ドートレの乱
北風は、永遠の冬の国スネージナヤの絶えることのない嘆きのように、細やかな氷晶を巻き込み、茫々たる雪原を打ちつけていた。堅氷と鋼鉄に支配されたこの国の辺境に、愚人衆執行官「博士」ドットーレの配下に属する隠密実験施設が、永遠に凍りついた山々の奥深くにひっそりと佇んでいる。
施設内部は外界の極寒とは対照的に、消毒薬、微かな血の臭い、そして奇妙な化学薬品が混ざり合った冷たい気息に満ちていた。瑠璃色の灯りが長廊を照らし、両側には淡い緑色の栄養液で満たされた円筒型の容器が列を成して並んでいる。容器の中には様々な姿をした人型・非人型の生物組織が浮遊し、無音のままゆらめき、まるで悪夢の展覧会のようだ。
研究室の中枢エリアでは、ドットーレ――無数の分身の一人が、目の前の複雑な装置の数値に集中して調整を加えていた。彼はお馴染みの愚人衆執行官の衣装を身にまとい、仮面が顔の大半を覆い、純粋な理性と残忍とも言える求知欲に煌めく瞳だけを覗かせている。
先ほど神経接続実験を終えたばかりで、被験体は激しい痙攣の末、脳死状態に陥っていた。ドットーレは無表情にデータを記録する。失敗など彼にとっては日常に過ぎず、一つの失敗は誤った答えを除外し、真理に一歩近づくだけのことだ。
「能率が……まだ遅すぎる」
低く独り言をつぶやき、その声が広々とした研究室に微かに響いた。氷の女王の壮大な野望は確かに偉大だが、官僚体制の束縛、他の執行官たちの公然・陰然の疑念、資源配分の枠制限――これらすべてが彼を束縛された苛立ちに駆り立てていた。
彼はより広大な実験場、制限のない研究素材、そして完全に自らの命に従い、「進化」と「真理」の探求のためだけに存在する専属部隊を渇望していた。
その時、一人の異質な訪問者が、一時的に心を惑わされた衛兵に案内され、音もなく研究室の入り口に姿を現した。
訪問者はスネージナヤでよく見られる厚手の旅用マントを身にまとっていたが、フードの下の顔立ちには、極東の風霜が刻み込んだ痕跡が宿っている。体格は特に大きくはないが、岩の割れ目に根を下ろした松のようにまっすぐ立っている。
何より目を引くのはその瞳だ。沈黙し、鋭く、あらゆる偽りを見透かすかのようだ。この男こそ片倉小十郎景綱。伊達政宗が最も信頼する参謀であり、右腕であり、片目の殿・伊達政宗にとってもう一つの「眼」である。
「ドットーレ閣下」
片倉小十郎は穏やかに身を屈め、流れるような異国の礼儀を見せた。彼のスネージナヤ語には訛りがあるものの、極めて明瞭に響く。
「遠き奥州より参りし片倉小十郎。主君・伊達政宗公の命を受け、閣下に挨拶を申し上げに参った」
ドットーレはゆっくりと振り返り、メスのような視線で片倉小十郎をなぞった。すぐに返答せず、この不意の訪問者をじっくりと眺め渡す。
奥州伊達氏――彼も名前だけは聞いている。東の島国に君臨する強大な勢力で、武勇に優れ野望に満ちた一族として知られている。だが両地は万里隔たっており、なぜ伊達家の使者が自分の隠密研究室に現れるのか。
「伊達政宗か……」
ドットーレの声にはからかいの響きが宿る。
「片目と大志で名を馳せた領主だと記憶している。遥かな奥州とスネージナヤの氷原には、本来交わる縁などない。はるばる万里を渡って訪れたのに、ただ挨拶だけというはずもあるまい」
彼は手を振り、茫然とした面持ちの衛兵に退くよう命じた。
片倉小十郎はドットーレの鋭い視線を真っ直ぐ受け止め、唇に微かな笑みを浮かべた。
