↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
111/130

対馬島沖撤退戦

龍旗、東を指す


対馬島沖、珍島より西二十里、寅の四刻。


鎮海号の船室には血のにおいと火薬のにおいが渦巻いていた。李舜臣は砕けた舷窓にもたれ、左腕は滲む血で汚れた包帯で簡単に巻かれ、右手は腰の剣柄をしっかり押さえている。視線は硝煙に包まれた海面を突き抜け、遠方に立ち昇る炎に釘付けになった。


「対馬島が……燃えている」

副将の宋希立の声はしゃがれ、抑えきれない昂奮をはらむ。「統制使殿、倭寇の穀倉、火薬庫……すべて炎に飲まれました!」


李舜臣は返事をしない。ただますます大きくなる火を眺め、夜空に赤竜のように翻る焔、月を血に染める濃煙を見つめ続けた。長い沈黙の後、ゆっくり剣柄から手を離す。


「あの子たちは……やり遂げた」


声はか細いが、船室の将兵全員の目に涙を浮かべさせた。この二時間、十六隻の亀甲船は脇坂安治の六十余隻の水軍と交戦し、陣形は三度崩され、二度は包囲されかけた。刻々と兵が倒れ、血肉で突破口を塞ぐ者が続出した。


だが、すべては無駄ではなかった。


あの炎こそ、すべての犠牲に対する答えなのだ。


「命令を伝えよ」李舜臣は身を翻し、磐石のような落ち着きを取り戻す。「各船、煙幕弾を発射し戦場を離脱せよ。目標は明国沿岸、鴨緑江河口とする」


「承知いたしました!」


命令は波紋のように広がる。亀甲船の砲門から特製の煙筒が次々と放たれ、白い濃煙が瞬く間に海面を覆い、一夜に湧き上がった霧の如く朝鮮水軍の姿を呑み込んだ。


脇坂安治の旗艦にて、日本水軍提督は目前まで捉えた獲物が霞の中に消えるのを見て怒り、舷の欄干を一刀で断ち切った。


「追え!追跡せよ!」


しかし誰も応じられない。風向きが急変し、煙は晴れるどころか日本艦隊へ押し寄せた。さらに致命的な報せが後方から届く——対馬島の物資拠点は全滅、福島正則は戦死した。


刀を握る脇坂安治の手は震え、やがて力なく垂れ下がる。


「……撤退せよ」




鴨緑江河口、明国沿岸、辰の初刻。


朝霧が晴れきらず、水平線に魚の腹のような淡い光が滲む。鎮海号を先頭とする七隻の亀甲船がゆっくり河口へ進む。船体は傷だらけ、帆は銃弾の穴だらけ、甲板には徹夜の激戦の血痕が残る。


だが、どの船も無事に帰還した。


沿岸を守る明兵は即座に警戒態勢に入る。望楼の旗が翻り、狼煙台に警報の煙が上がり、一隊の騎兵が駆けつける。だが朝鮮の軍旗と亀甲船の独特な姿が霧から現れると、警戒は驚きへ、驚きは厳かな敬意へと変わった。


「李舜臣将軍の艦隊だ!」


報せは野火のように広がる。鴨緑江の明水寨は速やかに水門を開き、誘導船を派遣して導く。桟橋の守備官は馬を走らせ、本営に急報を届けた。


鎮海号が桟橋に横付けされる頃、岸辺には人々が厳かに並んでいた。警戒の槍は構えられず、ただ黙って見守る礼が捧げられている。明の将兵は李舜臣の伝説を知っていた——閑山島で十二隻の板屋船で百を超える日本船を打ち破った海の英雄;玉浦、合浦、赤珍浦で連戦連勝しながら讒言により投獄された名将;再起後、残された亀甲船だけで日本水軍の喉元を押さえ続けた不屈の闘士。


今、その伝説の男が船首に立つ。鎧は血に染まり、疲労に覆われながら松のように真っ直ぐに身を起こしている。


「朝鮮水軍統制使・李舜臣、明国皇帝陛下に謁見を願う」徹夜の指揮でしゃがれた声だが、一字一句は鮮明に響く。「共にテイワット連合義勇兵数名を伴う。いずれも倭寇討伐に功のある者たち。どうか引き合わせを賜りたい」


言葉が響くと、岸辺の兵士たちは顔を見合わせ愕然とした。


テイワット?それはどこの土地か?義勇兵とは何者なのか?


