釜山奇襲作戦
壬辰の濤
万暦二十年、朝鮮海峡、夜。
海面は濃霧に覆われ、視界は百歩にも満たない。朝鮮水軍の将・李舜臣は旗艦「亀船」の甲板に立ち、眉をひそめていた。全羅左道水軍節度使として、この海峡の戦略的重要性を誰より熟知している——ここは日本から朝鮮半島へ至る最も近い海上ルートなのだ。
「大人、霧が濃すぎ、望楼から海面が全く見通せません」副将が憂慮しつつ報告する。
李舜臣は頷きながらも、鋭い視線を濃霧の奥へ注ぐ。「だからこそ、今夜こそ危険なのだ。各艦に伝令、警戒を強化し、異変があれば即時報告せよ」
彼は船室へ入り、海図を広げる。四月以降、倭寇は釜山・東萊一帯で度重なる上陸試行を繰り返し、ことごとく撃退されてはいたものの、出兵規模は回を追うごとに膨れ上がっていた。朝廷の一部の者は小規模な略奪骚扰と見做すが、李舜臣はそうは考えない——捕虜の供述から、日本の関白・豊臣秀吉が大軍を集結、総勢三十万と号し、朝鮮を併呑したうえ「明を仮道して侵攻する」野望を抱いている事実を掴んでいた。
「三十万か……」李舜臣はつぶやく。朝鮮全土の兵力を合算しても二十万に満たず、各地に散在し訓練も不十分だ。もし本当に三十万の倭寇が押し寄せたら……
突如、船外から慌ただしい足音が響く。斥候が青ざめた顔で駆け込む。「大人!南東方に船影、夥しい数の船が!」
李舜臣の胸が沈み、剣を掴んで船外へ飛び出す。望楼へ上がると濃霧越しに南東の海面に無数の黒い影が連なるのがうっすらと確認できた。数十隻でも数百隻でもない、数千を超える船団だ。
「倭寇の主力だ……」副将は声を震わせる。
李舜臣は冷静さを保ち号令を下す。「信号弾を上げよ!全戦船、戦闘態勢を整え!速艇を港へ派遣し急報せよ、倭寇本軍襲来!」
信号弾が濃霧の空で赤い火を散らす。朝鮮水軍各艦は瞬く間に陣を敷き、亀船特有の鉄板屋根の砲窓が開かれ、弓兵が構えにつく。
だが敵の進撃はあまりに速かった。
濃霧を突いて最初に現れたのは、在来の安宅船や関船ではない、李舜臣が一度も目にしたことのない新型艦だ。船体は低く、船首は刃のように尖り、舷側に砲門が林立、船体全体が濃い鉄材で覆われ、マストには五七桐の紋章旗が翻っている。
「あれは鉄甲船か?」李舜臣は驚愕する。朝鮮の亀船も木造に鉄板を張っているが、眼前の艦は丸ごと金属で造られていた。
さらに恐るべきはその速力だ。逆風の中でも猛スピードで進む様子は、風に頼らない推進機構を備えているのは明らかだ。
「砲撃開始!」李舜臣が命じる。
朝鮮水軍の大砲が一斉に轟き、砲弾が鉄甲船に着弾するも、大半は鉄板に弾かれ火花を散らすだけ。わずかな砲弾が細部を貫くも、致命的な損傷を与えるには至らない。
対する鉄甲船の反撃は壊滅的だ。舷側の砲窓が一斉に開き、数十門の火砲が一斉射撃、砲弾が雨あられと降り注ぐ。一隻の亀船が火薬庫に直撃を受け大爆発、船体は瞬時に砕け散った。
「散開せよ、密集するな!」李舜臣が怒鳴るも時既に遅し。
二度目の砲撃が襲来、さらに三隻の朝鮮戦船が撃沈される。鉄甲船は陣形を崩さず、鉄の巨獣の如く朝鮮水軍の防線を蹂躙して進む。
「大人、旗艦が照準されています!」舵手が絶叫する。
三隻の鉄甲船が針路を調整し、砲口を一斉に自艦へ向けているのを李舜臣が目にする。「転針、全速で回避せよ!」
亀船は堅牢だが速力は鉄甲船に遠く及ばない。一発目の砲弾が舷をかすめ大きな裂け目を穿ち、海水が船内に流れ込む。続く二発目は主マストに直撃、柱は折れて倒れ数名の水夫を圧死させる。
「船を捨てろ!」李舜臣は歯を食いしばり命令する。「全員小舟に乗り換え撤退せよ、必ず情報を本国に届けねばならない!」
旗艦が沈没する寸前、李舜臣と一部の将兵は小舟に乗り込み濃霧を盾に脱出した。振り返れば、自らが長年育て上げた朝鮮水軍が殲滅され、次々と砲火で木っ端微塵に砕かれていく。
