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二度目の人生では妃候補になりません  作者: 秋月 もみじ


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第10話 冷めた茶と旧帳簿


冷めた茶の表面に映った顔を見て、私は朝から席を立っていないことに気づいた。


記録室の時計はすでに夕刻を過ぎ、窓の向こうでは温室のガラスが橙色の光を返していた。昼にミナが持たせてくれたパンは包みを開けないまま、書類の脇で少し潰れている。


前年の基金支払控えと薬草院の受領票を照合し始めると、やめ時が分からなくなった。月白草粉末の価格は、季節による揺れを考えても高すぎる月がある。しかも、その月の納入量は多くない。差額を一覧にし、供給番号を横へ並べると、ベレス商会の特定の系列へ偏っていた。


これは疑いであって、まだ証明ではない。


そう自分に言い聞かせながら、私は次の頁をめくる。前の人生でも、施療基金の薬包に異常を見つけたのは初夏だった。候補奉仕の一環で数を確かめ、湯を使える時間に一包だけ試した。紫の縁が出た明礬紙を帳面に挟み、侯爵夫人へ報告した。


帳面を預かります、と彼女は言った。


思い出した途端、机の上の茶から甘くないはずの香りが立った気がした。私はカップを遠ざける。中身はただの茶で、冷えて渋くなっているだけだ。


「オフィーリア助手」


声がして、私は椅子を引きかけた拍子にペンを落とした。


記録室の入口にノエルが立っていた。外套を腕に掛けており、もう帰るところだったのだろう。彼は落ちたペンを拾う前に、机へ積まれた書類と、手つかずのパンを見た。


「お一人で残る予定を提出されていましたか」


「いいえ。気づかず、時間が過ぎてしまいました」


言い訳としては、あまりに幼い。けれど彼は叱るより先に、机の端の空いた椅子を引いた。


「帰りの詰所から、まだ通過記録がないと問い合わせがありました。立ち寄り方式を選ばれたのはあなたですから、守れない日には変更を知らせてください」


責められているのは残業そのものではなく、自分で選んだ安全策を無言で破ったことだった。私は小邸を選び、記録で守られる道を求めたのに、焦ると一人で閉じこもる癖が出る。


「申し訳ありません。明日からは、作業を延ばす時にも記録係へ届けます」


「それで十分です」


「まず座ったままで構いません。作業の内容を説明できますか。それとも、今日は書類を封じて終えますか」


終える、と言えば帰れる。けれど書類から手を離すと、また誰かに持って行かれるような気がして、指が支払控えの端を押さえたまま動かなかった。


「前年の支払額に、不自然な差があります。複写帳へ移す前に、供給番号だけでも揃えておきたくて」


ノエルは向かいに座り、書類へ手を伸ばす前に尋ねた。


「見てもよろしいですか」


「はい」


彼は一覧と原票を照らし合わせた。一行ずつ確認する仕草は速くはないが、見落としを許さない落ち着きがある。


「差が出ていることは確認できます。供給元と支払先を調べる価値はありますが、今夜あなたが全て終える必要はありません」


「でも、遅れれば」


言葉が喉で止まった。遅れれば何なのか、説明できない。前の人生では遅れた結果、私は白塔で死んだ。けれど現世では、すでに汚染箱を止め、検体も記録も残っている。


「王宮の名が書かれた書類を見ると、怖いのです」


口から出た言葉は、自分でも驚くほど頼りなかった。


「誰かが持って行く前に、全部確かめなければいけないような気がして。根拠のない話だと分かっています」


ノエルは、すぐに大丈夫だとは言わなかった。私の手が押さえる支払控えと、冷め切った茶へ目を移す。


「根拠のない恐怖かどうかを、私が決めることではありません。ですが、帳面を守るためにあなたが倒れれば、安全を守る人を一人減らします」


少し不器用な言い方だった。慰めようとしたのではなく、仕事の言葉で私を休ませようとしている。その方が、今はありがたい。


「では、どうすれば」


「今見つけた頁を二人で封じます。明日の午前、リュシーと私を含めた三者で照合を再開し、予備監査資料として登録する。今夜から、この記録室の持ち出し簿へ閲覧者を残します」