だが李舜臣の後ろから上陸する人々が目に入る。異色の瞳を持つ金髪の少年剣士;狐耳が揺れる白い衣の女;巨大な鉄鍋を背負う少女;不気味な木箱を抱える茶髪の少女;冷気をまとう青髪の女;手首に藍色の糸を巻く謎めいた女;クロスボウを背負う颯爽とした狩人。


緑の外套をまとい竪琴を抱えた少年が、にっこりと彼らに手を振っている。


彼らの服装、雰囲気、存在そのものが明の将兵の常識を超えていた。


だが誰もが彼らの傷、血痕、疲労を見て取る。そして李舜臣と並び立つ時の、言葉を要さない信頼の絆を。


彼らは戦友なのだ。


「少々お待ちください」守備官は厳かに拳を合わせる。「ただちに本営へ急報を届けます」




巳の三刻、鴨緑江畔、明軍本営。


本陣の幕舎で李如松は自ら陣門まで出迎えた。対馬島の大炎、珍島沖の寡兵で挑む激戦の報せはすでに届いていた。李舜臣と初潮小隊を目の前にすると、普段沈着な老将も思わず声が詰まる。


「李将軍……」李舜臣の手を握る。「ご苦労であった」


李舜臣は首を振り、しゃがれた声で語る。「これは臣の務めに過ぎません。だがこのテイワットの若者たち……」横に身を寄せ、空たちを示すと、心底からの感謝が宿る。「彼らが対馬島を奇襲してくれなければ、今日の脱出は叶わなかったでしょう」


李如松は重く頷き、空たちの方へ向き直り深く一礼する。


「諸君の高義に、明と朝鮮を代表して謝する」


空は慌てて支える。「将軍、過分なお言葉です。侵略者のいる場所に、我々は赴く。それがテイワットで学んだ道理です」


幕舎の和やかな空気は、外から響く激しい馬蹄音によって断たれた。伝令兵が馬から転がり落ち、幕舎に飛び込んでくる。


「報告!陛下は営外五里の地点に到着されました!」


幕内は一斉に驚きに包まれる。


李如松は勢いよく立ち上がる。「陛下?いつ都を発たれたのか?」


「将軍。陛下は三千神機営、大学士の趙志皐、兵部尚書の石星ら重臣を率い、三日前に遼東へ到着されました。今朝早く、日本水軍の動向とテイワット援軍の報せが届き、陛下はこう仰ったのです……」伝令は一瞬黙り、衝撃的な言葉を思い出そうとする。


「『李舜臣という海将でさえ命を捨て義を尽くす。天下の主たる朕が、宮城に安座していてよいはずがない!』」


幕内は静まり返る。やがて李如松は陣門へ歩み出し、諸将が続々と従う。


空は八重神子の方を見やる。神子は狐の尾を軽く揺らし、いつものふざけた雰囲気を消していた。


「万暦皇帝、朱翊鈞……」彼女は静かにつぶやく。「十歳で即位し、三十年近く治世を続けている。治世前期は張居正の補佐を受け国勢は隆盛した。近年は太子立儲問題で群臣と対立しているが……」


言葉を選び、一息置く。「祖父の嘉靖皇帝の猜疑心、父の隆慶皇帝の寛大さを併せ持つ人だ。親征は即位以来初めて。朝鮮の戦乱が、ついに彼の逆鱗に触れたようだ」


空は肯き、諸将に従って出迎えに向かう。


陣門の外では黄塵が舞い上がる。三千神機営の兵が森のように列をなし、火銃を肩に弾帯を身に巻き、十人ごとに小型虎蹲砲が配備されている。これは儀仗兵ではなく、即時戦場に投入可能な精鋭だ。