「倭寇が、どうしてこれほどの戦力を……」副将がぽつりと呟く。
李舜臣は顔を青くこわばらせる。これは単なる領土侵攻ではない、装備格差による周到な電撃作戦だ。朝鮮は存亡の危機に立たされている。
同刻、釜山港。
港の守備兵も濃霧と突如出現した膨大な船団に呆然としていた。数千隻に及ぶ大小の船が蝗のように港へ押し寄せた瞬間、守将・鄭撥は単なる偵察骚扰ではなく総攻撃だと悟る。
「矢を射て!射撃せよ!」鄭撥は声を嗄らし号令するも、放たれた矢は鉄甲船に通用しない。
最初に上陸したのは赤い胴甲をまとい鹿角兜をかぶった武士たち、加藤清正率いる豊臣軍先鋒だ。精錬され装備の行き届いた彼らは上陸と同時に港の守備兵を瞬く間に蹴散らす。
鄭撥は親衛隊を率いて奮戦するも、数倍の敵に包囲される。十数本の矢を浴びながら剣を握り立ち続け、最後は武士に首を斬られ討ち取られた。
「港を制圧し、上陸拠点を築け!」加藤清正が命じる。「後続部隊は上陸を急げ!」
釜山陥落は序章に過ぎない。続いて小西行長・黒田長政・島津義弘ら諸将配下の各部隊が相次いで上陸する。軍勢は無統制の烏合の衆ではなく綿密な作戦通り行動:工兵は埠頭の補修・拡張に従事、歩兵は防線を張り内陸へ進撃、騎兵は周辺偵察、輜重部隊は物資の荷揚げを進める。
六時間も経たぬうちに釜山は日本軍の手に落ち、五万を超える兵が上陸し堅固な橋頭堡を築き上げる。
「速すぎる……」大邱へ逃れる途中、釜山の空に立ち昇る火の手と煙を眺め、慶尚道観察使・李洸は呟く。「倭寇に、どうしてこれほどの船と兵が……」
彼は知る由もない、これが始まりに過ぎないと。
その後三日、日本軍は驚異的な効率で上陸を続け、毎日数万の兵・数千頭の軍馬、大量の大砲と兵糧が釜山へ運び込まれる。四日目には上陸兵力が二十万を突破し、なお増加を続ける。
さらに脅威なのは進撃スピードだ。軍は三路に分かれ進軍:加藤清正は北上し漢城を目指し、小西行長は東進し慶州を陥落、黒田長政は西へ進み全羅道を掃討する。
朝鮮軍は虎狼の如き日本軍の前に次々と崩壊する。兵士が臆病なのではなく、装備・訓練・戦術の全てにおいて劣位に立つからだ。日本兵は鉄砲を大量装備するのに対し、朝鮮軍は弓矢と白兵兵器が主体;日本軍は挟撃・迂回を駆使する先進戦術を用いるのに対し、朝鮮軍の用兵は硬直的;神国の兵と信じ士気高昂な日本軍と、長年戦乱を経験せず士気の低い朝鮮兵では差は歴然だ。
「漢城危急!」の報が王宮に届き、朝廷全体が震撼する。
朝鮮国王・李昖は緊急廷議を開くも、群臣の大半は狼狽し有効な方策を打ち出せない。平壌へ遷都を唱える者、明へ急遽援軍を請う者、さらに和睦を提案する者まで現れる。
「和睦などと!」領議政(宰相)・柳成龍は怒鳴る。「倭寇の野望は朝鮮に留まらず天下を狙う!今日和睦すれば明日には亡国だ!」
李昖は途方に暮れる。「ではどうすればよい?」
柳成龍は平伏し進言する。「陛下、取れる方策は二つ:一、直ちに漢城防衛体制を整え時間を稼ぐ;二、使者を急ぎ明へ派遣し、天朝に援軍を要請すること!」
「だが漢城守備兵は五万に満たず、二十万の敵を阻めようがない」
「一日でも長く守り抜き、明の援軍を待つほか朝鮮に活路はない!」柳成龍は目に涙を浮かべる。
釜山郊外、日本軍本陣。
豊臣秀吉は仮設の軍幕に座り諸将の戦況報告を受けていた。還暦間近の関白は体つきは小柄で顔は痩せているが、眼光は迫力に満ちる。華やかな陣羽織を身にまとい、短刀を手遊びに弄ぶ。
「清正は大邱まで進み、朝鮮兵は望風して逃走」
「行長は慶州を占拠、兵糧を莫大に鹵獲」
「長政は全羅道の水軍残党を潰し沿岸を制圧」
次々と戦勝報が届き、幕内の諸将は喜色を浮かべる。小早川隆景・宇喜多秀家ら少数の者だけが険しい面持ちを保つ。
