37話
エレーナ中尉から要求された10時間の進撃停止。
私がそれを律義にも守った結果、陸軍からの印象が低下したらしい。
それもそうだろう。
予定なら私たちはあと数十キロは前進していたはずなのだ。
しかしそれを私の一存で止めてしまったのだから、作戦計画は今や崩壊も同然だろう。
今頃本国では私をどう処分するかの会議が開かれているだろう。
だが、陸軍は勘違いしているのではないか。
彼らには私を罷免する権限も、責任もない。
唯一この国でそれを持つのは統合軍総軍司令のカールリス・ウルマニスだけだ。
後方から送られてくる怒りに満ちた電報に「現在休養中」とだけ返し、私たちは10時間停止していた。
10時間がちょうど経過すると私は再度前進を命じる。
進撃を開始してから数分して私は10時間の停止が予想以上にわが旅団に対してよい結果をもたらしていることに気が付いた。
まず、部隊の再編を完全に行うことができた。
おかげで損害を受けているのにも関わらず、規律だった前進を行うことができている。
それから数時間、敵の攻撃はなかった。
諜報部の情報によると敵はまずフィンランドを全力で攻撃し、屈服させたのちに我々へとその矛先を向けるつもりらしい。
どうやら第1親衛大隊はその中でも対フィンランド用の決戦部隊としてかなり後方に待機させていたものだったようで、彼らが撤退したことによりソビエト軍令部はかなり慌てているようだ。
この戦争は世界の予想を大きく上回る進展を見せた。
北の小国フィンランド共和国。
ソビエトが過去の内戦で混乱している最中、分離独立を宣言。
国内の共産主義者との内戦に勝利し、北欧の1国としての地位を確立した。
しかし彼らの軍備は脆弱で、とてもソビエトの攻撃に耐えられるとは思われていなかった。
世界はフィンランドが何ヶ月で降伏するかの賭博に沸いていた。
同じく、東欧の小国ラトビア。
フィンランドと同じくソビエトが混乱している中、隣国であるエストニア、リトアニアと共に独立を宣言。
1930年代初頭には三国が統合され一つの連邦共同体、バルトニア連邦が成立したが、ソビエトに対抗できるほどの国力は有していなかった。
フィンランド、バルトニア両国の国力を併せたとしてもソビエトの足元にも及ばず、バルトニアがフィンランドの独立保障を名目に参戦した時は世界があざ笑ったものだ。
だがしかし、当事者たちは誰一人として悲観していなかった。
リューイ・ルーカスという一人の女性軍人によってもたらされたソビエトの内情は各国の想像をはるかに下回るもので、軍部も量だけはそろえているが旧式化、老朽化、補充不足が甚だしかった。
それを証明するようにフィンランドに侵攻したソビエト軍は当初こそ快進撃をみせたものの、吹雪を前にして進撃は停滞。
フィンランドの反抗作戦では1個大隊に対して2個連隊を投入するも後退を重ねた戦線など、その脆弱性があらわになりつつあった。
バルトニア方面ではバルトニア軍が100km前進し、防衛線を構築し始め、いよいよソビエト軍はフィンランドから軍を抽出しなければならなくなり始めた。
各国は当初の予想を大きく裏切られたことにより、義勇軍を派遣すべきか否かで揉め始めていた。
イギリスを始めとする連合国は積極的に派遣する意思を示してきたものの、かれらは現在ドイツと戦争状態にあり、安全にイギリスからフィンランドやバルトニアに軍を派遣することがままならなくなった。
しかしすぐにそれは杞憂となった。
ドイツがある声明を発表したのだ。
「フィンランド、スウェーデン、ノルウェー。そしてバルトニア船籍の船舶は臨検に応じた場合無害通航を許可する」と。
これはバルトニアとドイツの密約によるもので、バルトニアがドイツにメーメル地方を割譲することにより手に入れたものであった。
これにより、フィンランドなどの北欧諸国がイギリスまで迎えに行き、現地で義勇兵を積んで北欧に輸送するという体制がとられた。
臨検に入ったドイツ軍も、イギリスの兵士を見ても「異常なし」と報告し、そのまま去っていった。
こうして奇妙な政情を見せながら1939年冬に始まった戦争はイギリスを主導とした義勇軍の参戦を経て1940年春へと経過していく。
「貴様があのリューイ・ルーカス中佐か?」
突然男が聞きなれないイギリス語で突然私に背後から声をかけてきた。
何事かと思い振り返ると、そこにはイギリス軍将校の姿があった。
階級からみるに大佐。
イギリスからバルトニアに派遣されてきた第224歩兵連隊の連隊長らしい。
「そうですが、なにかしら?」
突然高圧的な態度で話しかけられたものだから私も挑戦的な口調で返してしまった。
「フンッ。まだ子供じゃないか」
決してスマートとはいいがたいその醜い腹を突き出して威張る大佐様。