黄色い羅紗の御傘の下、一騎がゆっくり進んでくる。


馬上の中年の男は明黄色の鎧を身にまとい、帝冕はかぶらず金冠で髪を束ねている。肖像画より顔つきはやせ、目の下に薄い隈が走る——長年の不眠の痕だ。だが陣門に並ぶ将兵を眺める瞳は、朝の星のように輝いている。


万暦皇帝・朱翊鈞、遼東前線に臨まれた。


李如松ら諸将は大礼を捧げようとするが、皇帝は手を挙げて制止する。


「ここは紫禁城ではない。将軍、礼に拘らぬように」声は大きくないが、長年帝位に座る者特有の落ち着いた威厳を帯びる。「あの方々が……テイワットから来た義士たちか?」


空は一歩前に出て、テイワット共通の胸に手を当てる礼を示す。


「テイワット連合義勇小隊、旅人・空。明国皇帝陛下にご挨拶申し上げます」


その後ろ、八重神子、甘雨、夜蘭、茜特菈莉、胡桃、香菱、ウェンディ——さらに平壌から徹夜で駆けつけた申鶴、刻晴が順に礼を取る。平伏も山呼もなく、戦士同士の敬意だけが存在する。


幕内に短い沈黙が流れる。


皇帝は語らない。視線がこの奇妙な一団を一人ずつなぞる:金髪少年の剣に刻まれた異界の紋様;紫の靄をまとう狐耳の女;鉄鍋を背負う少女が緊張して袖をもむ様;木箱を抱えた茶髪の少女の潤んだ瞳……


彼らの血痕、包帯、隠しきれない疲労。そして瞳に消えない光を見届ける。


「戦報はすべて読んだ」皇帝がついに口を開く。「平壌城下の雷と氷;対馬島の穀倉炎上、将討ち取り;珍島沖の十六隻で六十隻に挑む戦い……」


声は低く、一字一句がはっきり響く。


「朕は当初、将兵の士気を鼓舞するための誇張された物語だと思っていた」一息置き、李舜臣の腕から滲む血の包帯、空の鞘に残る倭刀の傷跡を眺める。「今にして知る……朕の見識が浅かった」


彼は一歩下がる。


幕内の誰もが息を呑む——随行する趙志皐大学士、石星兵部尚書、李如松、李舜臣、すべての将兵が。


明第十五代天子・朱翊鈞は、遠き異郷から来た義勇隊に向かい、ゆっくりと両手を重ね、深く一礼した。


「明の天子、朱翊鈞。朝鮮数千里の焦土、遼東の多くの戦死者、天下すべての生きる民に代わり——」


声はしゃがれながらも力強く響く。


「諸義士に謝する」


幕内はしんと静まり返った。


空は目の前の帝王を呆然と見つめる。テイワットで七人の神、無数の英雄、千年を生きる仙人に会った。だが、文武百官、数万の兵士の前で、異国から来た義士たちに身を屈める皇帝には、一度も出会ったことがない。


