望舒宿屋保衛戦
武田信玄率いる二万の赤備え軍団が望舒宿屋に迫り来るも、八百名の璃月守備兵が高台から雨あられの如く矢を放ち、これを迎え撃った。
城門が落ちんばかりの時、守備兵は敢然と宿屋へ通じる唯一の石橋を爆破。瞬く間に千六百名の甲州精鋭が深淵へ墜落した。
硝煙立ち込める折、地平線より仙雲が湧き立ち——六万の璃月援軍が天兵の如く降り臨んだ!
少年仙人・魈は青き槍を電の如く躍らせ、万軍の中より敵将の首を討ち取る。武田信玄は崩れ落ちた覇業の絵図を遠く眺め、寂しく撤退の命を下した……
朱き潮流が、帰離原の青々とした草原を浸していく。
武田信玄配下の二万甲斐赤備えは、静かに前進を続ける。馬蹄は雷鳴の如く響くのではなく、大地と人心を踏みしめる重く鈍い轟音を奏でる。刀槍の光が荒野の靄を切り裂き、整然たる陣形は精密で冷酷な戦争機械そのもの。「風林火山」の旗が風にはためき、旗下には武田信玄自身が腰を下ろす。偉躯堂々、重き鎧をまとい、眼前の巨岩より生え出でたるかの建物——望舒宿屋を穏やかな眼差しで見つめていた。
宿屋は険しい岩壁に孤立し、眼下には底知れぬ幽谷が広がる。唯一の通路は峡谷を跨ぐ細き石造りの拱橋で、風に吹き飛ばされんばかりに儚い。信玄にとって、これは単なる宿屋ではない。奇妙な要塞であり、璃月の門戸に打ち込まれた釘である。これを抜き去れば、その兵鋒は璃月港の繁栄する腹地へ真っ直ぐ届くのだ。
宿屋最上階の平台には、八百名の璃月守備兵が既に陣を敷いていた。震天する鬨声もなく、磐石のような静寂だけが漂う。千岩軍の兵士らは一人一人長槍を強く握り、弓弦を何度も確かめ直す。鎧は赤備えほど鮮やかではないが、眼差しは岩層に眠る水晶の如く鋭く、足下の土地に固く据わっている。統率する師範が最前に立ち、山風が戦衣の裾をなびかせる。眼下に果てしなく広がる朱き潮流を眺め、表情は微動もなく、固く結んだ唇の線だけが決然たる覚悟を物語っていた。
赤備え軍の先鋒約二千人は、朱き潮の最前線を押し寄せる激浪のように、石橋へと殺到した。橋面は狭く数人が並んで進むのがやっとで、陣形は自ずと狭まる。鉄靴が石板を踏み、整然と心を締め付ける甲高い音を響かせる。盾を掲げ移動する城壁を築き、宿屋の門へ着実に迫りゆく。
距離は刻々と縮まり、向かいの盾に描かれた禍々しき鬼面の紋様も鮮明に見え始めた。
赤備え先鋒が橋の中腹を過ぎ、大半の兵馬がこの虚空に架かる絶路に踏み込んだ刹那、宿屋平台の師範が勢いよく腕を振り下ろした。
「矢を放て!」
一声の喝破が、抑圧された静寂を引き裂いた。
次の瞬間、疎らな矢雨ではない。破壊的な鉄の嵐が巻き起こった!高台に陣取る璃月の弓兵は絶好の地利を得て、力強く放つ必要もなく、高みから真っ直ぐ照準を定め射抜く。矢は空を裂き甲高く鳴き、獲物を狙う隼の如く橋上の敵へ正確に襲いかかる。鋭い鏃先は簡単に革の鎧を切り裂き、鉄鎧の隙間にさえ食い込む。赤備え軍の掲げた盾は直射の矢を防ぐも、高い角度から降り注ぐ矢は、まるで眼を持つかのように無防備な頭部や肩首に突き刺さった。
石橋に悲鳴が一気に湧き上がり、先刻の整然とした足音は跡形もなく消えた。矢に射抜かれ倒れる兵士、欄干から墜落し靄に包まれた深淵へ消える者が後を絶たず、響きさえ地上に届かない。赤備えの突撃は滞り、陣形は混乱に陥る。それでも甲斐の武士の勇猛が彼らを支え、将校の嗄れた怒鳴り声の中、後続の兵は同胞の死体を踏み越え、執拗に前進し、矢を返そうとも試みる。だが下から上への攻め上がりは、璃月軍の濃密な矢の幕の前で無力に等しく、散発的な矢は宿屋の堅固な岩壁に無駄に突き刺さるばかりだ。
戦いは残酷な消耗戦へと移る。赤備え軍が一歩進むごとに数十の命が散り、死体は幾重にも重なり橋面を塞ぐほどになる。滑るような鮮血が石の割れ目を伝い、深淵へ滴り落ちる。それでも璃月軍の矢は尽きることを知らぬかのようだ。
武田信玄は遠くこの様子を眺め、眉を顰めた。配下の猛将・横田高松が馬を走らせ近づき、重い口調で言う。「殿、この強攻では損害が甚大です。一時、兵を引かせましょうか……」