「関白殿」小早川隆景は慎重に口を開く。「我が軍の進撃は順調だが補給線が伸び、後方は手薄になっています。朝鮮は弱体とはいえ国土は広く人口は散在、遊撃戦で補給路を攪乱されれば思わぬ禍が生まれかねません」
豊臣秀吉は一瞥して笑う。「隆景よ、お前はいつも慎重すぎる。朝鮮兵は一戦で崩れ民衆も降伏するのに、どこに遊撃の余地があろう」
宇喜多秀家が補足する。「我々の目的は朝鮮全土の占領ではなく、速やかに主力を撃破し漢城を落とし国王を降伏させること。朝鮮が降れば、明が出兵する大義名分は失われます」
「明か……」豊臣秀吉は短刀を置き、狂気じみた輝きを瞳に宿す。「これこそ真の標的だ。朝鮮など前菜に過ぎぬ」
立ち上がり幕内の地図へ進み、指で朝鮮半島をなぞり遼東を指す。「朝鮮を足場に大陸へ進軍せよ。明は豊かで万里の国土、億万の民を擁す……これこそ余の野望に相応しい地だ!」
大半の将兵は興奮し、明の地で大名として領土を得る姿を夢見る。
小早川隆景と宇喜多秀家だけが顔を見合わせ、互いの不安を読み取る。日本一国で明に挑むのは卵で石を打つが如き愚行だと知りながら、誰も諫言できない。
「諸軍に伝令!」豊臣秀吉が高らかに命じる。「全速で進撃し、半月以内に漢城を陥落せよ!漢城の景福宮で朝鮮王の降伏を受ける!」
「承知!」諸将は一斉に応じる。
命令は瞬く間に前線へ伝達。日本軍は歯車の刻まれた戦争機械のように朝鮮内陸へ加速して進む。進軍路の城は陥落し村落は焼き払われ民は虐殺され、朝鮮半島は血と炎に呑まれる。
五日後、漢城郊外。
朝鮮軍は漢江に最後の防線を築くも、加藤清正率いる十万精鋭の前に一日も持たず崩れ落ちる。清正自ら突撃を指揮し防線を突破、漢城の門は開かれる。
李昖は王族と大臣を伴い慌てて北の平壌へ逃れる。漢城守備兵は大半が潰走し、残った兵も市街戦の末に殲滅される。
五月三日、日本軍が漢城入城。加藤清正は三日間兵に略奪を許し、二百年の歴史を持つ朝鮮の王都は焼き討ちに遭い廃墟と化す。景福宮は炎上、宗廟は破壊、典籍は焼失、至宝は根こそぎ略奪される。
報が平壌に届き、李昖は泣き崩れ自決しようとするが大臣に必死で引き止められる。
「陛下、自死してはなりません!朝鮮は陛下を必要としています!」柳成龍は泣きながら平伏する。「北方諸道はまだ我が手にあり、明の援軍も待機しています。国はまだ滅んでいません!」
李昖は力なく座り込む。「援軍……明の兵はいつ届くのか?」
この疑問は全朝鮮の民の胸に去来する。
一方、焼け跡となった景福宮で入城式に臨むため釜山から駆け付けた豊臣秀吉は空を仰いで高笑う。
「朝鮮は落ちた!次は明だ!」
傍らの将に告げる。「一ヶ月整備し兵糧と兵力を補充、七月は平壌で夏を過ごす。秋には遼東へ進軍せよ!」
将兵の熱狂的な歓声の裏、遠くの丘の上から冷徹に一部始終を眺める人影がある。旅人の空、夜蘭、ディシア、李如松から派遣された明兵護衛小隊だ。
「三十万……」漢城に溢れる日本兵を眺めディシアは震える。「スメールで相まみえた敵より数が上回る」
夜蘭は顔を曇らせる。「装備も精緻で統制も行き届いている。もしこの軍勢が何らかの手段でテイワットへ渡ったら……」
空は拳を握り締める。「止めねばならない。テイワットのためだけでなく、この世界のためにも」
護衛の明兵小隊長が低く囁く。「三位、この地は長居無用。早く遼東へ赴き、李総兵と朝廷に全てを報告せねば」
空は最後に漢城の軍勢を眺め、足を運ぶ。
胸中に一つの計画が芽生える。
この時代に迷い込み、侵略の惨状を目の当たりにし、敵が同じ勢力であるのなら——この世界で織田信長勢に対抗する糸口を探し、二つの世界を襲う災厄を食い止められるかもしれない。
夜が降り、朝鮮半島は慟哭に包まれる。遠くテイワットでは鍾離が同じ瞬間、何かを感じ取り北東の星空を見上げる。
「空……答えは見つかったか?」
星空は沈黙し、歴史の歯車は無数の命を踏みつけ、滔々と進みゆく。