なぜこの王朝が幾多の内憂外患の中で二百余年を保ち続けられたのか、彼は唐突に理解した。


「陛下」空は皇帝の腕を支えて起こし、自身の声も潤む。「我々はただ、為すべきことを成したに過ぎません」


皇帝は身を起こし、空を深く見つめる。史書に「猜疑心が強く、怠政、恩知らず」と記される瞳が、今は澄んでいる。


「為すべきこと……」言葉を繰り返し、やや物悲しい笑みを浮かべる。「この四文字を一生かけて悟れぬ者がどれほど多いことか」


身を翻し、幕内の諸将、陣門外に並ぶ数千の神機営、遠くに霞む朝鮮の山河に向き直る。


「朕の勅命を伝達せよ」声は帝王の威厳を取り戻し、かつてない鋭い決断に満ちる。


「李舜臣は忠勇顕著。三道水軍統制使に昇進し、尚方剣を賜り、臨機応変に事を裁くことを許す」


「李如松は即日軍を率いて南下し、平壌包囲を解き、三都を奪回せよ。朕は自ら神機営を率いて後方支援となる」


「テイワットの諸義士については……」


言葉を止め、空と、傷を負いながらも真っ直ぐ立つ小隊へ視線を向ける。


「明の領土内、テイワット義士が赴く場所すべてで、国士として遇する。必要な糧食、兵器は速やかに潤沢に支給せよ。願い事があれば直接朕に届けてよい」


追加の一文を口にする。「諸君が留まりたいなら館を建てて迎え、去りたいなら使者を派遣して護衛する。明は……永遠に諸君の友となる」


空は深く礼を捧げる。


「陛下、ありがとうございます」


ウェンディが竪琴を弾き、軽やかな調べが幕内に流れ、重たい雰囲気を和らげる。彼は皇帝に笑いかける。「陛下、ちょっとした願い事があるのです~」


皇帝は眉を上げる。「申してみよ」


「シャンリンの調味料が底をつきました。特に絶雲唐辛子が足りません」ウェンディは真剣な面持ちで語る。「明国に似た唐辛子はありませんか?できればとても辛いものを!」


諸将は驚き、やがて吹き出す者が現れる。皇帝も一瞬呆然とした後、大きく声を上げて笑った。


その笑い声が最後の隔たりを消し去る。


シャンリンは顔を赤らめウェンディを引き戻す。胡桃は機を見て往生堂の「皇帝専用葬儀プラン」を売り込もうとし、刻晴に頭を叩かれ引き離される。夜蘭は困り果て額を押さえ、甘雨がシャンリンをそっと慰め、茜特菈莉はこの仲間たちと知らないふりをする。


八重神子は神楽鈴を静かに揺らし、唇に笑みをたたえる。


空は幕舎の中に立ち、賑やかな一同を眺め、外の北国の晴れ渡った空、遠くに霞む朝鮮の山河を見つめる。


戦争はまだ続いている。平壌は包囲下にある。宮本武蔵は朝鮮へ到着した。豊臣秀吉が手を引くはずはない。


だが今、異国の大地、古き王朝の皇帝の前、七カ国の英傑からなる奇妙な一団の中で——


久しく感じられなかった温かいものが胸に湧き上がる。


それは「居場所」という名のものだ。


鴨緑江の水は静かに東へ流れる。江畔の明軍営で炊事の煙が立ち昇る。シャンリンはついに適した唐辛子を手に入れ、仮設の竈で新料理を試すのに夢中になる。胡桃は木箱を開け、好奇心のある明兵を集め「生前予約割引プラン」を紹介する。ウェンディは神機営の楽師たちと曲を交わし、トワリンの小さな風の結晶が琴頭に吊るされ、旋律に合わせてかすかに輝く。


李舜臣と李如松は並んで地図の前に立ち、平壌救援へ南下する進路を検討する。皇帝は傍らに座り、静かに耳を傾け、時折意見を挟む。


幕舎の外、空は一人立ち、川の流れる先を眺める。


足音が響く。刻晴だ。


「何を考えているの?」


「平壌のことだ」空は答える。「申鶴先輩とシャンリンが城を守った日々。弥助……ポルトガルまで辿り着けただろうか。蛍……もし彼女だったら、どうするだろう」


刻晴は黙ったまま、同じ川を眺め、彼の隣に並ぶ。


長い沈黙の後、空が話し出す。


「この戦争が終わったら……テイワットへ帰って、彼女を探し続けたい」


「うん」


「だがこの土地のことは忘れない。朝鮮の紅葉、対馬島の炎、鴨緑江の朝霧」


「うん」


「そして君たちのことも」


刻晴は顔を向ける。夕陽に紫の瞳が柔らかく輝く。「私も忘れる」のような甘い台詞は口にせず、ただ穏やかに頷くだけ。


それで十分だった。


夕日が江面に沈み、鴨緑江が金紅に染まる。背後の幕舎から「新料理ができたよ!」とシャンリンの歓声、胡桃の鈴の音、ウェンディの琴の音が漂ってくる。


明日、彼らは再び旅立ち、南下し、終わらぬ戦場へ向かう。


だがこの瞬間、古き王朝の国境で、肩を並べ戦った仲間たちに囲まれ——


束の間の安らぎを得ていた。


それだけで、一生記憶に刻む贈り物になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。