信玄は手を挙げて言葉を遮り、眼差しは依然として冷静を保つ。「狭路にて相まみえる時、勇者が勝つ。璃月の矢もいずれ尽きる。伝令せよ、第二陣を準備させ、矢の勢いが衰えた瞬間に一気に押し寄せ、一挙に突破せよ!」
彼は璃月軍の兵力が限られた弱点を見抜いていた。八百の兵は、どれほど地利を守ろうとも、長くは持たぬはずだ。
宿屋の平台では、師範の腕は疲れしびれていたが、流れ矢を刀で払う動作は微塵も乱れない。周囲を見渡せば、兵士らの顔には疲労がにじみ、矢筒は目に見えて空になりつつある。下方では赤備えの新たな精鋭が橋頭に集結を始め、果てしなく広がる朱色の海が続いていた。
師範は濃厚な血の匂いの立ち込める空気を深く吸い込み、傍らの硝煙と油の跡にまみれた方士に眼を向ける。方士は大きく肯き、複雑な仕掛けの枢軸を強く握りしめる。枢軸から伸びる導火線は足下の岩盤深く埋め込まれ、石橋の基礎部分へと続いていた。
時は来た。
師範の瞳に一瞬の哀しみが過ぎるも、瞬く間に鋼の如き意志に覆われる。この橋は望舒宿屋と外界を結ぶ命綱であり、幾多の行商人が行き交う通路で、璃月の歴史と記憶を背負ってきた。だが今や、敵が故郷へ通じる近道に他ならない。
彼は勢いよく振り返り、戦える全兵士に向け、嗄れながらも戦場の騒音を貫く声で命じた。「千岩軍、聞け! 橋を落とせ!」
ためらいも疑問もない。残された璃月守備兵は最後の力を振り絞り、一層激しい矢で迫り来る敵を抑え、最後の儀式のための時間を稼ぐ。
枢軸を握る方士は全身の力を腕に込め、勢いよく仕掛けを回した!
ゴゴゴ——!!!
雷鳴を遥かに超える轟音が地中深くから迸り、山神の怒りの咆哮の如く響き渡る。崖全体が激しく震える。武田信玄と赤備えの兵士らが愕然と見つめる中、峡谷を繋ぐ雄大な石橋は中央の基礎から目も眩む朱紅の光を迸らせた!巨大な岩塊が荒れ狂う力で空へ放り投げられ、雨のように落下。硝煙と火の粉が空高く立ち上り、濁ったきのこ雲を形作る。
石橋は、橋上に押し寄せた千六百名を超える甲斐の精鋭を巻き込み、天地を揺るがす崩壊音と共に砕け散り、深い谷底へ墜落していく。悲鳴は大轟音に飲み込まれ、一面の朱色は立ち昇る硝煙と絶望の深淵に瞬く間に消し去られた。
この瞬間、世界は静止したかに見えた。
赤備え軍の後続の攻勢は完全に止まり、兵士らは突然現れた大きな断層と、対岸の遠く離れたかに見える望舒宿屋を呆然と見つめる。かつてない寒気が、一人一人の背筋を這い上がった。
微動だにしなかった武田信玄の躯が、わずかに揺れる。軍配団扇を握る指は力の込めすぎで関節が白く浮く。千六百名の最強の武士が、敵の衣の裾に触れることもなく谷底に葬られた。この決断、この犠牲は、生涯戦場を渡り歩いて積み上げた彼の認識を完全に超えていた。対岸の宿屋平台に霞む、硝煙の中でなお立ち続ける影を固く見つめ、初めて言いようのない重圧を覚えた。
だが戦争は終わっていない。束の間の静寂の後、更なる狂気が襲う。多大な損害と相手の決然たる態度に怒りを募らせた残りの赤備え軍は、横田高松・三枝守友ら生き残った将校が血眼になり、別の進路を探し、鉤縄などの道具を使って攻撃を続けようと指揮する。宿屋の璃月守備兵は残された施設を頼り、最後の矢・丸太・岩石を投げ、無駄とも思える執拗な抵抗を続ける。岩壁の一寸一寸が血に染まった。
武田軍が傷ついた獣の如く、我が身を顧みず獲物の喉元を抉り取ろうとし、璃月守備兵が崩れんばかりに防衛線を支える危機の刹那——
東の空が色を変えた。
澄んだ空が見えざる大筆で彩られ、流れる黄金と仙雲の華やかな光に染まる。重く威厳ある角笛の音が戦場の殺し合いと悲鳴を貫き、遠い地平線から響き渡る。初めは微かな音も、やがて大きく潮のように押し寄せ、天地全体に鳴り響いた。
武田信玄は勢いよく振り返る。
瞳が一瞬にして収縮した。
見渡す限り、帰離原の地平線全体に黄金の潮流が湧き起こる!それは陽光の反射ではなく、整然と陣を組む無数の璃月援軍だ。千岩軍の鎧は輝き、長槍は森の如く立ち並び、璃月の紋章を織り込んだ大旗が風に翻る。陣列の間には異術を操る方士らが淡い雲を誘い、大軍の行軍に仙家特有の荘厳と威厳を宿らせている。
六万!間違いなく六万名を超える新戦力だ!
