第六話:聖女の告白と寄生の聖遺物
聖女リアーナ。
その名は、エルリックのような世事に疎い人間ですら知っている。太陽神の教えを広め、その奇跡の力で民を癒し、導く、王国の至宝。数年に一度、王都で行われる祝祭の際には、その姿を一目見ようと沿道に民が溢れかえるという。
そんな雲の上の存在が、今、自分の目の前にいる。
それも、助けを求める、ひどく弱々しい姿で。
「……っ!」
エルリックの思考は、完全に停止した。
(聖女様……が、なぜこんな場所に? 私に、命を救ってくれ、と? 何かの間違いだ。手の込んだ悪戯か、あるいは私を陥れるための罠か? ギデオンの差し金か?)
疑念と混乱が、嵐のように頭の中を駆け巡る。彼が何よりも望んでいるのは、静かで平穏な生活だ。国家や宗教の最重要人物に関わるなど、面倒事の極みであり、最も避けなければならない事態だった。
しかし、目の前の少女の瞳は、そんなエルリックの猜疑心を打ち砕くほどに、真に迫っていた。それは絶望の淵に立ち、最後の藁にもすがるような、切実な光だった。そして、彼女の全身から発せられる、生命力が削り取られていくような、か細い「痛み」の気配が、彼女の言葉が真実であることをエルリックに告げていた。
彼は、深く、長い溜息を一つ吐いた。
どうやら、望んでいた隠遁生活は、思ったよりも早く終わりを告げるらしい。
エルリックは店の入り口まで歩いていくと、「準備中」の札を「閉店」に裏返し、扉に鍵をかけた。そして、リアーナに向き直り、できるだけ穏やかな声で言った。
「……立ち話もなんです。どうぞ、奥へ。まずは、温かいお茶でもいかがですか。体を温めるハーブを淹れます」
彼の予期せぬ対応に、リアーナは少し驚いたように目を見開いたが、こくりと頷いた。エルリックは彼女を店の奥にある小さな応接スペースへと案内し、手際よくカモミールとミントをブレンドしたハーブティーを淹れた。
湯気の立つカップをそっと差し出すと、リアーナは震える手でそれを受け取った。温かい液体が喉を通ると、強張っていた彼女の心身が、少しだけ解けていくのが分かった。
「……ありがとうございます。あなたは、驚かないのですね」
「驚いていますよ。心臓が口から飛び出そうです」
エルリックは正直に答えた。「ですが、あなたは『聖女』である前に、助けを求める一人の『依頼人』だ。そして私は、この店の店主です。まずは、あなたのお話を聞かなければ始まりません」
その実直な言葉に、リアーナは心を決めかねていた最後の壁が、音を立てて崩れるのを感じた。目の前の青年は、自分を「聖女様」としてではなく、一人の人間として扱ってくれている。ヴァレリウスが彼を「賢者」と評した理由が、少しだけ分かった気がした。
彼女は、意を決して、自らの秘密を語り始めた。
「……私が、常に身に着けているこの首飾りを、ご存じですか」
リアーナが指し示したのは、彼女の胸元で白金の輝きを放つ、美しい首飾りだった。中央には拳ほどの大きさの、透き通るような宝珠が嵌め込まれている。
「ええ。『聖女の涙』と呼ばれる、太陽神が授けたとされる伝説の聖遺物……だと、聞いています」
教会によれば、その聖遺物は聖女の奇跡の力を増幅させ、その身を守る神聖な武具である、と。
「……それは、表向きの話です」
リアーナは、自嘲するように唇の端を歪めた。
「確かに、これを身に着けている間、私の身体からは強大な聖なるオーラが放たれます。民はそれを見て、私を本物の聖女だと信じ、祈りを捧げる。ですが、その力の源は、神の祝福などではありません」
彼女は、告解するように、真実を口にした。
「この聖遺物は、私の生命力を吸い上げ、それを聖なるオーラに変換しているのです。これは……私の命を糧に輝く、寄生の呪物です」
エルリックは息を呑んだ。寄生権能の呪い。呪物の中でも、最も悪質で厄介な分類の一つだ。
「では、外せばいいのでは?」
