7-4:過去を持つ人
7-4:過去を持つ人
朔が自分のことを詳しく話すことはなかった。
転校してきた理由も、前の学校で何があったのかも、クラスの誰も正確には知らない。県外から来た、ということだけは分かっているが、それ以上は本人が話さない限り広がらなかった。
噂めいたものは少しあったが、どれも曖昧で、決め手がない。
朔自身が、そういう“知りたがる空気”の中へ入っていかないからでもある。
それでも、時々ふとした言葉の端に影が見えることがあった。
図書室で話した数日後、恒一は補習の帰りに校舎裏の自販機の前で朔と会った。
夏の終わりの午後で、空気はまだ暑いのに、風の匂いだけが少し変わっていた。
朔はスポーツドリンクのボタンを押し、出てきた缶を手に取ってから、何となくそのまま自販機にもたれた。
恒一も隣で水を買う。
沈黙は気まずくなかった。
自販機の低い機械音が、校舎裏の静けさの中で小さく響いている。
表のグラウンドからは野球部の声が聞こえ、少し遅れて金属バットの音が鳴った。
夏休みの終わりが近づいているのに、空はまだ白く眩しい。けれど、その白さの奥に、ほんの少しだけ秋の色が混ざり始めているようにも見えた。
少ししてから、恒一は前から気になっていたことを言葉にした。
「秋月って、なんか……最初から分かってる感じするよな」
「何が」
「自由とか、選ぶこととか」
朔は缶の表面についた水滴を親指でぬぐった。
すぐには答えない。
その間が、軽い質問ではなかったことを示している気がした。
やがて朔は、視線を前に向けたまま言う。
「分かってるわけじゃないよ」
そして少しだけ間を置いてから、続ける。
「ただ、一回、自分で選んで、失くしたことがあるだけ」
その言葉に、恒一は黙る。
詳しくは語らなかった。
何を選び、何を失ったのか。
家族なのか、友人なのか、進路なのか、それとももっと別の何かなのか。
何も分からない。
でも、分からないままでも、その言葉の重さだけは十分伝わった。
朔は自分の選択によって、取り返せない何かを失ったことがある。
だから自由を軽く扱わない。
だから“好きにすればいい”というような明るい言葉を、そのまま信じない。
それは理屈ではなく、傷のある人間の実感なのだろう。
「後から考えたら、別の選び方もあったのかもなって思うよ」
朔は淡々とそう言った。
「でも、そのときはそれしかないと思った。で、選んだなら、もう戻らない」
夕方の光が自販機の横の壁に斜めに落ちている。
遠くで野球部の声が響き、すぐに消える。
恒一は、自分の中で何かが静かに動くのを感じていた。
自由とは無傷でいられることではない。
自分らしくいても何も失わずに済むことでもない。
むしろ、傷つく可能性を含んだまま、それでも選ぶことなのかもしれない。
それは、これまで恒一が何となく思い描いていた“自由”とはかなり違っていた。
もっと軽く、明るく、解放に近いものだと思っていた。
でも今、朔の言葉の前では、それはずいぶん薄いイメージに思える。
自由には、痛みがある。
失う可能性がある。
選んだあとで後悔するかもしれないし、間違えたと思う日もあるかもしれない。
それでもなお、自分で決めるしかないところにしか、本当に自分の人生はないのかもしれない。
朔は缶を軽く振り、短く言った。
「だから、自由がいいものか悪いものかって話でもないと思う」
それはきっと、答えをくれる言葉ではなかった。
ただ、簡単に綺麗ごとへ逃がさないための言葉だった。
恒一はその場で何も返せなかった。
返せないままでも、朔の言葉は自分の中に沈んでいく。
すぐに理解できるわけではない。
けれど、分からないなりに、これまでより少しだけ本当の重さを持って心に残る。
朔は過去を持つ人だった。
だから今の距離感で世界を見ている。
だから自分の態度を“自然体”として軽くは語らない。
そのことが恒一には、少しずつ分かってきた。
夏の終わりの風が、校舎の隙間を通って吹き抜ける。
季節は静かに変わりかけている。
教室の中の空気も、恒一自身の見ているものも、同じように少しずつ変わっていく。
自由とは、傷つかないことではない。
むしろ、傷つくかもしれないと知ったうえで、それでも選ぶことなのだと、恒一はまだ完全ではない理解のまま、少しずつ受け入れ始めていた。