一人で抱えるのではなく、止まったところまでを安全に残す。


私はやっと、支払控えから手を離した。


原票を袋へ移す間、私の視線は何度も机へ戻った。書類の角が一枚だけ折れており、それを直したくてたまらない。ノエルは折れをそのままにし、封入状態の特徴として記録した。整えてしまえば、今の状態が失われる。綺麗に揃えることと、正しく残すことは同じではないらしい。


「お願いいたします」


ノエルは呼び鈴で当直の記録係を呼び、書類の頁番号と枚数を確認した。封筒へ入れた原票の綴じ目に蝋を垂らし、私にも印を確かめさせる。帳面を守る手順が増えるほど、胸の浅い呼吸が少しずつ下がった。


「パンは、今からでも召し上がれますか」


「少し潰れていますが、大丈夫です」


「見たところ、私が座った時にはすでに潰れていました」


彼の声にわずかな困り方があり、私は思わず笑いかけた。笑みと呼べるほど整ってはいなかったけれど、白塔から戻って初めて、怖さとは違う理由で息がこぼれた気がした。



パンを半分だけ食べた後、私は温室を通って門へ向かった。夕方の熱がこもる温室では、鉢植えの葉が水を欲しそうに垂れている。ノエルは当直へ水遣りの札を残し、私の歩調に合わせて少しゆっくり歩いた。


「アシュフォード監督官は、なぜ記録をこれほど重く見ておられるのですか」


尋ねてしまってから、立ち入りすぎたかと後悔した。彼はすぐに答えず、鉢の一つに付いた札を立て直す。


「以前、地方の施療所の監査を手伝ったことがあります。不審な納品がありましたが、残されていた帳簿は一冊だけで、調査が始まる前に数字を書き換えられた。危険は止められましたが、遅れました」


言葉の最後が、少し硬くなった。


「その時から、記録の置き場所を増やすようになったのですか」


「そうです。ただ、私一人の用心では足りません。あなたの複写帳の提案は、現場の人が続けられる形になっている」


褒められていると気づくまでに、一拍かかった。私は礼を言う代わりに、少しだけ意地を張った。


「まだ試行一日目です。紙が足りないと言われるかもしれません」


「その時は費用を説明します。改善には、使う紙の枚数も含めて責任がありますから」


院の門を出ると、迎えの馬車の前でミナが腕を組んで待っていた。怒っているのではなく、心配を怒った顔で隠しているのだと、長い付き合いで分かる。


「遅くなるなら一筆お寄越しください。夕食の煮込みが鍋の中で待ちぼうけです」


私は素直に謝り、ノエルへも礼を述べた。彼はミナへ事情を説明しようとはせず、明日の出勤時刻を確認して退いた。私の暮らしへ許可なく入り込まない、その距離が温室の灯りより心地よかった。


温室の出口で、使者が私たちを待っていた。汗ばんだ顔で差し出した封筒には、施療基金の印がある。


院長宛てだが、急ぎのため監督官へ渡すよう命じられたという。


ノエルが封を確認し、私とともに院長室へ運ぶ。戻ってきた院長が開封した書面には、緊急供給会議への出席要請が記されていた。


猛暑により発熱患者が増え、停止中の供給を代替する必要がある。その議題の中に、ひときわ簡単な文があった。


ベレス商会保有の備蓄品につき、緊急時の検品免除を審議する。


冷めた茶よりも苦いものが、口の中へ戻ってきた。


それでも、今夜の書類は封じられた。明日には、私だけではなく三人で続きを調べられる。怖さに背を押されて駆け出すのではなく、用意した記録を持って会議へ向かうのだ。


一度止めた危険を、今度は慈善という名で通そうとしている。


私は冷めた茶を残し、新しい水だけを飲んだ。

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