「それができれば、苦労はしません」とリアーナは力なく首を振った。「これは、聖女たる私の正当性の証。これを外せば、私の身体から聖なるオーラは消え失せる。そうなれば、教会内の政敵たちは、私を『偽りの聖女』として断罪し、その座から引きずり下ろすでしょう。そうなれば、教会、ひいては王国に、どれほどの混乱が起きるか……」
彼女は罠に嵌められた鳥だった。聖女という籠の中で、その命を少しずつ、しかし確実に蝕まれている。
「どうか、これを見てください」
リアーナは、震える手で首飾りを外し、エルリックに差し出した。
エルリックは、それを受け取った瞬間に、その異常さを理解した。見た目の神々しさとは裏腹に、その奥底からは、まるでブラックホールのように、周囲のエネルギーを貪欲に吸い上げるような、冷たく無機質な気配が漂っていた。
彼は覚悟を決め、宝珠に指を触れた。
【呪物鑑定】――。
流れ込んできたのは、感情ではなかった。
それは、設計図。複雑怪奇な魔法の術式と、冷徹なまでの機能美。
――エーテルガルド覇権帝国時代。巨大な魔導兵器の中枢動力炉として、この『珠』は作られた。生物の生命力を魔力に変換し、半永久的にエネルギーを供給するための、禁断の装置。
――帝国が崩壊し、数百年後。偶然これを発見した太陽神教会の人間が、その強大なオーラを神の奇跡と誤認し、聖遺物として祀り上げた。
これは、信仰の対象などではない。古代文明が遺した、超高度な魔導テクノロジーの産物だった。
「……これは、聖遺物などではありません」
感応を終えたエルリックは、静かに、しかし断言した。
「これは、古代帝国が遺した、生命力変換装置です。いわば、あなたを『生きた電池』にするための、美しい籠です」
リアーナの顔から、血の気が完全に引いた。薄々感じていた最悪の推測が、専門家の口から断定されたのだ。
「……やはり。では、この呪いを、解くことは……?」
「破壊すれば、おそらくあなたも無事では済まないでしょう。あなたの生命力は、もうこの聖遺物と深く絡み合いすぎている。無理に引き剥がそうとすれば、魂ごと引き裂かれかねない」
絶望が、再びリアーナの瞳を覆う。
だが、エルリックは続けた。
「ですが、方法が全くないわけではありません」
彼は、聖遺物をリアーナに返しながら言った。
「今すぐ『治療』することは不可能です。ですが、この装置の仕組み、その設計思想を完全に理解し、安全にあなたとの接続を断つ方法が見つかるかもしれません。そのためには、これを作った者たち……エーテルガルド覇権帝国について、徹底的に調べる必要があります」
それは、途方もなく困難な道筋だった。失われた古代文明の謎を解き明かすなど、一個人の手に負えることではない。
しかし、リアーナの瞳には、数年ぶりに、確かな希望の光が宿った。
「……あなたを、信じます」
エルリックは、天を仰ぎたくなった。望んだはずの静かな生活が、音を立てて崩れていく。彼はただの骨董品屋の店主で、世界の謎を解き明かす英雄などではない。
だが、目の前で命の危機に瀕している少女を見捨てるほど、彼は薄情ではなかった。それに、鑑定士として、この古代の遺物が持つ謎そのものに、抗いがたいほどの知的好奇心を刺激されているのも、また事実だった。
「……分かりました。お引き受けします。ただし、いくつか条件があります」
彼は、この厄介極まりない依頼を受ける覚悟を決めた。
「一つ、あなたの正体は、ここでは決して明かさないこと。あなたは、ただの依頼人『リア』です。一つ、調査には時間がかかることを覚悟してください。そして、もう一つ」
エルリックは、リアーナを真っ直ぐに見つめて言った。
「この店を、あなたの秘密の拠点にすることは許可しますが、私のスローライフを、可能な限り邪魔しないこと。……以上です」
最後の条件に、リアーナは一瞬呆気にとられたが、やがて、ふふ、と小さく笑みを漏らした。それは、彼女が聖女の仮面を脱ぎ捨てて見せた、年相応の少女の笑みだった。
「承知いたしました、店主殿」
こうして、辺境の寂れた骨董品店は、聖女の命運を懸けた極秘作戦の拠点となった。
エルリックは、これから始まるであろう嵐のような日々を思い、ハーブティーをもう一杯、淹れ直すのだった。