「閣下のお見通しの通り。確かに主君の挨拶を携えてはおりますが、それ以上に、閣下が今直面している窮状を打開するかもしれぬ提案を持って参りました」
「窮状? 私に何の窮状がある?」
ドットーレは眉を上げた。
「知識の果ては無限であるのに、探求する手は見えざる鎖に縛られている」
片倉小十郎はゆっくりと語り、周囲の実験容器に視線を巡らせる。
「女王陛下は大いなる志を抱いておられますが、スネージナヤの国是は各方の均衡を求めざるを得ません。生命の本源を探求する閣下のような天才でさえ、資源や規則、時には同僚の邪魔に縛られねばならない。主君はかつてこう言いました――竜は浅瀬に閉じ込められるべからず、鴻鵠は九天に羽ばたくべし、と」
仮面の下でドットーレの眉が微かに動いた。この東の男の言葉は精密な探針のように、彼の心の奥底に潜む焦りを的確に突いてくる。肯定も否定もせず、ただ小十郎に続きを促した。
「主君・伊達政宗公は、閣下の才能を知り、志をも理解しております」
小十郎は声を潜めながら、一層強い響きを込める。
「奥州の総力を挙げ、閣下のために絶対的な忠誠を誓い、ただ真理探求のためだけに存在する特殊部隊『識骸旅団』を編成することを約束いたします。
この部隊は世俗の道徳や律法に一切縛られず、資源配分の最優先権を持ち、唯一の使命は閣下が構想するあらゆる人体実験を補佐すること。禁忌の錬金術も、深淵の力の融合も、さらには神の秘められた謎を窺うことさえ、すべてが許されます」
研究室の空気が凍りついたかのようになった。ドットーレは自身の血が速まる微かな鼓動を感じていた。識骸旅団、束縛のない実験、無限の資源……それはまさに彼が渇望してやまない条件だ。
遥か東の大名である伊達政宗が、どうしてこれほどのものを提供できるのか? そして彼が求める代償とは何か?
「代償を言え」
ドットーレは簡潔に問い、刃のように鋭い瞳で相手を射抜く。
「伊達政宗は何を欲している? スネージナヤの氷原に、彼の目に留まるものなど何がある?」
片倉小十郎は一歩踏み出し、眼光を強く放った。
「主君が求めるのは、スネージナヤの中核領土ではない。ただ一つの跳躍台です。南方の都市モンドシュタットに近く、特定の元素資源と地政学的価値に恵まれた、スネージナヤ辺境の土地……」
一瞬間を置き、ドットーレの表情を窺った後、一字一句重く言い放つ。
「その土地を手に入れるためには、閣下の……自発的な協力が必要となります」
「はっきり話せ」
ドットーレの声に危うい雰囲気が滲む。
「主君は閣下に叛旗を掲げ、氷の女王の支配を離脱し、モンドシュタットと接する広大な凍土を占拠していただきたいと望んでおります」
小十郎の言葉は雷のように研究室に轟いた。
「そうなれば閣下はその土地の実質的な支配者となり、伊達家の勢力は閣下の独立を支援する名目で密かに入り込み、統治の安定を助けると同時に、直ちに『識骸旅団』の設営を着手いたします。
閣下は束縛のない実験の王国を手に入れ、主君は必要な戦略的拠点と資源を得る。これぞ双方に利益をもたらす協定です」
反乱……ドットーレの心拍が急に高まった。狂気じみた計画だ。氷の女王を裏切ることは、スネージナヤ全土、そして他の愚人衆執行官全員を敵に回すことを意味する。リスクは計り知れず、一度失敗すれば二度と立ち直れぬ。
だが報酬はどうだ? 自らの手で完全に支配する独立王国、実験素材を集め危険な研究を執り行う専属部隊。誰に説明する必要も、誰の許可を待つ必要もない……その誘惑は深淵の囁きのように耳元に纏わりついて離れない。