いまどきこんな大佐がいるのかと嗤いたくなる。
「何用でしょうか?」
こういう時は挑発にのらず、冷静に対処すればいいだけだ。
すると見るからに不機嫌そうにする大佐。
「なに、救国の英雄などと大層なあだ名をつけられている女性将校がいると聞いたものだから興味がわいたのだが――」
彼は私の胸部を見て鼻で笑う。
「こんなに貧相だとは」
その瞬間、自分のなかでなにか沸き上がるものを感じた。
ここで怒っては子供と同じなのだが、身の程をわきまえていない馬鹿には叱ることも重要だろう。
「これはこれは失礼いたしました。ところで大佐殿、私が呼ばれているあだ名がもう一つあるというのはご存知でしょうか?」
私はあくまで強く出られない女性将校を演じる。
相手はこちらを見くびっている。
私の配下の部隊を完全なお飾りだと勘違いしているようだ。
「軍の中では番犬と呼ばれております。番犬は自らが攻撃されても決して反撃することはございませんが、飼い主が攻撃されると全力で反撃致します。噛まれると大変痛いのでお気をつけください」
そう、ビジネススマイルを浮かべる。
相手からすればこれ以上に不気味なことはないだろう。
顔は笑っているが目は笑っていない。
そういう笑みが一番恐ろしい。
私の表情を見た大佐は不機嫌そうに足をドスドスと鳴らしながら去っていった。
なんでこんな無能を送ってきたのだろうかと大きなため息をつきたくなる私であった。
「クソッタレ! 補充はまだなのかよ!」
俺は傍らに置かれていたドラム缶を無造作に蹴り飛ばした。
それを見て呆れながらエレーナが元の場所にドラム缶を戻す。
「仕方ないじゃないですか、機甲部隊だけじゃなくてほかの歩兵部隊も損害を受けてるんですから」
この戦争でバルトニアやフィンランドによって多くの部隊が損害を受けている。
戦場の主力は未だ歩兵であるがゆえにすべての中心は歩兵や砲兵であり、俺たちのような戦車部隊は後回しにされる。
まぁ、あの悪魔と戦う必要がないというのはいい点ではある。
現時点でわが大隊の戦力は大きく減ってしまった。
もともと50両以上いた戦車も今やたったの5両。
兵士自体は負傷程度で済んでいるものが多数を占めているのだが、車両の回収はできなかった。
今は残った者たちで小隊を編成し、第78歩兵師団の偵察小隊としてその籍を置いている。
保有車両はKV-1が1両とBT7が4両。
ひどく歪な編成ではあるものの、偵察程度なら難なくこなせるだろう。
「トゥハチェンスキ少佐はいるか」
俺のもとに一人の将校がやってきた。
「俺がそうだが」
「書記長からの命令だ」
そういって将校は俺に一枚の封筒を手渡すと足早に去っていった。
見る限り中佐なのだが、こんな伝令兵紛いのことをさせられているとは。
少し気の毒に思いつつも、封を切り中身を確認すると中佐がわざわざ来た理由も納得できた。
「部隊は首都に下がれ、だとよ」
俺はエレーナにそう伝えると封筒ごと投げ渡した。
彼女も念のため一読し、確認すると溜息を吐いた。
「よっぽど義父様は私たちのことが心配みたいですね」
彼女が呆れるように笑うと俺もそれに同調した。
だが、この戦線から離れられるのであればそれでいい。
リューイ・ルーカスなどという化け物はBT7を主力にした我々では討ち取ることが不可能だからだ。
「総員にこのことを伝えろ! 首都へ後退するぞ!」
そのころバルトニアや連合国の作戦会議は紛糾していた。
このまま進むべきか、ここでとどまり迎え撃つか、それとも講和すべきか。
尤も最後の意見については全員が一致して納得したものの、そこまでのプロセスが議題となった。
後者は事前にバルトニア軍が用意していたプランであり、同国の軍人は多く賛同していた。
しかし前者はイギリスの将校が強く主張し、イギリスから送られてきた増援の数を見て自信を抱いた一部のバルトニア軍人までもが賛同していた。
とても愚かなことではあるのだが、イギリスという増援を招いたことにより軍としての団結力は以前にくらべ低下してしまっていた。
最終的に声の大きいイギリス軍将校に妥協する形でソビエトの重要都市であるレニングラードへの攻撃が決定された。
下らない、実にくだらない。
戦果の欲しいイギリス将校とそれにつられた我が国の愚かな将校のために我々は兵員を失うのだろう。
わが旅団に与えられたのは予備戦力としての任務。
意外と安全だと思われるかもしれないが、そんなことはない。
前線で敵がほとんどいない地域を行軍するのに比べればよっぽど予備戦力のほうが危険性も重要性も高い。
我々はそれだけ上に期待されているらしい。
番犬としての役目を果たそうと、自らの良心を押し殺した。
1940年、1月25日。
バルトニア史上最大の失態と呼ばれた『レニングラード攻勢』の開始が下令された。




