
誰も、私を傷つけることなどできない。
その驕りが、私の罪だった。
私は身を守ることもせず、攻撃を受け止めた。
受け止めた、つもりだった。
だがそれは私ではなく、無防備にたたずむマーサの胸元へと吸い込まれた。
「マーサ!」
「……え?」
こぽり、とこの場に不似合いなほど澄んだ音がした。
泉の底から泡が浮き上がるような、そんな音。
だが湧き出たのは赤。
マーサの口から、赤い雫が流れ落ちた。
「マーサ、あああああああああ!」