彼らはあまりに迅速、あまりに静かに現れ、戦場に迫り来て初めて雷霆の如き勢いを現す。黄金の潮流が原野を浸し、拒むことのできぬ圧迫感をもって、混乱した武田軍の側面と後陣へ押し寄せる。
この黄金の潮流の最前線に、青き一つの影が視覚を超える速さで躍動する。
疾風の如く、稲妻の如く。
角笛が鳴り響いた瞬間、青き光は混乱する武田軍の前陣に突入した。通り過ぎる場所、赤備えの武士は見えざる利刃で切り裂かれ、馬も人もなぎ倒され、誰一人一瞬たりともその行く手を阻む者はいない!
武田信玄配下の猛将・横田高松は太刀を振るい、陣を立て直すよう厳しく叱咤していた。突然、身辺から刺すような寒気が襲う。幾多の生死の戦いで養われた本能だ。勢いよく身を捻り、太刀を構えて受け止める!
カーン!
耳を裂く金鉄の激突音!
受け止めた!風の元素力を纏い青く煌めく槍の穂先を、辛うじて防いだのだ!
だが力の差は歴然としていた。槍先に宿るのは山岳を引き裂かんばかりの荒ぶる力。横田高松は抗う術もない強大な力が刀身を伝うのを感じ、虎口は裂け、太刀は手を離れ飛んでいく。襲い来る者の顔すら確かめる間もなく、感情のない冷たい金色の瞳と、風になびく濃緑の髪先がちらりと映っただけだ。
次の瞬間、青き槍の刃が毒龍の如く突き刺さり、喉を貫いた。
横田高松、戦死す!
ほぼ同時刻、近くの三枝守友は横田高松が落馬する光景を目の当たりにし、驚きと怒りに駆られる。弓を引き絞り、生涯修行した気を矢に込め、槍を引き抜いたばかりの青き影に狙いを定める。
矢は弦を離れない。
その青き影は背中に眼を持つかのように、振り返りもせず槍を手後ろに一振りした。
シュッ——!
切れ味無比の風刃が槍先から放たれ、矢を超える速さで空を裂き飛来!
三枝守友は眼前で急速に広がる青き閃光を見る間もなく、意識は永遠の闇に閉ざされた。額の真ん中に細い血筋が走り、頭蓋を貫いていた。
瞬く間に、二人の猛将が討ち取られた!
青き光が収まり、魈の姿が現れる。傾いた旗の先に片足で立ち、和璞鳶を手に槍先を斜めに地面に突きつける。鮮やかな槍の刃を紅き血珠が伝い落ちる。無表情なまま、主将を失い一層の混乱に陥った敵軍を見下ろし、蟻塚を眺めるがごとくだ。
終わった。
武田信玄は遠くこの光景を眺め、心にただ二文字が残る。
横田、三枝は信玄が頼りとする両腕であり、軍に勇名を轟かせた猛将。それが少年の姿をした仙人の前に、一合も持たず散った。前方には地利を守る残兵が立ち籠り、側面と後方には六万の璃月精鋭が包囲を迫る。士気は崩れ、猛将は失われ、地利も完全に失った……
彼はゆっくりと瞳を閉じ、硝煙と血の匂い充満した空気を深く吸い込む。再び瞳を開けた時、心の波澜はすべて凪ぎ、深い疲労と無念だけが残っていた。
「伝令せよ……」嗄れた声が、身辺の伝令兵一人一人に鮮明に届く。「全軍……撤退せよ。」
撤退の角笛が物悲しく響き、璃月軍の進軍を告げる雄大な角笛と絶望的な対照をなす。赤備えの残党は引き潮のように慌ただしく後退し、旗・兵器・同胞の死体を大地に捨て去る。
武田信玄は、未だ堂々と立ち難攻不落の如き望舒宿屋を最後に眺め、黄金と青が織りなす璃月の空を仰ぐ。そして馬の向きを変え、敗走する朱き潮流の中へ消えていった。
彼の覇業の夢、璃月へ進軍する野望は、崩れ落ちた石橋の如く、この日完全に砕け、底知れぬ深淵へ沈み去った。
本章は史実を基にしている。1937年8月13日に勃発した上海事変(淞沪会戦)である。
上海の大半を占領した日本軍は、四百余名の中国守備軍が籠もる四行倉庫を陥落させようと企てたが、守備軍の頑強な抵抗に遭った。
最終的に中国軍は倉庫から上海の外国租界へ撤退した。
中国軍の戦死者はわずか9名に対し、日本軍を四百名以上討ち取った。




