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第七話:二つの顔を持つ店主

聖女リアーナが、変装して店を訪れるようになってから、一ヶ月が経った。

エルリックの生活は、奇妙な二重構造を描き始めていた。


昼間の『エルリック骨董品店』は、以前にも増して、辺境の町ののどかな風景に溶け込んでいた。彼の不思議な力が口コミで穏やかに広まった結果、様々な品物と、それにまつわる人々のささやかな悩みが持ち込まれるようになったのだ。


ある日は、パン屋の主人が「どういうわけか、この麺棒を使うとパンが酸っぱくなる」と、先祖代々の麺棒を持ち込んできた。エルリックが鑑定すると、初代のパン職人がライバル店への嫉妬から、相手のパンが不味くなるよう願掛けをした、その執念が染み付いていることが分かった。彼は麺棒を聖水ならぬ清水で丁寧に清め、「これからは、美味しいパンを作る喜びだけを込めてください」と助言して、問題を解決した。


またある日は、若い猟師が「この弓を使うと、なぜか獲物の急所を外してしまう」と、父親の形見の弓を持ってきた。鑑定の結果、弓には父親の「息子に自分と同じ危険な仕事についてほしくない」という、愛情ゆえの切なる願いが宿っていることが判明した。エルリックは猟師にそのことを伝え、弓に向かって猟師としての覚悟と、父親への感謝を語りかけるよう促した。そうすることで、父の魂は安堵し、弓は本来の性能を取り戻した。


それらは、王都のギルドが扱えば一笑に付されるような、取るに足らない小さな「呪い」ばかりだった。だが、エルリックは一つ一つの品物と、その持ち主に真摯に向き合った。手数料は、パンや獲物の肉で受け取ることも多かった。

彼の店は、いつしかオークヘイブンの人々にとって、困った時の駆け込み寺のような、温かい場所になりつつあった。エルリック自身も、このささやかで穏やかな営みに、確かな充足感を感じていた。


だが、夜になると、店の様相は一変する。


「閉店」の札を下げ、分厚いカーテンを引いた店内は、古代帝国が遺した巨大な謎に挑む、秘密の研究室と化した。

エルリックは、王都から持ち出した数少ない蔵書――そのほとんどが、常人には価値の分からない、古代文明に関する奇書や古文書だ――を広げ、リアーナの聖遺物に関する手がかりを探し続けていた。


そして、三日に一度ほどの頻度で、夜の闇に紛れて「リア」が店を訪れる。

彼女は、エルリックが淹れるハーブティーを飲みながら、昼間の聖女としての公務の疲れを癒し、エルリックの研究の進捗報告に耳を傾けるのが常だった。


「どう、エルリック。何か分かった?」

その日も、旅商人の娘を装ったリアーナが、心配そうな顔で尋ねた。

エルリックは、山と積まれた古文書の中から顔を上げ、静かに首を振った。

「いえ……エーテルガルド覇権帝国に関する記述は、あまりにも断片的で。彼らの魔導技術、特に生命力を扱うようなものは、禁断の技術として徹底的に秘匿されていたようです」


リアーナの顔に、落胆の色が浮かぶ。彼女の体調は、日に日に悪化していた。聖女の公務は精神的な消耗が激しく、それが聖遺物による生命力の吸収を、さらに加速させているらしかった。最近では、笑顔を取り繕うことすら、億劫に感じることがあるという。


その青白い顔を見て、エルリックは少し躊躇った後、口を開いた。

「……リアさん。少し、腕を見せてください」

「え?」

言われるがままにリアーナが差し出した、細く白い腕。エルリックはその手首に、そっと指を触れた。聖遺物そのものに触れるのは危険すぎるが、その影響が及んでいる彼女の身体に触れることで、限定的な鑑定が可能だった。


彼は目を閉じ、彼女の体内を流れる生命力の流れに意識を集中させる。それは、まるで砂時計の砂が落ちるように、一定の速度で胸元の首飾りに吸い取られていた。

エルリックは、その流れを阻害しないよう、細心の注意を払いながら、自身の微かな魔力を彼女の体内に送り込んだ。それは、呪いを解くような強力なものではない。傷を癒すハーブのように、ただ、弱った生命力の循環を、ほんの少しだけ助けてやるための、応急処置のようなものだった。


「……温かい……」

リアーナが、ぽつりと呟いた。冷え切っていた指先に、じんわりと温もりが戻ってくるのを感じる。心なしか、体の重さも少しだけ軽くなったようだった。

「気休め程度ですが……。定期的に、こうしてあなたの力の消耗を、少しでも和らげることはできるかもしれません」

「いいえ、気休めなんかじゃないわ。ありがとう、エルリック」


リアーナは、心からの笑みを浮かべた。それは、民の前で見せる慈愛に満ちた聖女の微笑みではなく、一人の少女としての、素直な感謝の表情だった。エルリックは、その笑顔に少しだけドキマギしながら、慌てて古文書に視線を戻した。


昼間は、町のパン屋の心配をする。

夜は、聖女の命を心配する。


自分の置かれた状況の、あまりの突飛さに、エルリックは時々眩暈がしそうになる。彼が望んだのは、ただの静かな骨董品屋の日常だったはずだ。それがどうして、国家の最高機密を扱うスパイ映画のようになってしまったのか。


(……でも、不思議と、嫌じゃないんだよな)


誰かの助けになれること。自分にしかできないことがあるということ。それは、ギルドで「役立ず」と蔑まれていた頃には、決して得られなかった感情だった。


その時だった。

古代帝国の紋様について書かれた、分厚い革表紙の本をめくっていたエルリックの手が、ぴたりと止まった。

あるページの片隅に描かれた、見覚えのある紋様。それは、リアーナの聖遺物の宝珠の台座に、微かに刻まれていたものと、酷似していた。


「……これだ」

エルリックの声に、リアーナも隣に寄り、彼の指差す先を覗き込んだ。

そこには、紋様と共に、古代帝国の文字で短い注釈が記されていた。長年の研究で、エルリックは辛うじてそれを読むことができた。


「……『魂の器』……計画……。被検体からの、過剰なエーテル抽出を抑制するための、制御印……?」

それは、断片的な技術メモのようだった。だが、そこには、エルリックとリアーナが血眼になって探していた、決定的な単語が記されていた。


「製造施設……『アルテラの沈黙工房』にて、最終調整……」


「アルテラの沈黙工房!」

リアーナが、息を呑んでその名を繰り返した。

「聞いたことがあります。帝国の崩壊と共に、湖の底に沈んだとされる、伝説の魔導工房……。そこに、この呪いを……いいえ、この装置を制御する手がかりが?」


エルリックは、興奮を抑えながら頷いた。

「間違いありません。工房そのものを見つけるのは不可能に近いでしょう。ですが、その工房に関する研究資料や設計図が、どこかに残っている可能性はあります。王立図書館の禁書庫あたりなら……」


ようやく見えた、一条の光。

それは、あまりにもか細く、遠い光だったが、暗闇の中を進むしかなかった二人にとって、何よりも明るい希望の道標だった。


エルリックは、リアーナの顔を見た。彼女の瞳は、ここ数週間見せたことのないほどの力強い輝きを宿していた。

彼は、決意を固めた。


(スローライフは、しばらくお預けか……)


こうして、辺境の骨董品屋の店主は、失われた古代帝国の謎を解き明かし、聖女を救うという、壮大な冒険の第一歩を、不本意ながらも、しかし確かに踏み出したのだった。

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