過去に何度も実験申請を却下された鬱屈、「雄鶏」と呼ばれる正義を振りかざす執行官や、向こう見ずな「公子」たちが自身の研究方針に疑問を挟み邪魔立てしてきたことが次々と思い浮かんだ。
「伊達政宗、その約束をどう保証する?」
ドットーレの声は掠れていた。
「主君の信義こそが最大の保証です」
片倉小十郎は落ち着いて懐から漆黒の令牌を取り出した。令牌には伊達家の家紋である竹雀紋が彫られ、雀の目には流れるような暗紅色の宝石がはめ込まれ、微かな不吉な気息を放っている。
「これは『暗烏令』。この令を持てば、閣下はスネージナヤと周辺に潜伏する伊達家の隠密網を動かし、情報と初期支援を受けることができます。
閣下が蜂起した瞬間、識骸旅団編成に必要な第一陣の専門家と資源が秘密のルートで届けられます。主君は才覚に優れ天下を志す人物であり、小利のために閣下のような英才との約束を破るようなことは決していたしません」
ドットーレは令牌を受け取り、指先に冷たい感触が伝わる。暗紅色の宝石はまるで生き物のように微かに鼓動し、異国の力と断固たる意志が宿っているのを感じた。伊達政宗は、自分の反乱成功に全てを賭けているのだ。
研究室は長い沈黙に包まれ、ただ装置の作動する微かな唸り声だけが響いている。ドットーレの頭の中では成功確率が急速に計算され、リスクと利益が天秤にかけられていた。
女王の力は底知れぬが、彼女の関心は他の国の神の心を奪うことに大半を注がれている。スネージナヤ国内も一枚岩ではない。
迅雷の勢いで蜂起し、長年蓄えた私兵、改造兵士、公にされていない禁忌研究の成果を動員すれば、十分に戦う余地はある。その上、伊達家が約束する魅力的な後方支援もある。
狂気の念は一度芽生えると、ウイルスのように瞬く間に心に蔓延した。
ついにドットーレは顔を上げ、仮面の奥の瞳に決断の光が煌めいた。暗烏令を強く握りしめる。
「伊達政宗に伝えよ」
普段の冷静さを取り戻した声の下に、抑えきれぬ興奮と野火のような野心が潜んでいる。
「彼の提案を、このドットーレ、受け入れる」
……
数ヶ月後、スネージナヤ辺境、モンドシュタットに隣接する「寂烬海」一帯。
テイワット大陸全域を震撼させる反乱が、ここで勃発した。
「博士」ドットーレは配下の私兵勢力をほぼ全て動員。過酷な人体改造を施された強化兵士、数千機に及ぶ自律戦闘機械、自身の支配下に置いた複数の愚人衆正規軍を合わせ、総兵力は十五万に達した。
「究極の知識を求める自由を掴み、古き枷を打ち砕く」を旗印に、敢然と独立を宣言し、女王に忠誠を誓う周辺駐留軍に猛攻を仕掛けた。
戦火は瞬く間に冷たい荒原を焼き払った。ドットーレの部隊は装備が精良で、特に痛みを感じず眠ることもない改造兵士は戦場に恐るべき戦闘力を見せた。
冷たい潮流のように、準備のない辺境守備軍を瞬く間に飲み込み、戦略的要地や元素鉱脈の豊かな地域を次々と占拠していった。
スネージナヤ宮廷は激しく怒りを募らせた。
氷の女王は直ちに対応を下す。最初に鎮圧に派遣されたのは、戦闘に長けた二人の執行官――第十一位「公子」タルタリヤ、第四位「召使い」アレッキーノである。
戦闘狂であるタルタリヤは、ドットーレの反乱にむしろ昂奮を覚え、ついに全力を尽くせる強敵が現れたと喜んだ。配下の精鋭愚人衆を率い、青き稲妻のように反乱軍陣地の奥深くに突入し、首脳撃破戦術でドットーレを仕留めようと狙った。
だが彼は、「博士」がこの反乱のために周到に準備を整えていたことを甘く見ていた。
