第7章:秋月朔という存在 7-1:転校生
7-1:転校生
二学期の始まりは、いつもどこか落ち着かない。
夏休みが終わったばかりの教室には、まだ休み明け特有のだるさが残っている。日焼けした顔、少し短くなった髪、夏期講習や模試の話。結局何も変わっていないようでいて、ほんの少しだけ皆の輪郭が変わっている。
窓の外にはまだ強い日差しが残っているが、朝の空気には夏の終わりの乾いた気配も混ざり始めていた。
恒一も、自分の席に座りながら、ぼんやりと教室を見渡していた。
休み前と同じ机。
同じ黒板。
同じ窓際のカーテン。
けれど、夏をひとつ挟んだだけで、そこにいる人たちが少しだけ違って見える。
旬は相変わらず周囲と話していたが、以前より無理に声を張らなくなった気がする。
凛は誰かのスマホをのぞき込みながら笑っているものの、時々ふっと自分の画面に目を落としていた。
綾人は朝から参考書を開いている。けれど恒一はもう、その姿を単純に“迷いがない”とは見られなかった。
紬は窓際で小さくノートを開いていて、透は後ろの席で退屈そうに頬杖をついている。
何も変わっていないようで、やっぱり少しずつ変わっている。
そう思ったとき、チャイムが鳴った。
ホームルームの時間、神谷は出席簿を閉じてから教卓の前に立ち、いつもより少しだけ改まった声で言った。
「今日はひとつ連絡がある。二学期から、このクラスに新しい生徒が入る」
教室の空気がわずかに動く。
転校生。
三年のこの時期に、という驚きが先に立った。
誰かが小さく「今?」と呟き、別の誰かが「珍しくない?」と返す。
そのざわめきが完全に広がる前に、神谷が後ろの扉に目を向けた。
「入ってくれ」
扉が開く。
入ってきたのは、秋月朔という名前の男子だった。
背は高すぎず低すぎず、体つきも特別目立つわけではない。髪は短く整っていて、制服の着方も乱れていない。第一印象として強く残るような派手さはなかった。
それなのに、教室の視線はすぐに彼へ集まった。
理由は、たぶんその立ち方だった。
朔は教卓の横に立って、神谷に促されるまま短く自己紹介をした。
「秋月朔です。よろしくお願いします」
それだけだった。
声は落ち着いていて、必要以上に緊張しているようにも見えない。
かといって愛想よく笑うわけでもなく、場を和ませるための気の利いた一言を足すでもない。
転校生らしい“頑張って馴染もうとする感じ”が、あまりなかった。
周囲の空気に過剰に合わせないその姿勢は、すぐにクラスの注意を引いた。
無理に馴染もうともしていない。
けれど、孤立を恐れて身構えている感じもない。
ここに来たからここに立っている、というだけの自然さがあった。
神谷が空いている席を示し、朔は静かにそこへ向かう。
途中、数人の視線があからさまに動いたが、本人はそれを気にする様子もなく、淡々と椅子を引いて座った。
その瞬間、恒一は少しだけ違和感を覚えた。
何が違うのか、すぐには言葉にできない。
ただ、自分たちが教室の中でいつの間にか身につけていた“調整”のようなものを、朔は最初からしていないように見えた。
転校生なら、本来はもっと周囲の目を気にしてもおかしくない。
変に浮かないように、少しは空気を読むようなそぶりがあってもいいはずだ。
でも朔には、それが薄かった。
もちろん無礼ではない。
必要な礼儀はちゃんとある。
ただ、それ以上に“好かれようとする動き”がない。
そのことが、かえって目立つ。
一時間目が始まっても、教室の中にはまだどこか新しい異物が置かれたような空気が残っていた。
教師が黒板に文字を書き、誰かがノートを開き、いつも通り授業は進んでいく。
それでも何人かは、ときどき朔の方をちらりと見た。
朔は前を向いていた。
当てられれば普通に答え、分からないところでは無理に取り繕わず、「そこはまだ分かりません」と言った。
その答え方に妙な強がりはない。分からないことを分からないと言うだけ。
ただそれだけなのに、恒一には少し不思議に見えた。
休み時間になると、すぐに何人かが声をかけにいった。
「前の学校どこ?」
「このへん詳しくない?」
「部活とかやってた?」
朔は一つひとつに答える。短く、でも雑ではなく。
「県外」
「詳しくはない」
「前はやってたけど、今はまだ分からない」
質問に必要な分だけ答え、それ以上は広げない。
会話を切っているわけではないのに、必要以上に流れへ乗ろうともしない。
それが冷たく見える人間もいるだろうし、逆に妙に印象に残る人間もいるだろう。
実際、教室の空気は少しだけざわついていた。
「なんか、淡々としてるな」
「感じ悪いってほどじゃないけど」
「でも変に媚びてない感じする」
そんな声が、あちこちで小さく交わされる。
旬も一度、朔に話しかけていた。
いつものように軽い調子で、「分かんないことあったら聞けよ。俺も分かんないけど」と言って、周りを少し笑わせる。
朔はそれに対して、ほんの少しだけ口元を動かした。
「分からないなら、別の人に聞く」
返答としては間違っていない。
だが、冗談に乗るでもなく、無視するでもなく、ただそのまま返す。
旬は一瞬だけきょとんとして、それから「まあ、正しい」と笑った。
その短いやりとりだけで、恒一には朔という人間の輪郭が少しだけ見えた気がした。
場を乱そうとしているわけではない。
でも、場に合わせることを最優先にしているわけでもない。
相手を拒絶しているわけではないのに、必要以上に自分を差し出さない。
恒一は自分の席からその様子を見ていた。
朔は特別なことをしていない。
なのに、その“何もしていなさ”が、クラスの中に小さな波を起こしている。
空気に合わせないことが、こんなにも目立つのかと、恒一は少し驚いていた。
これまで、この教室では多くのことが暗黙のうちに調整されていた。
誰かが冗談を言えば、笑う。
誰かが少し踏み込みすぎれば、別の誰かが話題を変える。
重くなりそうな話は軽く流し、気まずくなりそうな沈黙は誰かが埋める。
その役割を、旬や凛のような人間が自然に引き受けてきた。
でも朔は、その流れの外側に立っているように見えた。
だからといって、孤立しているわけでもない。
むしろ彼は、孤立することを特別恐れていないように見える。
そこが、恒一には分からなかった。
嫌われたくない。
浮きたくない。
変に思われたくない。
そういう気持ちは、教室の中ではほとんど空気みたいに当たり前にある。
恒一自身も、その空気を吸っている。
けれど朔は、まるで少し違う呼吸の仕方を知っている人間みたいだった。
昼休みが近づくころには、クラスの中で朔への関心は少し落ち着いていた。
それでも完全に消えたわけではない。
新しいものを見つけたときの好奇心と、うまく距離を測れない戸惑いが、教室のあちこちに薄く残っている。
恒一は、ノートにペンを走らせるふりをしながら、朔の横顔を見た。
無理に笑わない。
必要以上に謝らない。
分からないことを分からないと言う。
話を広げなければいけない場面でも、広げたいと思わなければ広げない。
ただそれだけのことが、こんなにも異質に見える。
それは、今までこの教室にいなかった種類の存在だった。
そして恒一は、その異質さに戸惑いながらも、どこかで目を離せずにいた。