反乱軍が支配する「錆鉄峡谷」で、タルタリヤの部隊は一撃を浴びせられた。峡谷両側の岩壁にはドットーレが開発した無数の元素干渉装置が隠され、タルタリヤと配下の元素力の行使を大幅に封じてしまう。
さらに恐ろしいのは、峡谷の影から歪な姿をし、腐臭と元素が混ざった気息を放つ合成獣の大群が溢れ出したことだ。これらはドットーレの過去の実験で生まれた「不完全」だが攻撃性に満ちた副産物で、怒涛のようにタルタリヤの陣形に襲いかかる。
タルタリヤ自身は勇猛無双で、邪眼と魔王武装を全開にし、剣閃と水の幻影が無数の怪物を薙ぎ払った。だが尽きることのない改造軍団と合成獣の大群、遠方からドットーレの分身が特殊装置を介して放つ、彼の戦闘習性を狙った神経毒と元素抑制フィールドにより、個人の武勇だけで戦局の劣勢を覆すことは叶わなかった。
一日一夜に及ぶ激戦の末、タルタリヤの部隊は大打撃を受け峡谷を撤退せざるを得ず、彼自身も激しい爆発で重傷を負い、首脳撃破の使命は失敗に終わった。
続いてアレッキーノが部隊を率い、側面から迂回して反乱軍の補給線を断ち、情報網と潜入工作で内部から崩そうと試みた。だがドットーレは既にこれを予見していた。
反乱軍支配地域には厳重な潜入阻止網が張り巡らされ、全ての重要拠点は絶対的な忠誠――あるいは精神支配を受けた改造兵士が守備している。アレッキーノが派遣した精鋭諜報員の大半は行方知れずとなり、わずかに届いた情報からも、ドットーレの中枢地域は防御が堅固で隙がないことがわかった。
同時にドットーレはアレッキーノの側面部隊に自ら攻勢を仕掛ける。精神攪乱波を放つ新型戦闘単位「夢織り手」を投入し、精密な連携と潜行戦を得意とするアレッキーノ配下の部隊を大混乱に陥れた。
アレッキーノ自身は強大な実力と意志で精神衝撃を耐え抜いたものの、指揮系統に亀裂が生じる。決定的な遭遇戦では、司令部がドットーレ配下の精鋭改造兵士小隊の急襲を受け、敵は撃退したものの補給線は遊撃部隊に大打撃を受け、攻勢は停滞を余儀なくされた。
公子タルタリヤの敗北とアレッキーノの苦境の報せはスネージナヤ首都に伝わり、一層の衝撃を与えた。二人の強力な執行官が速やかに反乱を鎮圧できず、むしろ損害を受けたことで、ドットーレ反乱軍の勢いは増し、スネージナヤ国内の各勢力もこの反乱の重大さを見直し始めた。
一方、元愚人衆辺境要塞を臨時指揮拠点とした反乱軍中枢では、別のドットーレの分身が敌我情勢を記した巨大な地図の前に立っていた。前線で二人の執行官を撃退した戦報を受けても、顔に歓びの色はなく、全てが計画通りという冷徹な表情だ。
彼は振り返り、影のようにずっと傍らに佇んでいた片倉小十郎に目を向けた。
「第一段階は完了した」
ドットーレは淡い声で言う。
「伊達公に伝えよ。約束の『識骸旅団』を編成しても構わない。第一陣の素材と専門家を至急送り届けてもらいたい」
片倉小十郎は穏やかに身を屈め、片目に捉えがたい野心の光が宿る。
「ご意向の通り、ドットーレ閣下。主君の使者と物資は既に道中にあります。閣下の王国は、真理を探求する牙と爪を間もなく手に入れることでしょう」
窓の外ではスネージナヤ辺境の風雪が変わらず吹き荒れているが、空気には濃厚な血の臭いと戦煙の気息が充満していた。
極東の風雲が巻き起こした氷原の反乱は、予測不能な方向へと加速して滑り出している。女王の怒りは決して収まることなく、伊達政宗の野望とドットーレの狂気は、まだ序幕を開けたばかりに過ぎない。




